●オーストラリア旅行
【出発前に……】
●オーストラリア
+++++++++++++++++++++
2011年、3月30日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるように、私は心の源流にもどる。
それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。
+++++++++++++++++++++
●Rosin the Beau
オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。
が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
私はその歌を聴きながら、ポロポロと涙がこぼした。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。
それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。
私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。
●1日が1年
あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。
私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚く。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまう。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
「学問」と言っても、暗記また暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまっていた
だろう。
●不思議な世界
そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。
が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかったことである。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。
私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。
カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられている。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)
あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と言っていた。
で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
オーストラリアでもっともよく食べられているパイを食べた。
その食べている間に、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。
言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。
……こうして書き出したら、キリがない。
●常識論
アインシュタインは、常識というのは、18歳までに作られる偏見であるという
ようなことを書いている。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。
たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。
では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)
そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。
ものの考え方の基盤になる。
●自由
が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。
話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。
当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。
私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく
のに驚いた。
「家」に対する意識も、ちがっていた。
私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。
日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!
●自由の意識
もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織型社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工業界の人たちをみれば、それがわかる。
「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。
が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。
人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国だった。
【バスの中で】
●3月30日、中部空港・セントレアへ
「さあ、行くぞ!」と、バスの中。
エンジンがかかった。
時刻は6時10分。
行き先はオーストラリア。
メルボルン。
アデレード。
タクシーの中でもそうだった。
今もそうだ。
震災の話も、原発事故の話もしたくない。
今は、そんな気分。
話したところで、どうにもならない。
堂々巡り。
愚痴。
不平、不満。
その繰り返し。
●浜松もあぶない?
今回のオーストラリア行きは、去年から予定していた。
チケットの予約を入れたには、先月(2月)の終わり。
「こんなときに旅行?」と思う人もいるかもしれない。
が、震災の前から、今回の旅行は、予定していた。
どこか弁解がましいが、今回の震災(3月11日)とは関係ない。
が、その一方で、日本から脱出するという意識もないわけではない。
不幸中の幸いというか、今回の原発事故は「風」が幸いした。
事故以来、冬型の天気図。
風はずっと陸から海側に吹いていた。
が、そんな「幸い」が、いつまでもつづくとはかぎらない。
風向きが変われば、東京だってあぶない。
浜松だってあぶない。
原発事故は、100キロ単位どころか、1000キロ単位で広がる。
●人災論
今回の原発事故について、人災論が浮上してきた。
いくつかの人的なヘマが重なって、事故が拡大した。
処理が、長引けば長引くほど、そうだろう。
責任論が大きくなる。
原発は「作る」のは簡単。
「閉じる」のがむずかしい。
これは私の意見ではない。
世界の常識。
つまり閉じ方も確立されていないまま、今回の事故が起きた。
ホースで水をかける程度の処理で、事故が収束するはずがない。
たとえば昨日(3月29日)になって、プルトニウム吸収剤を散布するとか(報道)。
そんな話が決まった。
しかしこの日本に、そんな吸収剤はあるのか?
