最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●日本の非常識

2011-04-25 12:18:06 | 日記
【常識という非常識】

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まず、こんな話。
実際、あった話。
じっくりと読んでほしい。
つまりこの話を読んで、あなたはどう感ずるか?
それを心の中で、さぐってほしい。

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●ある中華料理店

 10年ほど前のこと、中国の北京から1組の夫婦が、その通りにやってきた。
夫の方は、父親が日本人だった。
妻の方は、生粋の中国人。
その夫婦は、通りの一角に、中国料理店を開いた。

 最初は、結構、繁盛していた。
「1日、日本で働けば、中国での1か月分の稼ぎになる」と、
その夫婦は、そう言って喜んでいた。
が、そこへ不景気の嵐。
1、2の店がシャッターを下ろしたのをきっかけに、客足が通りから急速に遠のいた。
そのときのこと。

 その中華料理店の隣が、中高年以上の女性を相手にしたブティック。
さらにその隣が、印鑑屋。
そのブティックの店が、週休2日から、週休4日になった。
実際には、午後の数時間だけ、店を開いた。
印鑑屋も、シャッターを半分、下ろした。

 が、これに先の中国人夫婦が、怒った。
怒って、ブティックと印鑑屋へ怒鳴り込んでいった。
ものすごい剣幕だったという。
「店、ちゃんと、開けるあるね!」と。

 驚いたのは、ブティックを経営していた女性。
それに印鑑屋の男性。
「店を開けるか、閉めるかは、私たちの自由」と。
ブティックの女性は、こう言った。
「あんなメチャメチャな話は、聞いたことがありません」と。

●常識

 アインシュタインは、かつてこう言った。
「常識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のかたまりである」と。

 みなさんは、この中華料理店の夫婦の話を読んで、どう感じただろうか。
恐らく中国人夫婦の言い分は、めちゃめちゃと感じたにちがいない。
が、つぎの話を読んだら、その(感じ)は、かなりちがってくるはず。
これも私が直接、経験した話。

 ……先月、私はオーストラリアへ行ってきた。
そこでのこと。
どんな町でも、少し郊外へ行くと、みな、日本では考えられないような大豪邸に
住んでいる。
(家の質そのものは、よくないが……。)
居間だけでも40畳程度、あるいはそれ以上にある。
どの部屋も、20畳以上。
そういう部屋が、4~10個もある。

 アメリカ映画にもそういうシーンが、よく出てくる。
しかし映画で見るのと、実際に見るのとでは、印象は大きくちがう。
つまりびっくりする。

 もちろん土地も広い。
エイカー単位。
1エイカーは、約4000平方メートル。
つまり1200坪。

 そこで私は聞いた。
「税金は、どうしているのか?」と。
つまり「税金は高いだろうな」という思いをもって、そう聞いた。
が、彼らの答は意外なものだった。

 「税金は、Land Valuer(不動産鑑定人)が、最初に決める」と。

 平たく言えば、家の広さも、土地の広さも関係なし。
立地条件や環境、それに家の質で決まる、と。
たとえばショッピングセンターが近くにあれば、バリュー(価値)は高くなる、と。

●家の価値

 だから彼らは、隣の家の芝生が伸び放題になっていると、それについて、隣の
家に対して文句を言う。
アメリカに住んでいる二男も、そう言っていた。
「芝生を刈らないと、近隣の人たちに文句を言われる」と。

 家の価値は、環境によって決まる。
こんな当たり前のことですら、日本では、非常識となる。
ご存知のように、土地の税金にしても、市の中心部からの距離によって決まる。
(それほど単純ではないが、この意見には、だれも異議を唱えないだろう。)

 そのこともあって、欧米人は、通りから見た美しさを、大切にする。
通り全体、町全体の景観を大切にする。
少なくとも灰色のブロック塀で、自分の土地を囲むということはしない。
庭木にしても、通りに近い方に低木、家に近い方に高木を植える。

