最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●今朝の反省

2009-07-09 10:03:34 | 日記
●消息(身勝手な好奇心)

++++++++++++++++++++

どうしてこんな、おかしな夢を見るのか?
ときどき、見る。
で、今朝は、起きがけに、高校時代の友人の
AK君の夢を見た。
AK君の実兄が、10年ほど前、自ら命を絶った
という話は聞いていた。
重い精神疾患を、長い間患っていた。
私はその話を、2年前、中学の同窓会で
聞いた。

ところが、今朝、そのAK君が夢に出てきた。
その10年くらい前までは、年に1、2度、
我が家へ遊びに来てくれていた。
奥さんとも電話でよく話した。
が、そのころ、音信がプツリと切れた。

夢の中で、AK君が、こう言った。
「ぼくも、今度兄貴と同じように、自殺したよ」と。

+++++++++++++++++++++

●電話

 何があってもおかしくない。
私もそういう年齢になった。
だからというわけでもないが、何を聞いても、このところ驚かなくなった。
知人が死んだとか、そういう話でも、淡々と聞き流せるようになった。
知人の大病についても、そうだ。
「つぎはぼくかなあ……」と。

 しかしこういう夢は気になる。
私自身はスピリチュアル(霊)的な力といものを、信じていない。
またそんな力が、私にあるなどとは思っていない。
夢というのは、脳の奥深くに潜む潜在意識、さらにその下の無意識が具現化したもの。
そこにある(意識できない意識)が、勝手な想像をする。
今朝見た夢もそうだ。
しかし気になる。……気になった。

 が、こういう話は、自分で確かめておく必要がある。
しっかりと自分なりに結論を出しておく必要がある。
一度は、それをしておかねばならない。

 AK君の実家は、もう一人の兄が引き継いでいる。
名前も知っている。
さっそく(104)に電話をかけ、電話番号を確かめる。
つづいて、AK君の実家に電話を入れる。

 AK君自身も、実は、数年前から、重い精神病を患い、現在は、名古屋市の
そうした病院に入院している。
数年前に一度、見舞いに行ったきりになっている。

 電話には、AK君の妹氏が出た。
私は自分の名前と立場、それにたがいの関係をしっかりと話したあと、妹氏に聞いた。

私「AK君は、元気ですか?」
妹「……まだ名古屋の病院に入ったままです……」と。

●思いすごし

 やはり私の思いすごしだった。
AK君は、自殺など、していなかった。
よかった。
先日も、同じような夢を見たとき、ワイフがこう言った。
「あなたには、そういう超能力があるのかもしれないわ」と。
私は、笑って、吐き捨てた。
「バカなこと言うな」と。

 こういう話は、映画の世界ではおもしろい。
死んだ人が、その能力のある人のところへやってきて、挨拶をする……。
しかし現実の世界の話ではない。
現実の世界では、ありえない。
それを今回、確かめてみた。……みたかった。
結果、私の思いすごしだった。……ということがわかった。
やはり夢は夢。
ただのいたずら。
脳の、奥深くに住む意識が、勝手に想像しただけ。
それを知って、安心した。

私「お元気なら、それでいいです」
妹「何か、伝言があれば、伝えておきますが……」
私「いいです。今朝、AK君の夢を見たので、それで気になって電話をしただけですから」
妹「ご心配かけて、すみません」と。

 妹氏の話は、AK君からよく聞いていたが、声を聞いたのは、今朝がはじめてだった。
しかし……。
こうして私のまわりから、1人、2人……と、人が消えていく。
この淡々とした静けさこそが、不気味。
それを傍観しながら、どうして私はこんなにも冷静でいられるのか?
私はそれほどまでに、心の冷たい人間になってしまったのか?
こうした現象は、私だけに起きているものなのか?
それとも、ある一定以上の年齢になると、みな、そう考えるようになるのか?

