ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(337)
●子どもを使うということ
忍耐力を養うためには、子どもは使う。ただ、「子どもを使う」といっても、何をどの程度させればよいということではない。子どもを使うということは、家庭の緊張感の中に、子どもを巻き込むことをいう。たとえばこんなテスト。
あなたの子どもの前で、重い荷物をもって運んでみてほしい。そのときあなたの子どもがそれを見て、「ママ手伝ってあげる!」と言って飛んでくればよし。そうでなく、見て見ぬフリをしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘とみてよい。今は体も小さく、あなたの前でおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。
昔、幼稚園で、母親たちの何かの集会があったときのこと。やってくる母親たちにスリッパを出してあげていた子ども(年長男児)がいた。だれかに頼まれたわけではない。で、その子どもは集会が始まると、今度は、炊事室へ行き、炊事室のおばさんに、お茶を出すからお茶をつくってほしいとまで言ったという。たまたま彼の母親がその場にいたが、その母親は笑いながら、こう言った。「うちの子はよく気がつくのですよ。先日は何かのセールスの人にまで、お茶を出していました」と。
このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう「忍耐力」だからである。その忍耐力があるかないかも、簡単なテストでわかる。試しに子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを始末して!」と。あるいは風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。
そのとき「ハーイ」と言って、手で始末できれば、あなたの子どもはかなり忍耐力のある子どもとみる。そうでない子どもは、「いやだ」「やりたくない」とか言って逃げる。年齢が大きくなると、「自分でしな」「どうしてぼくがしなければいかんのか!」と言うようになる。そうなると、このしつけをするのは、もう手遅れ。
皮肉なことに子どもというのは、使えば使うほど、すばらしい子どもになる。一方、楽をさせればさせるほど、ドラ息子、ドラ娘になる。そういう意味でも、日本人は、「子どもを大切にする」ということが、まだよくわかっていない? さらに「子どもをかわいがる」ということが、まだよくわかっていない? 子どもにベタベタの依存心をもたせながら、それがかわいがることだというふうに誤解している人はいくらでもいる。しかしそうなればなったで、苦労するのは結局は子ども自身であることを忘れてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(338)
●三つの失敗
子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。
ある母親が娘(高校1年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて母親を無視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その1。
父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校3年生になった娘に、父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 私を大学へやるのは、あんたの役目でしょ」と。
そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼んで、「お父さんのことをわかってあげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときから、さんざん勉強しろ、勉強しろと言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもないのに、進学塾へ入れさせられた。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどうだったとそんなことばかり。この状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『もう勉強しなくていい』って、どういうこと。そんなことを言うの許されるの!」と。これが失敗、その2。
Yさん(女性40歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医者にするのが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかりとした設計図をもち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさんにしてみれば、明けても暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「うるさい」の取っ組みあいもしたという。
が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさんは息子に勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思いはどこかにありましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許してくれると思っていました」と。
で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽きてしまった。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に「家庭教師でも何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣いて頼んだが、程度ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その3。
こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失敗、あるいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(339)
●断絶とは
「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその機能を果たさなくなる。
親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こういう状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。
日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。
価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべてマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(340)
●親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ
親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)相互不信がある。
まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子どもを妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセットレコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生まれると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの口に押し込む親がいる。「もうすぐ3時間50分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かないのかしら……。もう4時間なのに……」と。
そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知っている」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考える。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。
このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。
私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。
いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そしてそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。
つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを3枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子どもは、それを知っている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(341)
●親子の断絶の3要素、(2)価値観の衝突
日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存性をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。
たとえばこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子どもの自立は遅れる。
が、この日本では、「依存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながらに、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と言っていた。
私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらしい人だなと思った。しかし10分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるのを感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがある。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?