 こうして「質」を高めることによって、家の「価値」を高める。
家の「価値」が高くなれば、売買するにも有利。
銀行からの借入金もふやせる。

 こうした伝統が、何百年にも渡って、つづいている。
意識そのものが、ちがう。
常識そのものも、ちがう。
それが通りの美しさにも、大きく影響している。

●視点

 「中国でも同じ」とは、私には言えない。
そこまで詳しく中国のことを知らない。
しかし日本人がもっている常識が、世界の常識と考えるのは、まちがい。

 たとえば義兄は、浜松市内の中心部に住んでいる。
人口密集地で、電柱から電柱へと、蜘蛛の巣のように電線が走り回っている。
それがぞっとするほど、不気味。

 家々は軒をつらね、その家々は、これまたてんでバラバラの作り。
洋風の家もあれば、和風の家もある。
事務所もある。
医院もある。
色もめちゃめちゃ。
もちろんその多くは灰色のブロック塀で取り囲まれている。

 一方、私の家は、郊外にある。
目の前には、小さいが森もある。
が、固定資産税ということになると、義兄の土地家屋のほうが、はるかに高い。
財産価値が高い。

 考えてみれば、これほど非常識なことはない。
ほんの少し視点を変えるだけで、ものの価値観が、180度変わる。
これもそのひとつ。

 先に書いた中国人夫婦がもっている常識は、欧米人のそれに近いのかもしれない。

●杓子定規

 日本人は、そういう点でも、ものの考え方が杓子定規。
私は、こんな経験をした。
ありのままを書く。

 30歳になったころのこと。
学研という出版社から、「経穴辞典を書いてほしい」という依頼をもらった。
「経穴」というのは、鍼灸でいう「ツボ」をいう。

 私はさっそく、作業に取りかかった。
……といっても、資料そのものがない。
私は香港の友人を通して、中国本土の本を取り寄せた。
その本をたたき台にし、本を書き始めた。

 で、8~9割完成したところへ、出版社から横やりが入った。
「つぼの取り方(取穴法)は、日本式で行く」と。

 日本式?

 1972年ごろには、日本の和漢、鍼灸は、完全に消滅していた。
そういった仕事は、身体に障害のある人たちのものということになっていた。
が、突然の鍼灸ブーム。
中国での針麻酔がきっかけだった(1972年)。

 そこで立ち上がったのが、日本鍼灸学会。
(少なくとも私がその学会名を知ったのは、30歳くらいのころ。)
最初の作業が、経穴(つぼ)の位置の特定。

 が、これがまあ、とんでもないほど杓子定規。
鎖骨から~寸下が、XXと。
寸法を基準に、経穴(つぼ)を決めていた。

 一方、中国では、たとえば腕を曲げたり伸ばしたりし、そこにできた凹み(穴)など
に取穴していた。
私はその中国式で、本を書いていた。
が、それがすべて御破算。

 私はすべてイチから書きなおしを迫られた。
理由を聞くと、「WHOで、取穴法をめぐって、中国式と日本式が戦っている。
この本を日本式を主張するためのたたき台にしたい」と。

 おかげでその本を書くのに、7年もかかってしまった。
本当は、最初の1年で完成していた。
それを7年!
やる気があるのとないのとでは、作業のスピードもちがう。
私は完全にやる気を失っていた。
中国式のほうが、はるかに合理性がある。
それに中国の中国式。
勝てるわけがない!