 加えて、何というニヒリズム。
……私がAK君の実家に電話をしたのも、AK君を心配したからではない。
ただ単なる好奇心。
イヤ~ナ好奇心。
それも自分の(思い込み)を確かめるための電話。
もっと言えば、ときどき見るおかしな夢を、自ら、否定するため。
わかりやすく言えば、自分のエゴ。
が、どうして私は、こんな残酷なことができるのか。

 ……このところ私の精神状態は、あまりよくない。
だから、こんな夢を見る。
そして意味のない電話をしてしまう。

そうそう気分を入れ替えるため、今日は、ワイフと近くの温泉に行くつもり。
夜9時まで入れば、11時まで、入浴できるという。
中で、軽い食事もできるという。
一度、そこで心をリフレッシュしてくる。

(付記)
 世の中には、他人の不幸をのぞいては、それを楽しむ人たちがいる。
そういう低レベルな人たちがいる。
それをするのは、その人の勝手だが、されたほうは、たまらない。
そうした行為は、グサリと胸に突き刺さる。
胸をえぐられるような悲しみと言ってもよい。

 だから……。

 他人の不幸は、のぞいてはいけない。
世の中には、知らなくてもよいことは、山のようにある。
(一方、知らなければならないことも、山のようにあるが……。)
のぞけばのぞくほど、自分の品位をさげる。
よい例が、モーニングショー(テレビ)のゴシップ番組。

見るからに低俗なレポーターが、さも知ったかぶりをして、タレントたちのゴシップを
追いかけている。
ああいうことばかりしていると、ああいう人間になる。……なってしまう。

 そういう意味でも、ある一定の年齢になったら、つきあう人を選ぶ。
「選ぶ」といっても、勇気のいることだが、その勇気がないと、いつの間にか、
自分自身も低俗になってしまう。
が、それこそ、時間のムダ。
人生のムダ。

(付記2)

そこに不幸な人がいるなら、静かに、そっとしておいてやろう。
相手から何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやればいい。
しかしそれまで、静かに、そっとしておいてやろう。
まちがっても、人の不幸をのぞいてはいけない。
確かめてはいけない。

今朝の反省より。

●子育てジャンプ(1)

2009-07-09 09:48:16 | 日記
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(371)

●知識と思考は別

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。

その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。

もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(372)

●日本の教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。

ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・98年)と警告している(田丸先生指摘)。

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。

思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。

モンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(373)

●攻撃的に生きる人、防衛的に生きる人

 ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。会話そのものがかみあわない。話が表面的な部分で流れていくといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日で五万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だってできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。それが「結果」として表れてくるからだ。

先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、この30年間の生きざまの結果でしかない。攻撃的に生きる人と、防衛的に生きる人とでは、自ずと結果はちがってくる。

 帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(374)

●思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分がそれぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというのだ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用をコントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すのは危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけると、つぎのようになる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方でいう、「思」「慮」にあたる。

で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。

もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のことをいう。

が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切である。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけである。 

 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(375)

●考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によるところが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がないということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはいる。おとなでも考える力のないおとなはいる。

 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたときのこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言った。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。

 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべっているかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。

あるいは他人の言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからといって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言っているのでもない。)

 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざりにされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにすること」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生によく質問するのですよ」と言う。)

その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでしまったところにある。

 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。またそうでなければならない。

●子育てジャンプ(2)

2009-07-09 09:47:50 | 日記






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(376)

●子どもを一人の人間としてみる

 子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなってあらわれる。

 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くなり、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。

「おばあちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママには内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もいた。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認めること。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう視点で、子どもをみる。育てる。

 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だけ、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言えば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。

子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう子だ」というつかみどろころのことを、「核」というが、そのつかみどころ.がわかりにくくなる。教える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じになる。そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、おとなになる。

このことはたとえば同年齢の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生は、まるでおとなと子どもほどの違いがある。

 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。女性は戦後、その地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終わるわけではない。こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。そして今度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世代連鎖はつづく……。

 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そうであってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。日本型の子育て観は、決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させるという意味では、いろいろと問題がある。それがわかってほしかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(377)

●親像

 子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子どもに冷淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。
 このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入っていない人とみる。

つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子どもも疲れる。そしてその結果、子育てで失敗しやすい。

 しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人のほうが少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失敗を繰り返すこと。たとえば暴力がある。子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を受けたケースが多い。これを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てというのは、親から子どもへと代々、繰り返される。

 そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因を自分の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になるころから、自分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言って遠ざけてきた。

また別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そういう過去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこう言う。「子育てのし方がわかりません」と。

 が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめることがでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気負いが強いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てをしながらも、いつも心のどこかに戸惑いを感じていた。しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分をコントロールできるようになった。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の自分は子どもを受け入れていないぞ」と。

「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間が解決してくれる。繰り返すが、まずいのは、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(378)

●家庭は心いやす場所

 子どもの世界は、(1)家庭を中心とする第一世界、(2)園や学校を中心とする第二世界、そして(3)友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世界を中心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)

