ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(421)
(2) 思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!
一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。
このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリをする。
私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。
一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。
ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。
しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(422)
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。
このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。
そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。
そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。
そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。
このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)
さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(423)
(4) 知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。
思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。
子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のアルファベットを、三~六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。
そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。
また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)
つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。
原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができてしまっている。
記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところにある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(424)
●西暦二一〇〇年の世界
とても悲しいことだが、二一〇〇年には、人類は滅亡している。よく気象学者は、二一〇〇年までに地球の気温は、三~四度上昇すると言うが、そんな程度ではすまないことは、常識。
気温が一、二度あがると、不測の事態がまた別の不測の事態を生み、気温は二次関数的に上昇する。たとえばシベリアのツンドラ地帯の凍土が溶け出す、海流が変化する、など。その結果、地球の気温は金星並に、四〇〇度近くまでになるという説もある。もちろんそうなれば、人類どころか、あらゆる生物が死滅する。いや、ごく一部の生物だけが生き残る可能性はある。火山地帯のマグマの周辺でも生きている微生物がいるということだから、そういう生物にとっては、四〇〇度なんてものは、どうということはない?
問題は、人類が滅亡することではない。仮に人類が滅亡しても、ある種の生物が生き残り、そして人類がそうであったように進化をしつづけ、数億年後には別の知的生物になっている可能性がある。
そういう知的生物が、たとえばゴキブリが進化したゴキブリ人でもよいが、今の人類の化石を掘り返して、「おおきいな」「すごいね」「この化石は何の化石?」「昔しいた、バカナヒト・ザウルスの化石だよ」というような会話をすればよい。人類はあまりにも勝手なことをしすぎた。その結果、人類が滅んだとしても、それこそ自業自得というもの。
問題はそのことではなく、気温上昇とともに、食料不足、水不足、それにともなく経済的混乱、戦争が各地で勃発すること。エイズのような病気がまんえんすることも考えられる。そうなればなったで、この地球上は、まさに地獄と化する。人類は静かに滅亡する、あるいは滅亡できるような生き物ではない。わずかな食料を求めて、隣人と殺しあうような地獄絵図が、それこそ日常茶飯事に起こるようになるかもしれない。
……というようなことを考えると、身のまわりの、ありとあらゆる問題が小さく見えてくるから不思議である。もちろんここに書いたのは、ウソとまでは言えないが、そのまま信じてもらっては困る。人類には、「知恵」という武器がある。地球の温暖化をおさえるために、地球に亜硫酸ガスの傘(かさ)をかぶせるという方法もある。食料不足にしても、遺伝子工学のレベルで、人工タンパクが合成されるようになるかもしれない。
地球温暖化は大きな問題だが、しかし人類がもつ知恵を信ずることも忘れてはならない。たとえばたった一〇〇年前には不可能と思われていたようなことが、今ではつぎつぎと可能になっている。あのドラえもんの時代にさえ不可能と思われていた「どこでも電話」が、今では携帯電話となって、それをもっていない人のほうが少ないくらいになった。
同じように今は不可能と思われているようなことが、一〇〇年後には、これまたつぎつぎと可能になることだって考えられる。だから「今のレベル」を基準にして、一〇〇年後を考えてはいけない。が、しかし油断してもいけない。地球温暖化は、もう深刻な問題になりつつある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(425)
●UFO
私と女房は、巨大なUFOを目撃している。このことは、新聞のコラム(中日新聞東海版)に書いたので、興味がある人は、それを読んでほしい。で、そのあと、つまり新聞のコラムに書いたあと、「同じものを見た」という人物が、二人も名乗り出てきた。
見た場所と時間は違っていたが、地図でそのUFOが飛んだ方向を調べたら、私が見たのは、正確に真西から真東に、そして彼らの見たのは、正確に真東から真西に飛んでいることがわかった。それはともかくも、「見たものは見た」(コラム)。
しかし、だ。それほどまでに衝撃的な事件であったにもかかわらず、私にとっては、それほど衝撃的ではなかった。(同じものを見たと名乗り出てきた人には、衝撃的だったようだ。二人とも、それで人生観が変わってしまったと言っていた。一人は、そのあとインドへ仏教の研究に出かけている。)私にとっては、子どものころ、飛行機を見たときの衝撃のほうが、ずっと強かったように思う。だから今、あの夜のことを思い出しても、「まあ、確かに見たなあ」という程度の印象しかない。「見た、見た」と騒がなければならないほど、重大なできごとでもないと思っている。
しかし改めて考えてみると、やはりこれは重大なことだ。私が見たUFOは、ハバだけでも、一~二キロメートルはあった。正確な大きさはわからないが、そこらのジャンボジェットの大きさではない。しかもその消え方が、ふつうではなかった。(これについては、先の二人も同じように証言している。)まるで空の中に、溶け込むかのようにして消えた。私といっしょに目撃した女房も、「飛行機のようにだんだん遠ざかって消えたのではない」と言っている。……となると、あのUFOはいったい、何だったのか?