それにしても腹立たしいのが韓国。
「日本・危険説」をさかんに世界に向けて発信している。
●1970年
……またまた震災の話になってしまった。
やめよう。
こんな愚痴を書いても、何にもならない。
私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年の3月。
大阪万博(1970)が始まる、その直前だった。
日にちはよく覚えていない。
1970年の3月3日か4日だった。
私はあえて各駅停車の飛行機に乗った。
世界中を見たかった。
もっとも当時の飛行機(DC-8)は、航続距離が短い。
香港とマニラで給油のため駐機した。
はじめての香港。
はじめてのマニラ。
私は外国に降り立つたびに、自分の体が宙を舞っているように感じた。
●悪夢
ワイフは横で、今しがたまで、何やらメモを取っていた。
どこかウキウキしている。
若いころからのんきな女性。
なにごとにつけ、楽天的。
おおらか。
だからこそ、私のワイフでいられた。
今回も、1か月も前から、旅行の準備をしたのは、私。
「まだ早いでしょ!」と。
何度もワイフに言われた。
が、私は落ち着かない。
今でも悪夢と言えば、飛行機や列車に乗り遅れる夢。
29歳のとき飛行機事故を経験している。
それだけではないが、こうした強迫観念は、どうしようもない。
いつも何かに追い立てられている。
それがそういう悪夢につながっている。
●オーストラリアの秋
窓の外は冬景色。
今年の冬は寒かった。
今も寒い。
昨日、オーストラリアの友人に問い合わせた。
アデレードでは気温は、10度~30度という。
日本の気候にちょうど6か月を加えたのが、オーストラリアの気候ということになる。
が、実際には、オーストラリアの夏は暑い。
オーストラリアは、今が秋。
これから畑に種をまき、冬の間に小麦を育てる。
今ごろは緑の草原が美しく広がっているはず。
楽しみ。
●終着点
今回の旅行は、旅行というより、人生のしめくくり。
ワイフのことは知らないが、私はそうとらえている。
ちょうど41年。
オーストラリアでの学生生活を「出発点」とするなら、今が「終着点」。
その41年を、何とか乗り切った。
生き延びた。
私の人生を総括すると、そうなる。
つまり自由業というのは、そういうもの。
「自由」というのは、そういうもの。
だれにも頼らず、たったひとりで生きる。
が、充実感は、それほどない。
私のばあい、いつもハラハラしながら、生きてきた。
今の今も、そうだ。
こういう旅行をしながらも、別の心では、すでに帰国後のことを考えている。
あるいは、そのころ、日本はさらに混乱しているかもしれない。
またまた原発事故の話になる。
今のやり方では、だめ。
●フンギリ
「フンギリ」という言葉がある。
「糞切り」と書くのか。
どこかでフンギリをつける。
そのフンギリが感じられない。
事故直後から、廃炉を覚悟すべきだった。
廃炉を覚悟で、処理に取りかかるべきだった。
が、それを何とか原子炉を残そうとした。
今の今もそうだ。
原子炉内への注水とタービン室の排水。
この2つを両立させようとしている。
が、このやり方では問題は解決しない。
へたをすれば、両倒れ。
私なら、海はあきらめ、原子炉のメルトダウンだけを考えて対処する。
海の汚染は、まだ何とかなる。
しかし原子炉がメルトダウンし、原子炉が爆発したら、万事休す。
死の灰は、日本中に降り注ぐ。
●自由
話は脱線したが、「自由」というのは、そういうもの。
損と得が、いつも隣り合わせになっている。
損にこだわっていたら、自由にはなれない。
深みにはまり、やがて身動きが取れなくなる。
フンギリをつけるときは、つける。
それが身を軽くする。
今回の原発事故には、そのフンギリがない。
つまり卑しき役人根性。
「やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。
あとは責任逃れ。
そればかり。
アーア、また愚痴になってしまった!
●自由業
自由業について、一言。
今、この日本で、自由業と言えるような自由業というのは、ほとんどない。
農業にしても漁業にしても、補助金漬け。
補助金がなければなにもできない。
どう補助金漬けになっているかは、その世界の人なら、みな知っている。
町の小さな企業ですら、いかに公的機関の仕事を多く受注するかで、命運が決まる。
土建業を例にあげるまでもない。
つまりみながみな、「国」にぶらさがっている。
また「国」にぶらさがらないと生きていかれない。
一方、私など、補助金の「ホ」も手にしたことがない。
国からそれらしきものを手にしたのは、出産時の祝い金だけ。
3人の息子たちが産まれるたびに、それをもらった。
10万円x3=30万円!
計30万円!
だからこう言う。
「生き延びた」と。
●究極の選択
人生には、潮時というものがある。
今が、そのときかもしれない。
私も63歳。
団塊の世代、第一号。
ここでいつも究極の選択に迫られる。
(1) 健康な間に、好き勝手なことをする。
(2) 死ぬまで今のまま、がんばる。
「好き勝手なこと」というのは、私の夢を果たす。
私には私の夢があった。
そう、あのとき私は、オーストラリアに移住したかった。
留学生活が終わったとき、そのままオーストラリアに残りたかった。
が、それができなかった。
郷里の母が、今にも死にそうな声でこう言った。
「帰ってきておくれ」「帰ってきておくれ」と。
が、今ならそれができる。
だれにも遠慮せず、好き勝手なことができる。
ワイフも、それを言う。
「移住しましょうよ」と。
おかしなものだ。
オーストラリアを知らないワイフのほうが、積極的。
どうしてだろう?