 第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならない。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。

その結果、子どもは独特の症状を示すようになる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安として……。)

(第一段階)親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズしてはっきりしない」とかいうような様子になる。

(第二段階)帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たとえば園や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に自分の部屋に引きこもるような様子を見せる。

(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだけもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、など。

 最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親がますます無理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重くなる。

 要はこうならないように、(1)家庭は心をいやす場であることを大切にし、(2)子ども自身の「逃げ場」を大切にする。ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになるが、その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はその逃げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけない。子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(379)

●家族の悪口は言わない

 ある母親は娘(小四)に、いつもこう言っていた。「お父さんは、ただの倉庫番よ。お父さんの給料が少ないから、お母さん、苦労しているのよ」と。「お父さんは大学を出てないから、苦労してるのよ。あなたはお父さんのような苦労をしないでね」と言った母親もいた。

 母親は、自分の子どもを味方にしたり、自分の夢や希望をかなえてもらいため、そう言っていたのだろうが、そういう言い方をすると、娘は父親の言うことは聞かなくなるばかりか、それ以上に母親の言うことを聞かなくなる。仮にそのとき、娘が同情したり、納得するフリを見せたとしても、それはあくまでもフリ。夫婦が一枚岩でも子育てがむずかしい時代に、こういう状態で、どうして満足な子育てができるというのか。

 たとえそうであっても、母親は子どもの前では、父親を立てる。決して封建的なことを言っているのではない。互いに高めあって、つまり高度な次元で尊敬しあってはじめて、「平等」が成り立つ。こういうケースでも、母親は子どもにはこう言う。「お父さんは、私たちのためにがんばっていてくれるのよ」とか、「お母さんはお父さんの考え方が好きよ。会社でもみんなに尊敬されているのよ」と。

 同じように、学校の先生についても、悪口を言ってはいけない。子どもが何か、悪口を言っても、相づちを打ってもいけない。「あなたたちが悪いからでしょ」と言って、はねのける。あなたが学校の先生の悪口を言うと、その言葉はどんな形であれ、(あるいは子どもの態度をとおして)、先生に伝わる。教育は人間関係で決まる。そういう話が先生に伝わると、先生は確実にやる気をなくす。そればかりではない。子ども自身が、先生に従わなくなる。そうなればなったとき、教育は崩壊する。

 親にせよ、先生にせよ、悪口は、それを言えば言うほど、その人を見苦しくする。子育てについて言えば、マイナスになることはあっても、プラスになることは何もない。とくに子どもの前では、だれの悪口にせよ、言わないことこそ、賢明。子どもの前では、その人のよい面だけを見て、それをほめるようにする。そういう姿勢が、他方で子どもを伸ばす。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(380)

●子育てのコツ(1)

 子どもの運動能力は、敏捷(びんしょう)性で決まる。敏捷性があれば、ほぼどのスポーツもできるようになる。反対にその敏捷性がないと、努力の割には、スポーツはうまくならない。で、その敏捷性を育てるには、子どもは、はだしにして育てる。

反対に、靴下に分厚い靴底の靴をはかせて、どうやって敏捷性を育てるというのか。それがわからなければ、分厚い手袋をはめて、パソコンのキーボードやピアノの鍵盤をたたいてみればよい。しかもその時期というのは、〇~二歳までに決まる。ある子ども(男児)は二歳のときには、うしろむきにスキップして走ることができた。お母さんに秘訣を聞くと、「うちの子は雨の日でもはだしで遊んでいます」ということだった。

 子どもの国語力は、母親が決める。もっと正確には、母親の会話能力が決める。将来、国語が得意な子どもにしたかったら、「ほら、バス、バス、靴は?」という言い方ではなく、「もうすぐバスがきます。あなたは靴をはいて、外でバスを待ちます」と、正しい言い方で言い切ってあげる。こうした日常的な会話が、子どもの国語力の基礎となる。

その時期も、やはり〇~二歳が重要。この時期、できるだけ赤ちゃん言葉を避け、できるだけ豊かな言葉で話しかける。たとえば夕日を見ても、「きれい、きれい」だけではなく、「すばらしいね。感動的だね。ロマンチックだね」などと、いろいろな言い方で言いかえてみる、など。