私も女房も丸い窓のようなものを見ている。で、それが本当に窓だとすると、あのUFOの中には、それなりの知的生物がいたということになる。しかもその知的生物は、人間よりはるかに知的であるはずだ。私が見たUFOは、音もなく、途中からは猛スピードで飛び去っていった。人間が常識とする乗り物とは、まるで違っていた。いやいや、回りくどい言い方はやめよう。
宇宙人は、確実に、いる。それも地球からきわめて近い距離に、いる。そして私たち人間を、どういう形でかはわからないが、観察している。ただ私にはわからないのは、どうしてもっと堂々と出てこないかということ。人間が混乱するのを避けるためと言う研究家もいるが、もうここまで正体がバレているのだから、出てきてもよいのではないか。あるいはほかに、出てこられない理由があるのかもしれない。それは私にはわからないが、しかしコソコソと隠れるようにして地球へくる必要はない。
……いや、これとて私の勝手な解釈なのかもしれない。が、少なくとも私は、以来、「宇宙人はいる」という前提で、ものを考えるようになった。この話は、あくまでも余談。教育論とは関係ない。ははは。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(426)
●見たものは、見た
見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。
その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。
そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。
翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。
が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。
宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。
……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。
そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書いてみた。
(2) 思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!
一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。
このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリをする。
私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。
一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。
ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。
しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(422)
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。
このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。
そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。
そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。
そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。
このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)
さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(423)
(4) 知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。
思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。
子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のアルファベットを、三~六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。
そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。
また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)
つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。
原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができてしまっている。
記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところにある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(424)
●西暦二一〇〇年の世界
とても悲しいことだが、二一〇〇年には、人類は滅亡している。よく気象学者は、二一〇〇年までに地球の気温は、三~四度上昇すると言うが、そんな程度ではすまないことは、常識。
気温が一、二度あがると、不測の事態がまた別の不測の事態を生み、気温は二次関数的に上昇する。たとえばシベリアのツンドラ地帯の凍土が溶け出す、海流が変化する、など。その結果、地球の気温は金星並に、四〇〇度近くまでになるという説もある。もちろんそうなれば、人類どころか、あらゆる生物が死滅する。いや、ごく一部の生物だけが生き残る可能性はある。火山地帯のマグマの周辺でも生きている微生物がいるということだから、そういう生物にとっては、四〇〇度なんてものは、どうということはない?