【セントレア空港で】
●シンガポール航空
シンガポールからメルボルンまで、A380。
わかるかな?
エア・バス380だぞ。
世界最大の旅客機。
「2階席にしますか、1階席にしますか?」と聞かれた。
それでそれを知った。
もちろん私はこう答えた。
「2階席に」と。
今や、シンガポールがアジアの中心。
東京ではない。
シンガポール。
1人当たりの国民所得でも、すでに日本は追い抜かれている。
だからそういう飛行機でも買うことができる。
世界最大の旅客機。
「日本は負けたね」とワイフに言うと、ワイフもあっさりとこう認めた。
「とっくの昔にね」と。
●ラウンジで
出発まで1時間半。
ワイフラウンジで、軽い朝食。
意外と白人が少ない。
前後左右、みな、ジャパニーズ。
これも原発事故の影響か?
そんな印象をもった。
が、うるさいことといったらない。
右横の家族は、ギャーギャーと大声で騒ぎあっている。
祖父母らしき両親を中心に、2人の娘と1人の息子。
それにその子どもたち(孫)。
その孫が4人。
その向こう隣には、同じような組み合わせの家族。
子どもはいないが、やはり大声で騒ぎあっている。
のどかとは言いがたいが、平和な風景。
それにしてもうるさい!
●うるさい
左横の家族は、グアムへ行くらしい。
「グアム」と書いた大きな雑誌を開いたり、閉じたりしている。
さらにその向こう側の2人連れは、何やらを書類に書き込んでいる。
若い方の女性が、「ここはこう……」というような言い方で、もう1人の女性に指示
している。
「あと1時間……」とワイフが言った。
搭乗ゲートは、14番。
一番、端。
今、右横の家族を見たら、そちらは「韓国」と書いた本を読んでいる人がいた。
あのうるさい家族は、韓国へ行くらしい。
韓国でも同じように騒ぐのだろうか。
「早めに14番ゲートへ行くか」と私。
「うん」とワイフ。
ここはう・る・さ・い。
子どもたちまで、ギャーギャーと騒ぎ出した。
●14番ゲートで
目の前に58インチのテレビがある。
震災で犠牲になったアメリカ人教師の話をしている。
右下の案内には、「日本人を愛したアメリカ人教師」とある。
「生徒の無事を確認したあと、津波に……」と。
名前は、テイラー・アンダーソンという。
そのテイラー・アンダーソンに対する義援金募集をしている。
今度の津波で、多くの外国人も行方不明になっているという。
たぶん、もう生きてはいないだろう。
今の日本から、震災、津波、原発事故の話から逃れることはできない。
どこへ行っても、だれと話しても、その話ばかり。
●A330ー300
飛行機に乗ると、すぐ、映画、「ガリバー旅行記」を観た。
おもしろかった。
で、すぐ食事とつづき、そのあと、睡魔。
1時間ほど、眠った。
時刻は日本時間で、午後2時23分。
もう4時間も乗っている。
日本との時差は、ちょうど1時間。
シンガポールは、午後3時23分。
機種は、エアバス330。
いろいろ頭の中をさぐってみるが、エアバスに乗るのは、これがはじめて?
ボーイング社の飛行機とは、内装が微妙にちがう。
ざっと見たところ、新品。
車でいえば、新車。
汚れもなく、真新しい。
30~40年前には、アジアの国々は、みな、日本が払い下げた中古機を使っていた。
フィリッピン航空の飛行機などは、窓枠がさびていた。
が、今は、ちがう。
この世界も、すっかり様変わりした。
画面にそのつど時速(対地速度)が表示される。
それによれば、518マイル(833km)とか。
ボーンイング777や747よりは、遅い?
このあたりは、いつも強い向かい風を受ける。
そのせいかもしれない。
●さらば、日本!