 心のやさしい子どもにしたかったら、心豊かで、穏やかな家庭環境を大切にする。子どもは絶対的な安心感(つまり子どもの側からみて、疑いをいだかない安心感)の中で、心をはぐくむ。『慈愛は母のひざに始まる』と言ったのは※だが、全幅の信頼感と、全幅の愛情に包まれて育った子どもは、話していても、ほっとするようなぬくもりを覚える。心が開いているから、親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのまま子どもの心にしみこんでいくのがわかる。あとは会話の中で、だれかを喜ばすことを教えていけばよい。

たとえば買い物に行っても、「これがあるとパパは、きっと喜ぶわね」「これを買ってあげるけど、半分はお姉さんに分けてあげようね」と。やさしい子どもというのは、自然な形で、だれかを喜ばすことができる子どものことをいう。




●輪形彷徨(1)

2009-07-09 07:01:16 | 日記



*********************************
 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
 ===○=======○====================
 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   7日号
 ================================  
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━¬¬¬¬¬――――――――――――――
★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
マガジンを、カラー版でお楽しみください。(↓)をクリック!

http://bwhayashi2.fc2web.com/page018.html
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(321)

●ああ、悲しき子どもの心

 虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らない
からだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもも
いる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児
童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。

 J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。
従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしま
っている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したこ
とは何も言わない。何もできない。

その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありなが
ら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけてい
る。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くと
ころによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事は
すべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親
は少なくともこの20年間は、遊んでばかりいる。

 そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天
的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにした
のは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともか
く、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そ
ういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。

J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それ
については母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものよ
うに、「お母ちゃんが怒るから……」と。

 親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親
という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子とい
えども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだ
から……」と、相手をしばるのは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから
……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけではない。

子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは
親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子
どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。
いや、ケダモノでもそこまではしない。

 今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が
私に伝わってくる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(322)

●人格の分離

 日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子ども
の世界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位
置づけてしまい、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。

もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペットを育てるかのような育て方をする。その
結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコールよい子と位置づける。そうで
ない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

(例1) ある女性(70歳くらい)は、孫(6歳くらい)に向かってこう言っていた。「オ
イチイネ(おいしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ
(おいしいね)」と。子どもを完全に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい
光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。「子
ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。

(例2) ある女性(70歳くらい)は、孫(10歳くらい)に電話をかけて、こう言っ
た。「おばあちゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買
ってあげるよ」と。最近は、その孫がその女性にところに遊びにこなくなった
らしい。それでその女性は、モノやお金で子どもを釣ろうとした。が、しかし
もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子どもと、バ
カにするな」と叫ぶかもしれない。 

 こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりと
おっている。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法
として、だれも問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。
未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視
点が、日本人の子育て観にはない。

 子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見え
るが、その実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、
日本独特の子育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」とい
うことになるが、これについては別のところで考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(323)

●伸びる子ども

 あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。

( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。 
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。

 以上、20問のうち、20問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということにな
る。もし○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
あるいはもしあなたの子どもがまだ、0~2歳であれば、ここに書いたようなことを、3
~4歳にはできるように、子育ての目標にするとよい。5~6歳になったとき、全問(○)
というのであれば、あなたの子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもに
なる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思考のループ【輪形彷徨】

++++++++++++++++++++

思考のループほど、恐ろしいものはない。
ループ状態に入ったとたん、思考は停止し、
その分だけ、時間を無駄にする。

私たちにとって重要なことは、歩きつづけること。
先へ行けば行くほど、さらにその先に、「先」が
現れてくる。
だからますます先に進みたくなる。
が、ループ状態に入ると、「進んでいる」と
錯覚したまま、そこで停滞してしまう。
それは思想的には、「死」を意味する。
「魂の死」と言い換えてもよい。

何も肉体の「死」だけが死ではない。

++++++++++++++++++++

●輪形彷徨(りんけいほうこう)

 思想がループ状態に入ることを、「輪形彷徨」という。
ちょうど輪のように、同じところをグルグルと回るところから、そう言う。

もちろんその半径は、それぞれの人によって、みな、ちがう。
ある人は、1日単位で、ループ状態を繰り返す。
またある人は、1年単位で、ループ状態を繰り返す。
繰り返しながら、自分では、それがわからない。
自分では、前に向かって進んでいると錯覚する。
が、実のところ、一歩も前に進んでいない。

 このことは、あなたの周辺から、何人かの人を選んで、
その人を観察してみれば、わかる。
中には、10年1律のごとく、同じことしか言わない人がいる。
(さらにひどくなると、月単位、週単位で、同じことしか言わない人がいる。)