 ……で、7年。
悶々とした作業の中で、私は7年も無駄にした。
で、そうしてできあがった本が、「東洋医学・経穴編」(学研)である。

●常識論

 再び、常識論。
私たちは何をもって、常識というか。
冒頭の話に戻る。

 「店を開けるか、閉めるか、それは個人の自由」と、日本人は考える。
もう一歩話を進めれば、「芝生を荒れ放題にしようが、美しく刈り込もうが、個人の
自由」と、日本人は考える。

 おかしな個人主義がはびこっている。
空地があれば、そこに家を建てる。
まわりの景観を考えて家を建てる人は、まずいない。
調和を考える人は、さらに少ない。
また隣におかしな家が建っても、だれも文句を言わない。
フランス風の家もあれば、イタリア風の家もある。
デザインも色も大きさも、てんでバラバラ。
しかしこれこそ、世界の非常識。

 言い換えると、世界の常識を知れば知るほど、先の中国人の夫婦の考え方に
近くなっていく。
日本人の私たちにしてみれば、とんでもない非常識な言動に見えるかもしれない。
しかしひょっとしたら、私たち日本人の常識のほうが、おかしいかもしれない。
「常識」というのは、そういうもの。
だからといってその中国人夫婦の言動が、すべて正しいというわけではない。
ないが、私たちのもっている常識は、じゅうぶん、疑ってみる必要がある。

 常識論については、12、3年ほど前から、書いてきた。
中日新聞に書いた記事の中から、さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識

● 「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分
制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、
その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋
章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではない
のか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19
歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そ
う言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。

● 「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関
係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事
の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、
夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕
事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

● 「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と
泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしか
にすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、
こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に
美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だ
で。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。
親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに
似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき
載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。

● 「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう
論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いという
こと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではない
ようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の常識 世界の非常識 はやし浩司 常識論 アインシュタイン
の常識)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●民主主義と公僕意識

2011-04-25 10:24:45 | 日記
●改めて、浜松祭り中止について考えてみる(浜松市民、もの言わぬ従順な民)

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浜松まつり本部の会長が、
鈴木康友氏?
浜松市長?
どうして?
どうして祭りの
会長が市長なのか?
市民の祭りまで、市長に
管理されているのか?

+++++++++++++++++

●中止になった浜松まつり(祭り)

 浜松まつり本部(浜松市役所内、観光交流課)は、去る3月18日、今年度の
浜松祭りの中止を決定した。

鈴木康友浜松市長名で出された通達には、いくつかの理由が並んでいる。
通達の一部を抜粋する。

+++++++++++以下、中止通達の一部++++++++++++

 ……こうした状況のなか、参加自治会の代表である浜松まつり本部総務部会を開催したところ、一部には、「例年同様にやりたい」、「規模縮小で開催」という意見もあったものの、多くは、「開催しても参加を辞退する」、「初家からも辞退申し出がある」、「中途半端なまつりはやるべきではない」、「どちらにしても皆が足並みを揃えるべきだ」などの意見が出され、まつりの性格上制限をかけたまつり開催が難しいことを含め、地域を挙げて初子を祝うという一体感が身上である「浜松まつり」の運営が事実上困難であると判断し、開催しないほうがよいとの結論に達しました。

あわせて、例年、多くの関係機関のご協力のもと、まつりの安全運営に努めてまいりましたが、交通規制・雑踏警備・救急搬送などまつり開催時に例年同様の対応について依頼することが難しいと想定されます。

これらのことから、浜松まつり本部を構成する4団体で協議し、3月18日に「浜松まつり行事すべてを中止する」ことを決定させていただきました。

3月19日からの連休中に本格的なまつり準備を進める自治会も多いことから急遽、記者発表させていただいた次第です。

+++++++++++以上、中止通達の一部++++++++++++

●祭り

 祭りなどというものは、やりたい人が、やりたいときに、やればよい。
やりたくない人は、やらなくてもよい。
それが原点。
全員参加が望ましいが、しかしかならずしも、それにこだわる必要はない。
つまり祭りというのは、庶民レベルから、庶民のエネルギーが結集して生まれるもの。
江戸時代という封建時代ならともかくも、「お上(かみ)」うんぬんが、口を
出すべきことではない。

 よい例が、官製祭り。
浜松市も、ほぼ10年ごとにいろいろな祭りを企画し、何とか軌道に乗せようとして
きた。
が、官製祭りは、ことごとく失敗している。
最初の数年はもりあがるものの、その後衰退、消滅。

 世界の祭りを見てみろ。
北朝鮮のような国もある。
あの国では、祭りも含めて、庶民の活動は、すべて統制されている。
一方、オーストラリアのような国もある。
あの国では、祭りも含めて、庶民の活動は、すべて庶民が主体となって推し進める。
役人が口を出すのは、つぎのつぎ。
ふつうは、口を出さない。

●安全運営?