若いときからそうだ。
だから、どうかそういう私を責めないでほしい。
私は若いときから飛行機に乗り、離陸したとたん、こう思う。
「さらば、日本!」と。
とたん、日本のことを忘れる。
小さな国。
それが日本。
何かにつけ、わずらわしい国。
それが日本。
そのクセが今も残っている。
「さらば、日本!」と。
今、私ははじめて、震災や津波、それに原発事故を頭の中から振り払うことができた。
この2週間、本当に重かった。
「重い」というよりショック状態。
ゆううつな気分が、四六時中、頭の中を離れなかった。
……ということは、逆に、帰国するとき、どんな気分になるのだろう。
それが心配。
【出発前に……】
●オーストラリア
+++++++++++++++++++++
2011年、3月30日。
ワイフと私はオーストラリアへ「行く」。
「行く」と構えるほど、私にとっては、重大事。
サケが長い回遊を経て、ふるさとの源流に
もどるように、私は心の源流にもどる。
それをメールで知らせると、2人の友人から、すかさず
返事が届いた。
アデレードで2泊の予定だった。
が、2泊ではとても足りそうにない。
それにアデレードからメルボルンまでは、列車で移動する予定だった。
が、友人が言うには、車でオーストラリア大陸を縦断しよう、と。
そうなると、とても2泊では足りない。
+++++++++++++++++++++
●Rosin the Beau
オーストラリアの友人が教えてくれた歌に、「ローザン・ザ・ボー」
というのがある。
アイルランドの民謡(drinking song)ということだが、私はその歌を
今でもソラで歌える。
しかし歌の題名がわからない。
YOUTUBEで調べてみた。
「Rosan the Ballか?」・・・ということで、調べてみたが、
うまくヒットできなかった。
が、今日、その歌を教えてくれた友人から、返事が届いた。
正しくは、「Rosin the Beau」。
さっそくYOUTUBEで検索。
いくつかのシンガー・グループが歌っているのがわかった。
その中でも、「ザ・ダブリンズ」のが、そのままの歌い方だった。
こうした民謡は、歌手によって、アレンジの仕方がまちまち。
私はその歌を聴きながら、ポロポロと涙がこぼした。
そのときの情景が、そのままそこにあった。
私はちょうど40年前に、タイムスリップした。
それを横で見ていて、ワイフがこう言った。
「あなたには、すばらしい思い出があるのね」と。
私は名前を教えてくれた友人に、返事を書いた。
「30年間、ぼくはこの歌をさがしつづけた。
やっとこの歌に、めぐり会えた。
ありがとう」と。
●1日が1年
あのころの私は、1日を1年のように長く感じながら生きていた。
けっして大げさな言い方ではない。
本当に、そう感じた。
1日が終わり、ベッドに体を横たえた瞬間、そう感じた。
そんなある日のこと。
ちょうど3か月目のことだった。
私はこう思った。
「まだこの先、こんな生活が9か月もつづくのか!」と。
うれしかった。
それがたまらなく、うれしかった。
私は留学する前、4年間、金沢の大学に通った。
そういう自分を振り返りながら、その密度のちがいに驚く。
4年間、通ったはずなのに、その4年間の重みがどこにもない。
思い出がない。
あるにはあるが、オーストラリアでの経験があまりにも濃密すぎた。
そのため金沢での学生生活がかすんでしまう。
その感覚は、今でもそうで、青春時代というと、あの時代ばかりが光り輝く。
金沢での4年間もそうだが、さらに高校時代の3年間となると何も残っていない。
単調な生活。
スケールの小さな生活。
「学問」と言っても、暗記また暗記。
あの時代には、(今でもそうだが)、自分で考えるということすら許されなかった。
疑問をもてば、なおさら。
疑問をもったとたん、「学校」というコースからはじき飛ばされてしまっていた
だろう。
●不思議な世界
そうした様子は、『世にも不思議な留学記』に書いた。
地元の中日新聞と、金沢学生新聞に、あしかけ5年に渡って、連載させてもらった。
興味のある方は、ぜひ、読んでほしい。
私のホームページ(ウェブサイト)から、『世にも不思議な留学記』へと進んでもらえば
よい。
が、時代が変わった。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
私たちが学生のころには、考えられなかったことである。
往復の旅費(羽田・シドニー間)だけで、42、3万円。
大卒の初任給がやっと5万円を超え始めた時代である。
私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
日本には綿棒すら、まだなかった。
バンドエイドもなかった。
風邪を引けば、風呂へ入ることを勧められた。
医学部の学生が部屋までやってきて、注射を打ってくれた。
こんなこともあった。
カレッジ対抗で、演劇会をもつことになった。
大学の構内では、壁紙を張ることが、きびしく禁じられている。
が、友だちが、「これからその案内のポスターを貼りに行く」と。
驚いてついていくと、彼らはそれを地面に貼っていた。
(地面だぞ!)