が、その一方で、そのつど新しい視点で、新しいことを言う人もいる。
話題も豊富で、そのつど話の内容が深く、濃くなっている。

10年1律のごとく、同じことしか言わない人は、その程度の人と見てよい。
思想的には、死んだも同然。
いくら派手な言動を繰り返しても、死んだも同然。
そういう人を、「思想的死者」と呼ぶ。

●思想的死者

 輪形彷徨がこわいのは、それを繰り返しているうちに、思想がどんどんと
浅くなっていくこと。
視野もせまくなる。
それしか目に入らなくなる。

 このことは、私の母の晩年の日記を読んでいて気がついた。
私の母は、毎日その日の終わりに日記をつけていた。
が、晩年になればなるほど、毎日書いていることが同じになっている。

 「今日は雨(晴れ、うす曇り、曇り)で始まり、「~~さんが来た」「~~さんと
会った」「~~さんと話をした」という話につながる。
そしてしめくくりはいつも、「明日は晴れますように(涼しくなりますように)」と。

 私なりに母の気持ちをくみ取りたいと思ったが、日記を読む範囲では、それが
できなかった。
当時年齢も90歳に近かったから、それもしかたのないことかもしれない。
が、母にかぎらず、人は、一度、この輪形彷徨に入ると、そのワクから抜け出られなく
なる。
そしてあとはその悪循環の中で、自分の住む世界を、どんどんと小さくしてしまう。

●では、どうすればよいか

 私たちも、ふと油断すると、そのつど思考がループ状態になるのを知る。
そこで私のばあい、努めて、毎回、ちがったことを書くことにしている。
子どもたちを教えるときも、そうで、同じ年長児のクラスでも、切り口を変えるよう
にしている。
内容そのものも、変えることがある。
こうして自分の思考が、ループ状態に入るのを防ぐ。

 が、このところ、ときどき恐ろしい経験をする。
「このテーマは初めて……」と思って書いている原稿でも、検索してみると、
同じようなことを、数年前に書いたのを知るときがある。
しかも数年前に書いた原稿のほうが、内容が深い!

 たとえば「思考のループ」にしても、実は、それについて書くのは、今回が
初めてではない。

(ここで、ヤフーの検索機能をつかって、検索してみた。)

「はやし浩司 思考のループ」で検索してみたら、ナント、204件もヒットした。
それも、だ。
最新の原稿は、08年11月付けとなっている!
私は6か月前に、同じことを考えていたことになる。
以下、かなりの長文になるが、それをそのまま、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●思考のループ

++++++++++++++++++
うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。

(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。
そこで最近、こんなことに気がついた。
若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。
つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。
「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。
つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

+++++++++++++++++

●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。
そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。
たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。
先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。

「私だって、そんなバカではありません!」と。
私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。
が、それはそのまま私自身の問題でもある。

●輪形彷徨(2)

2009-07-09 07:00:50 | 日記


私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。
考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。
だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)
認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。
とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。
少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

++++++++++++++++
思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。
++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題
を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思
い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大
さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。
知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る
人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そ
こで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさら
に低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすれ
ばよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が
子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーに
している。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。た
しか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさか
のぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を
感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年
前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考
えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それと
もしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこと
だ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよ
い(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもって
いる。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってし
まうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、
あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日
からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決
めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返し
ていく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。
ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言
葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方
をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるの
ではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタ
レントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思い
ついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、
何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしてい
るだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、
考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くよう
な苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。
しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そ
のためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正し
いかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうな
こと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか
言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなく
なってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」
ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考
えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一
度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしま
う。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小
さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうで
もよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、
そういうさまざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」であ
る。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であ
ることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前
の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。
そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることがで
きる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できな
い子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考え
ることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいてい
その途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプ
の子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はど
こまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとす
ると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。
どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先
生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い
子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで
遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だ
し、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察す
ると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないとい
った様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たい
へん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。
待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、
以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。
やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる
……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで
考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身
に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。
勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
思考のループ ループ性 ループ状態)


【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んで
いる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、
活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれ
てこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準を
つくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生
まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもな
く、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どう
すれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることが
できるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっ
ているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)
の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけて
よいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何が
なんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのは
その場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)~(4)の状態が、日常的に起こる
と考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわ
かると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
勉強が苦手 勉強が苦手な子供)

(1) 思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の
仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。
そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そ
のあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がか
かってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に
指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てら
れない……。