 通達をよく読んでほしい。
浜松祭りは、つまりは役人の「ご都合主義」によって、中止された。
安全確保がむずかしいとか、何とか。
いわく「……交通規制・雑踏警備・救急搬送などまつり開催時に
例年同様の対応について依頼することが難しいと想定されます……」と。
 
 ここに出てくる「安全運営」という言葉。
その言葉に注目してほしい。

この言葉ひとつで、浜松祭りは、キバを抜かれてしまった。
「祭り」というよりは、「管理行事」。
何から何まで、管理、管理、また管理。
今では、祭りに出るにも、有料のワッペンが必要。
練り(祭りの行進)に参加するのにも、提灯が必携品。
そのほか定められたルールを数え上げたら、キリがない。

 結果、浜松祭りは、どうなったか?

 私が浜松へ来たころの祭りは、おもしろかった。
迫力もあった。
けが人も続出したが、喧嘩とけがは、祭りのつきもの。
それがあるから、「祭り」。

また練りにしても、ゲリラ隊というものもあった。
それぞれのグループが、好き勝手に、浜松市内を練った。
私は、よそ者ということもあって、町内の祭りには参加できなかった。
毎年ゲリラ隊のほうで、祭りに参加した。
結構それが、おもしろかった。
今からちょうど40年前のことである。

●自己責任

 話はそれるが、「自己責任」という言葉がある。
が、私たち日本人は、何か問題が起きると、すぐ「国が……」「国が……」という。
世界でも類を見ないほど、「国」に対する依存性の強い国民と考えてよい。

 たとえばアメリカでは、崖っぷちを走る道路にさえ、ガードレールはない。
オーストラリアでも、ガードレールはめったに、見かけない。
「事故を起こすのは、あなたの勝手」と。
「自己責任」のルールが、徹底している。
こんなことがあった。

 アメリカ大陸を縦断して、ミズリー川という、とてつもなく大きな川が流れている。
あの川は、数年おきくらいに氾濫し、大洪水を引き起こしている。
私がたまたまアメリカへ行ったときも、そうだった(2001年・9・11事件の
あった年)。
で、私が「どうして護岸工事をしないのか?」と聞くと、市の福祉課(アーカンソー州・
リトルロック市)に勤めていたS氏がこう話してくれた。

 「ミズリー川の護岸工事には、莫大な費用がかかる。
そんな護岸工事にお金をかけるくらいなら、洪水で流された家を、建てなおしてやった
ほうが安くつく。
それに護岸工事をすれば、自然の景観を壊してしまう」と。

 洪水で流される家の持ち主にしても、流されたからといって、文句を言わない。
最初から、そういうものと割り切っている。
洪水だけではない。
ハリケーンや竜巻にしても、そうだ。

●中止、反対 

 想定外の(?)大震災、それにつづく大洪水。
東北地方の人たちは、たいへんな被害を被った。
それは事実だが、だからといって、浜松祭りを中止するのは、どうか。
私は浜松市が祭りの中止を発表した翌日の3月19日朝に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Fight Back (2)【浜松祭り・中止反対!】

+++++++++++++++++

2011年3月19日。

Fight Back (2)。

元気な町が、元気を失ってはいけない。
元気な町まで、沈んではいけない。
元気な町は、さらに元気を出す。
さらにがんばる。
この先、この日本を支えていくのは、
元気な町。
つまり、浜松!
この浜松市!
その元気を見て、ほかの町もがんばる。
ほかの県もがんばる。
それを見て、日本もがんばる。