問題は、人類が滅亡することではない。仮に人類が滅亡しても、ある種の生物が生き残り、そして人類がそうであったように進化をしつづけ、数億年後には別の知的生物になっている可能性がある。
そういう知的生物が、たとえばゴキブリが進化したゴキブリ人でもよいが、今の人類の化石を掘り返して、「おおきいな」「すごいね」「この化石は何の化石?」「昔しいた、バカナヒト・ザウルスの化石だよ」というような会話をすればよい。人類はあまりにも勝手なことをしすぎた。その結果、人類が滅んだとしても、それこそ自業自得というもの。
問題はそのことではなく、気温上昇とともに、食料不足、水不足、それにともなく経済的混乱、戦争が各地で勃発すること。エイズのような病気がまんえんすることも考えられる。そうなればなったで、この地球上は、まさに地獄と化する。人類は静かに滅亡する、あるいは滅亡できるような生き物ではない。わずかな食料を求めて、隣人と殺しあうような地獄絵図が、それこそ日常茶飯事に起こるようになるかもしれない。
……というようなことを考えると、身のまわりの、ありとあらゆる問題が小さく見えてくるから不思議である。もちろんここに書いたのは、ウソとまでは言えないが、そのまま信じてもらっては困る。人類には、「知恵」という武器がある。地球の温暖化をおさえるために、地球に亜硫酸ガスの傘(かさ)をかぶせるという方法もある。食料不足にしても、遺伝子工学のレベルで、人工タンパクが合成されるようになるかもしれない。
地球温暖化は大きな問題だが、しかし人類がもつ知恵を信ずることも忘れてはならない。たとえばたった一〇〇年前には不可能と思われていたようなことが、今ではつぎつぎと可能になっている。あのドラえもんの時代にさえ不可能と思われていた「どこでも電話」が、今では携帯電話となって、それをもっていない人のほうが少ないくらいになった。
同じように今は不可能と思われているようなことが、一〇〇年後には、これまたつぎつぎと可能になることだって考えられる。だから「今のレベル」を基準にして、一〇〇年後を考えてはいけない。が、しかし油断してもいけない。地球温暖化は、もう深刻な問題になりつつある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(425)
●UFO
私と女房は、巨大なUFOを目撃している。このことは、新聞のコラム(中日新聞東海版)に書いたので、興味がある人は、それを読んでほしい。で、そのあと、つまり新聞のコラムに書いたあと、「同じものを見た」という人物が、二人も名乗り出てきた。
見た場所と時間は違っていたが、地図でそのUFOが飛んだ方向を調べたら、私が見たのは、正確に真西から真東に、そして彼らの見たのは、正確に真東から真西に飛んでいることがわかった。それはともかくも、「見たものは見た」(コラム)。
しかし、だ。それほどまでに衝撃的な事件であったにもかかわらず、私にとっては、それほど衝撃的ではなかった。(同じものを見たと名乗り出てきた人には、衝撃的だったようだ。二人とも、それで人生観が変わってしまったと言っていた。一人は、そのあとインドへ仏教の研究に出かけている。)私にとっては、子どものころ、飛行機を見たときの衝撃のほうが、ずっと強かったように思う。だから今、あの夜のことを思い出しても、「まあ、確かに見たなあ」という程度の印象しかない。「見た、見た」と騒がなければならないほど、重大なできごとでもないと思っている。
しかし改めて考えてみると、やはりこれは重大なことだ。私が見たUFOは、ハバだけでも、一~二キロメートルはあった。正確な大きさはわからないが、そこらのジャンボジェットの大きさではない。しかもその消え方が、ふつうではなかった。(これについては、先の二人も同じように証言している。)まるで空の中に、溶け込むかのようにして消えた。私といっしょに目撃した女房も、「飛行機のようにだんだん遠ざかって消えたのではない」と言っている。……となると、あのUFOはいったい、何だったのか?
私も女房も丸い窓のようなものを見ている。で、それが本当に窓だとすると、あのUFOの中には、それなりの知的生物がいたということになる。しかもその知的生物は、人間よりはるかに知的であるはずだ。私が見たUFOは、音もなく、途中からは猛スピードで飛び去っていった。人間が常識とする乗り物とは、まるで違っていた。いやいや、回りくどい言い方はやめよう。
宇宙人は、確実に、いる。それも地球からきわめて近い距離に、いる。そして私たち人間を、どういう形でかはわからないが、観察している。ただ私にはわからないのは、どうしてもっと堂々と出てこないかということ。人間が混乱するのを避けるためと言う研究家もいるが、もうここまで正体がバレているのだから、出てきてもよいのではないか。あるいはほかに、出てこられない理由があるのかもしれない。それは私にはわからないが、しかしコソコソと隠れるようにして地球へくる必要はない。
……いや、これとて私の勝手な解釈なのかもしれない。が、少なくとも私は、以来、「宇宙人はいる」という前提で、ものを考えるようになった。この話は、あくまでも余談。教育論とは関係ない。ははは。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(426)
●見たものは、見た
見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。
その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。
そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。
翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。
が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。
宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。
……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。
そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書いてみた。