あるいは冬の寒い日。
1人の女の子が私を、海へ誘ってくれた。
水着をもってくるように言われた。
今となっては本当かウソかよくわからないが、・・・というのも、
オーストラリア人は、この種のウソを平気でつくので、・・・名前をタマラ・ファクター
といった。
自分で、「私は、(化粧品の)マックス・ファクターの孫」と言っていた。
で、海へ行くと、・・・そういえばそこで私ははじめて、「ミート・パイ」という
オーストラリアでもっともよく食べられているパイを食べた。
その食べている間に、彼女は、水着姿になってしまった。
泳ぐためではない。
「サン・ベイジング(日光浴)」のためだった。
・・・などなど。
言い忘れたが、冬に浜辺でサン・ベイジングなるものをするという
習慣は、当時の日本人にはなかった。
そう言えば、同じカレッジにいた友人は、冬の日でも、また雨の日でも、
金曜日の夕方になると、キャンピング道具をもって、近くの森へキャンプ
に出かけていた。
そういう習慣も、当時の日本人にはなかった。
……こうして書き出したら、キリがない。
●常識論
アインシュタインは、常識というのは、18歳までに作られる偏見であるという
ようなことを書いている。
たしかにそれはそうで、子どもたちにしても、綿棒を見て驚く子どもはいない。
そこにあるものを、当然のものとして、受け入れていく。
が、それは18歳ごろ、常識として脳の中で、固まる。
それ以後は、その常識に反するものを、「異質なもの」として処理しようとする。
ときにそれが脳の中で、それまでの常識とはげしく対立することもある。
たとえば私は向こうの女子学生たちが、みなノーブラで、それこそ乳首が飛び出て
いるような状態で、薄いシャツを着ているのを見て驚いたことがある。
その(驚いた部分)というのが、私の常識ということになる。
では、何歳くらいの子どもだったら、驚かなかっただろうか。
15歳くらいか。
16歳くらいか。
それともアインシュタインが言うように、18歳くらいだろうか。
少なくとも私は驚いた。
そのとき私は23歳だった。
ということは、やはり18歳前後ということになる。
(アインシュタインという人は、本当にすごい!)
そのころまでに「常識」が形成される。
それがその人の意識の基盤になる。
ものの考え方の基盤になる。
●自由
が、今では、高校生でも驚かない。
綿棒を見ても、バンドエイドを見ても、驚かない。
むしろそちらのほうこそ、不思議!、ということになる。
彼らもまた、生まれながらにして、そこにあるものを、当然と思い込んでいる。
話は大きく脱線したが、私には毎日が驚きの連続だった。
が、その中でも最大の驚きといえば、彼らの「自由」に対するものの考え方だった。
彼らがもっている自由の意識は、私がもっていた意識とは、明らかに異質のもの
だった。
たとえば職業観。
たとえば家族観。
たとえば人生観。
それを知るたびに、私の頭の中で火花がバチバチと飛び散るのを感じた。
当時の私たちは職業といえば、迷わず、大企業への就職を選んだ。
「寄らば大樹の影」。
それが常識だった。
が、オーストラリア人には、それがなかった、などなど。
私などは、友人の父親たちが、収入に応じて、つぎつぎと家を移り替えていく
のに驚いた。
「家」に対する意識も、ちがっていた。
私が大学で使ったテキストには、こうあった。
「日本は、君主(Royal)官僚主義国家」と。
が、これには私は反発した。
「日本は民主主義国家だ」と。
しかしだれも相手にしてくれなかった。
日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
今の今も、官僚主義国家。
首相以下、国会議員の大半は、元官僚。
県知事の大半も、元官僚。
大都市の知事も、これまた元官僚。
40年前の日本は、さらにそうだった!