運命はある。
あるが、最後の最後のところで、ふんばる。
ふんばるところに、生きる意味がある。
価値がある。
運命に負けてはいけない。
運命を恐れてはいけない。
恐れたとたん、運命は、キバをむいて、
私たちに襲いかかってくる。
運命というのは、そういうもの。

今が、そのとき。
さあ、ふんばろう。
浜松のみなさん、がんばろう。
被災地のみなさんに、こう言って、エールを
送ろう。
日本は、まだまだだいじょうぶ!
私たちががんばって、復興資金を作る。
その資金で立ちなおる。
東北の都市を、すべて、再興させる。
放射能で汚染された土地は、すべて取り除く。
新しい土をそこに敷く。
米を作る。
再び、福島米を食べる。
岩手米を食べる。
その日まで、私たちは負けない。
さあ、ファイト・バック!

++++++++++++++++++

●浜松の人たちへ

 何も浜松が津波の被害を受けたわけではない。
悲惨な天災だったが、何も私たちまで意気消沈することはない。
仮に福島第一原発が爆発しても、浜松はだいじょうぶ。
距離にして、約500キロ。
多少の放射線量はあがることはあっても、そこまで。
人体に被害が及ぶことはない。

 大切なことは、そういう地域に住む私たちまで、負けてはいけないということ。
私たちがここでがんばらなくて、だれががんばる?

●浜松祭りをしよう!

 ただ残念なことは、今朝の新聞によれば、あの「浜松祭り」が、中止になったこと。
どうして?
こういうときにこそ、祭りをやって、元気な日本を示すべき。
暗く沈んだ気持ちを吹き飛ばすべき。
「祭り」は、そのためのもの。
規模の縮小はやむをえない。
質素にやるのは、当然。

しかし私たちは、あの大凧にこう書く。
子どもの名前ではない。
こう書く。

「被災地のみなさん、がんばれ!」
「浜松はがんばっている!」
「日本は、負けない!」
「日本の元気は、浜松から!」
「日本は、浜松から復興させてみる!」と。

 SUZUKIもHONDAもYAMAHAも、みんな浜松から生まれた。
豊田佐吉も浜松で生まれた。
今の日本を支えているのは、私たち、浜松人!
これからも日本を支えていくのは、私たち、浜松人!

 浜松は現役。
こんな程度の災害でへこたれない。
簡単に、日本を沈没させてたまるか!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●行きすぎた自粛への批判

 その後、4月に入ってから、「行きすぎた自粛」に対する批判の声があがってきた。
政府からだけではない。
被災地の人たちからも、あがってきた。
当然のことである。
逆の立場で考えてみればよい。

 繰り返しになるが、今の日本に必要なのは、「元気」。
いろいろな意見はあるだろう。
が、それ以上に今回、私が気になったのは、「もの言わぬ従順な民」。
通達では、「浜松まつり本部を構成する4団体で協議し……」うんぬんとある。

 ある程度の自粛は、しかたない。
内容の変更も、しかたない。
しかしやり方は、いろいろある。
ワッペンの料金をあげ、その分を、復興資金として寄付する。
そんな意見も、多い。
凧に「東北地方のみなさん、がんばれ!」と書くのもよい。
あるいは東北地方の人たちを、招待するのもよい。

通達にある、『地域を挙げて初子を祝うという一体感が身上である「浜松まつり」……』
というのは、ただの口実。
百歩譲って、だからといって、それがどうして「中止」につながるのか?
もしその精神を大切にするなら、初子を祝ってやればよい。
初子を祝うために、凧をあげてやればよい。
祭りを中止するということは、初子を祝わないということになる。
この矛盾を、どう考えるのか?

●投稿記事より

 「浜松祭り中止」で検索してみた。
ほとんどが、「反対」の意見。
中には被災地の方から、「中止しないでほしい」という意見もあった。
最初の2ページまでの中から、いくつかを拾ってみる。

★何でもかんでも中止は安易な選択ではないでしょうか???(静岡道楽日記さんのBL
OG)

静岡市民なのにハマゾーブログをやっている者として驚いたのが「浜松祭りの中止」です。
「ブルータスよ、おまえもか!」の心境です。4月最初の静岡祭は見るための比較的新し
い祭ですから仕方ない面もありますが、伝統的であり、浜松市民の文化でもあり、地域コ
ミニィティの核である浜松祭りの中止は安易で楽な選択ではないかと、浜松市民でない私
でも思ってしまいます。

★浜松まつりが中止になりました。(みんカラさんのBLOGより)
何でも自粛すれば良いのでしょうか?
それで被災地に何のメッセージが送れるのでしょうか?
つまらない批判を恐れての事としかおもえません。
浜松市長は当初、各地区の判断に任せると仰ったと聞きました。
それが本当であるならば失望したとしか言いようがありません。
各地区の判断に任せるなど、後に各地区間でのシコリが発生する可能性があることを平気で口にするなど正気の沙汰とは思えず。当然、無難な方向へ流れるでしょう。
ここは市長自らが率先して浜松祭りを支援に利用してしまえば良いと思います。多くの人が集まる浜松祭り。そこで、支援を訴えればと考えるのは浅はかでしょうか?
いずれ起こるとされる東海地震。おそらく浜松でも多くの人が被災されるでしょう。被災者となった時のことをイメージすると、どんな形で募った支援であれ有難いものだと思うでしょう。
プロ野球のセリーグの開幕日程問題とは質的に異なるでしょう。あちらは現状の電力事情などを考慮すると、開幕には疑問があります。
ただ、何でもかんでも自粛自粛という風潮は違和感があり…

★浜松まつり 中止 が決定されましたね。(ウエスタンパブ駅馬車さんのBLOGより)

昨日は落ち着いて書ける自信が無かったんで、一日おいて書いてます。
まず、オイラのスタンスは、「 中止反対! 」です。
東日本大震災の被災者の方々には、心からお見舞い申し上げます。
この気持ちに嘘偽りはありません。
ただ、大震災の発生を受け、浜松まつりが中止というのが、納得できません。
被災者の方がいらっしゃるのに、お祭りなんて...という気持ちも分かります。
でも、それが本当に被災者の方の為になるのでしょうか?
被災地で必要なことは、同情ではなくて、支援ですよね。
支援をするには、被災地以外の地域が正常な状態である必要があります。

現在の浜松が正常な経済状況でしょうか?
他地域よりも不況からの脱却が遅れ、未だに苦しんでいます。

●官僚国家

 祭りまで、「お上」に管理されている。
この事実を、もう少し私たちは深刻に考えてよいのではないか。
「公僕意識」というのは、「市民が先にあって、役人があと」という意識をいう。
が、今、公僕意識をもっている役人は、いない。
いないことは、役人自身が、いちばんよく知っている。
言うなれば、江戸時代の「侍意識」が、そのまま残っている。
さらに言えば、日本という国は、奈良時代の昔から官僚主義国家。
その「主義」が、日本人の骨のズイにまで、しみこんでいる。

 浜松祭り中止についての賛否両論よりも、私はこうした庶民にとっての
重大事が、いとも簡単に、かつすばやく決定されることのほうに、驚いた。

 この日本に「自由」はあるのか。
尾崎豊が歌った『卒業』の中には、「しくまれた自由」という言葉が出てくる。
私たちはその「しくまれた自由」を自由と思い込んでいるだけ。
「いいのか、日本!」と叫んだところで、この話はおしまい。

 今さら、何を言っても、遅い!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 浜松祭り中止反対 浜松祭り 中止 反対)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司