●自由の意識
もちろんオーストラリアでの生活は、私の人生観に大きな影響を与えた。
それがよかったのか、悪かったのか。
現在の私が、その「結果」とするなら、よい面もあるし、悪い面もある。
この日本は、組織型社会。
組織に属している人は、実力以上の「得」をする。
たいした努力をしなくても、「得」をする。
今の公務員たちをみれば、それがわかる。
組織に属していない人は、実力があっても、「損」をする。
努力に努力を重ねても、「損」をする。
今の商工業界の人たちをみれば、それがわかる。
「自由」を知らない国民には、それが常識かもしれない。
しかもそうした常識は、遠く江戸時代の昔から、しっかりと日本の社会に根を
おろしている。
そう簡単には、なおらない。
が、あえて私は自由の道を選んだ。
たいへんな道だったが、私は私の生き様を貫くことができた。
その原点が、あのオーストラリアでの学生生活にある。
人は、友だちや師、さらには社会や国から、さまざまなものを学ぶ。
何を学ぶかは、それぞれの人によってちがう。
私のばあい、「生き様」を学んだ。
一編の論文を書いたわけではない。
もしあの時代の論文があるとすれば、今の私自身ということになる。
オーストラリアという国は、私にはそういう国だった。
【バスの中で】
●3月30日、中部空港・セントレアへ
「さあ、行くぞ!」と、バスの中。
エンジンがかかった。
時刻は6時10分。
行き先はオーストラリア。
メルボルン。
アデレード。
タクシーの中でもそうだった。
今もそうだ。
震災の話も、原発事故の話もしたくない。
今は、そんな気分。
話したところで、どうにもならない。
堂々巡り。
愚痴。
不平、不満。
その繰り返し。
●浜松もあぶない?
今回のオーストラリア行きは、去年から予定していた。
チケットの予約を入れたには、先月(2月)の終わり。
「こんなときに旅行?」と思う人もいるかもしれない。
が、震災の前から、今回の旅行は、予定していた。
どこか弁解がましいが、今回の震災(3月11日)とは関係ない。
が、その一方で、日本から脱出するという意識もないわけではない。
不幸中の幸いというか、今回の原発事故は「風」が幸いした。
事故以来、冬型の天気図。
風はずっと陸から海側に吹いていた。
が、そんな「幸い」が、いつまでもつづくとはかぎらない。
風向きが変われば、東京だってあぶない。
浜松だってあぶない。
原発事故は、100キロ単位どころか、1000キロ単位で広がる。
●人災論
今回の原発事故について、人災論が浮上してきた。
いくつかの人的なヘマが重なって、事故が拡大した。
処理が、長引けば長引くほど、そうだろう。
責任論が大きくなる。
原発は「作る」のは簡単。
「閉じる」のがむずかしい。
これは私の意見ではない。
世界の常識。
つまり閉じ方も確立されていないまま、今回の事故が起きた。
ホースで水をかける程度の処理で、事故が収束するはずがない。
たとえば昨日(3月29日)になって、プルトニウム吸収剤を散布するとか(報道)。
そんな話が決まった。
しかしこの日本に、そんな吸収剤はあるのか?
それにしても腹立たしいのが韓国。
「日本・危険説」をさかんに世界に向けて発信している。
●1970年
……またまた震災の話になってしまった。
やめよう。
こんな愚痴を書いても、何にもならない。
私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年の3月。
大阪万博(1970)が始まる、その直前だった。
日にちはよく覚えていない。
1970年の3月3日か4日だった。
私はあえて各駅停車の飛行機に乗った。
世界中を見たかった。
もっとも当時の飛行機(DC-8)は、航続距離が短い。
香港とマニラで給油のため駐機した。
はじめての香港。
はじめてのマニラ。
私は外国に降り立つたびに、自分の体が宙を舞っているように感じた。
●悪夢
ワイフは横で、今しがたまで、何やらメモを取っていた。
どこかウキウキしている。
若いころからのんきな女性。
なにごとにつけ、楽天的。
おおらか。
だからこそ、私のワイフでいられた。
今回も、1か月も前から、旅行の準備をしたのは、私。
「まだ早いでしょ!」と。
何度もワイフに言われた。
が、私は落ち着かない。
今でも悪夢と言えば、飛行機や列車に乗り遅れる夢。
29歳のとき飛行機事故を経験している。
それだけではないが、こうした強迫観念は、どうしようもない。
いつも何かに追い立てられている。
それがそういう悪夢につながっている。
●オーストラリアの秋
窓の外は冬景色。
今年の冬は寒かった。
今も寒い。
昨日、オーストラリアの友人に問い合わせた。
アデレードでは気温は、10度~30度という。
日本の気候にちょうど6か月を加えたのが、オーストラリアの気候ということになる。
が、実際には、オーストラリアの夏は暑い。
オーストラリアは、今が秋。
これから畑に種をまき、冬の間に小麦を育てる。
今ごろは緑の草原が美しく広がっているはず。
楽しみ。
●終着点
今回の旅行は、旅行というより、人生のしめくくり。
ワイフのことは知らないが、私はそうとらえている。
ちょうど41年。
オーストラリアでの学生生活を「出発点」とするなら、今が「終着点」。
その41年を、何とか乗り切った。
生き延びた。
私の人生を総括すると、そうなる。
つまり自由業というのは、そういうもの。
「自由」というのは、そういうもの。
だれにも頼らず、たったひとりで生きる。
が、充実感は、それほどない。
私のばあい、いつもハラハラしながら、生きてきた。
今の今も、そうだ。
こういう旅行をしながらも、別の心では、すでに帰国後のことを考えている。
あるいは、そのころ、日本はさらに混乱しているかもしれない。
またまた原発事故の話になる。
今のやり方では、だめ。
●フンギリ
「フンギリ」という言葉がある。
「糞切り」と書くのか。
どこかでフンギリをつける。
そのフンギリが感じられない。
事故直後から、廃炉を覚悟すべきだった。
廃炉を覚悟で、処理に取りかかるべきだった。
が、それを何とか原子炉を残そうとした。
今の今もそうだ。
原子炉内への注水とタービン室の排水。
この2つを両立させようとしている。
が、このやり方では問題は解決しない。
へたをすれば、両倒れ。
私なら、海はあきらめ、原子炉のメルトダウンだけを考えて対処する。
海の汚染は、まだ何とかなる。
しかし原子炉がメルトダウンし、原子炉が爆発したら、万事休す。
死の灰は、日本中に降り注ぐ。
●自由
話は脱線したが、「自由」というのは、そういうもの。
損と得が、いつも隣り合わせになっている。
損にこだわっていたら、自由にはなれない。
深みにはまり、やがて身動きが取れなくなる。
フンギリをつけるときは、つける。
それが身を軽くする。
今回の原発事故には、そのフンギリがない。
つまり卑しき役人根性。
「やるべきことはします。しかしそれ以上のことはしません」と。
あとは責任逃れ。
そればかり。
アーア、また愚痴になってしまった!
●自由業
自由業について、一言。
今、この日本で、自由業と言えるような自由業というのは、ほとんどない。
農業にしても漁業にしても、補助金漬け。
補助金がなければなにもできない。
どう補助金漬けになっているかは、その世界の人なら、みな知っている。
町の小さな企業ですら、いかに公的機関の仕事を多く受注するかで、命運が決まる。
土建業を例にあげるまでもない。
つまりみながみな、「国」にぶらさがっている。
また「国」にぶらさがらないと生きていかれない。
一方、私など、補助金の「ホ」も手にしたことがない。
国からそれらしきものを手にしたのは、出産時の祝い金だけ。
3人の息子たちが産まれるたびに、それをもらった。
10万円x3=30万円!
計30万円!
だからこう言う。
「生き延びた」と。
●究極の選択
人生には、潮時というものがある。
今が、そのときかもしれない。
私も63歳。
団塊の世代、第一号。
ここでいつも究極の選択に迫られる。
(1) 健康な間に、好き勝手なことをする。
(2) 死ぬまで今のまま、がんばる。
「好き勝手なこと」というのは、私の夢を果たす。
私には私の夢があった。
そう、あのとき私は、オーストラリアに移住したかった。
留学生活が終わったとき、そのままオーストラリアに残りたかった。
が、それができなかった。
郷里の母が、今にも死にそうな声でこう言った。
「帰ってきておくれ」「帰ってきておくれ」と。
が、今ならそれができる。
だれにも遠慮せず、好き勝手なことができる。
ワイフも、それを言う。
「移住しましょうよ」と。
おかしなものだ。
オーストラリアを知らないワイフのほうが、積極的。
どうしてだろう?
【セントレア空港で】
●シンガポール航空
シンガポールからメルボルンまで、A380。
わかるかな?
エア・バス380だぞ。
世界最大の旅客機。
「2階席にしますか、1階席にしますか?」と聞かれた。
それでそれを知った。
もちろん私はこう答えた。
「2階席に」と。
今や、シンガポールがアジアの中心。
東京ではない。
シンガポール。
1人当たりの国民所得でも、すでに日本は追い抜かれている。
だからそういう飛行機でも買うことができる。
世界最大の旅客機。
「日本は負けたね」とワイフに言うと、ワイフもあっさりとこう認めた。
「とっくの昔にね」と。
●ラウンジで
出発まで1時間半。
ワイフラウンジで、軽い朝食。
意外と白人が少ない。
前後左右、みな、ジャパニーズ。
これも原発事故の影響か?
そんな印象をもった。
が、うるさいことといったらない。
右横の家族は、ギャーギャーと大声で騒ぎあっている。
祖父母らしき両親を中心に、2人の娘と1人の息子。
それにその子どもたち(孫)。
その孫が4人。
その向こう隣には、同じような組み合わせの家族。
子どもはいないが、やはり大声で騒ぎあっている。
のどかとは言いがたいが、平和な風景。
それにしてもうるさい!
●うるさい
左横の家族は、グアムへ行くらしい。
「グアム」と書いた大きな雑誌を開いたり、閉じたりしている。
さらにその向こう側の2人連れは、何やらを書類に書き込んでいる。
若い方の女性が、「ここはこう……」というような言い方で、もう1人の女性に指示
している。
「あと1時間……」とワイフが言った。
搭乗ゲートは、14番。
一番、端。
今、右横の家族を見たら、そちらは「韓国」と書いた本を読んでいる人がいた。
あのうるさい家族は、韓国へ行くらしい。
韓国でも同じように騒ぐのだろうか。
「早めに14番ゲートへ行くか」と私。
「うん」とワイフ。
ここはう・る・さ・い。
子どもたちまで、ギャーギャーと騒ぎ出した。
●14番ゲートで
目の前に58インチのテレビがある。
震災で犠牲になったアメリカ人教師の話をしている。
右下の案内には、「日本人を愛したアメリカ人教師」とある。
「生徒の無事を確認したあと、津波に……」と。
名前は、テイラー・アンダーソンという。
そのテイラー・アンダーソンに対する義援金募集をしている。
今度の津波で、多くの外国人も行方不明になっているという。
たぶん、もう生きてはいないだろう。
今の日本から、震災、津波、原発事故の話から逃れることはできない。
どこへ行っても、だれと話しても、その話ばかり。
●A330ー300
飛行機に乗ると、すぐ、映画、「ガリバー旅行記」を観た。
おもしろかった。
で、すぐ食事とつづき、そのあと、睡魔。
1時間ほど、眠った。
時刻は日本時間で、午後2時23分。
もう4時間も乗っている。
日本との時差は、ちょうど1時間。
シンガポールは、午後3時23分。
機種は、エアバス330。
いろいろ頭の中をさぐってみるが、エアバスに乗るのは、これがはじめて?
ボーイング社の飛行機とは、内装が微妙にちがう。
ざっと見たところ、新品。
車でいえば、新車。
汚れもなく、真新しい。
30~40年前には、アジアの国々は、みな、日本が払い下げた中古機を使っていた。
フィリッピン航空の飛行機などは、窓枠がさびていた。
が、今は、ちがう。
この世界も、すっかり様変わりした。
画面にそのつど時速(対地速度)が表示される。
それによれば、518マイル(833km)とか。
ボーンイング777や747よりは、遅い?
このあたりは、いつも強い向かい風を受ける。
そのせいかもしれない。
●さらば、日本!
若いときからそうだ。
だから、どうかそういう私を責めないでほしい。
私は若いときから飛行機に乗り、離陸したとたん、こう思う。
「さらば、日本!」と。
とたん、日本のことを忘れる。
小さな国。
それが日本。
何かにつけ、わずらわしい国。
それが日本。
そのクセが今も残っている。
「さらば、日本!」と。
今、私ははじめて、震災や津波、それに原発事故を頭の中から振り払うことができた。
この2週間、本当に重かった。
「重い」というよりショック状態。
ゆううつな気分が、四六時中、頭の中を離れなかった。
……ということは、逆に、帰国するとき、どんな気分になるのだろう。
それが心配。