で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そのまま子育てに反映される。
子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることだ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った60歳くらいの女性が、五歳くらいの孫にこう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすることが、子どもを愛することだと誤解している人は多い。
そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、19%に過ぎない(総理府、平成九年調査)。
どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつけても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観の衝突へと進む。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(342)
●親子の断絶の三要素、(3)信頼関係の喪失
子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れるということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。
「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミのようなものだ。
イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなたのことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思っていると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。
昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子どもが床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ~!」と言って手を振ったりした。
子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。
最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を繰り返す。子どもに向かっては、「あなたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返す。これを数か月、あるいは半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもはその「いい子」になっている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(343)
●親子のリズムを取り戻すために(1)
昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には3つの役目がある。1つ目は親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。2つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロテクター)として。そして3つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。
日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つが、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。
たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(60歳くらい)が、5歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチョ、楽チイネ」と。
5歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱いしてよいものか。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。
日本には親意識という言葉がある。この親意識には、2つの意味がある。1つは「親としての自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう1つは、「私は親だ」式に、子どもに向かって親の権威を押しつける親意識。
この親意識が強ければ強いほど、親は、子どもの横に立つことができなくなる。というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国という特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語すらない。
あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言うまでもなく、この日本ではたった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに徹底した支配、従属関係を築く。
が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも200万枚(CBSソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、300万枚以上」ということだそうだ。
あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(344)
●親子のリズムを取り戻すために(2)
尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なのか」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラス壊して回った」と歌う。
問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそれにかわる新しい価値観をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親や母親の混乱の原因となっていった。
最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろな統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学6年生までにたったの一度しかない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい……!
教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それにかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。
で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方をつくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくてはいけないと考える。
そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。
子どもに向かって、「~~しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と甘くささやくのではなく、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心を確かめながら行動する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子どものうしろを歩く。こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。
●子どもを使うということ
忍耐力を養うためには、子どもは使う。ただ、「子どもを使う」といっても、何をどの程度させればよいということではない。子どもを使うということは、家庭の緊張感の中に、子どもを巻き込むことをいう。たとえばこんなテスト。
あなたの子どもの前で、重い荷物をもって運んでみてほしい。そのときあなたの子どもがそれを見て、「ママ手伝ってあげる!」と言って飛んでくればよし。そうでなく、見て見ぬフリをしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘とみてよい。今は体も小さく、あなたの前でおとなしくしているかもしれないが、やがてあなたの手に負えなくなる。
昔、幼稚園で、母親たちの何かの集会があったときのこと。やってくる母親たちにスリッパを出してあげていた子ども(年長男児)がいた。だれかに頼まれたわけではない。で、その子どもは集会が始まると、今度は、炊事室へ行き、炊事室のおばさんに、お茶を出すからお茶をつくってほしいとまで言ったという。たまたま彼の母親がその場にいたが、その母親は笑いながら、こう言った。「うちの子はよく気がつくのですよ。先日は何かのセールスの人にまで、お茶を出していました」と。
このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう「忍耐力」だからである。その忍耐力があるかないかも、簡単なテストでわかる。試しに子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを始末して!」と。あるいは風呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。
そのとき「ハーイ」と言って、手で始末できれば、あなたの子どもはかなり忍耐力のある子どもとみる。そうでない子どもは、「いやだ」「やりたくない」とか言って逃げる。年齢が大きくなると、「自分でしな」「どうしてぼくがしなければいかんのか!」と言うようになる。そうなると、このしつけをするのは、もう手遅れ。
皮肉なことに子どもというのは、使えば使うほど、すばらしい子どもになる。一方、楽をさせればさせるほど、ドラ息子、ドラ娘になる。そういう意味でも、日本人は、「子どもを大切にする」ということが、まだよくわかっていない? さらに「子どもをかわいがる」ということが、まだよくわかっていない? 子どもにベタベタの依存心をもたせながら、それがかわいがることだというふうに誤解している人はいくらでもいる。しかしそうなればなったで、苦労するのは結局は子ども自身であることを忘れてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(338)
●三つの失敗
子育てには失敗はつきものとは言うが、その中でもこんな失敗。
ある母親が娘(高校1年)にこう言ったときのこと。その娘はこのところ、何かにつけて母親を無視するようになった。「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」と。それに答えてその娘はこう叫んだ。「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。これが失敗、その1。
父親がリストラで仕事をなくし、ついで始めた事業も失敗。そこで高校3年生になった娘に、父親が大学への進学をあきらめてほしいと言ったときのこと。その娘はこう言った。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、私の学費を用意してよ! 私を大学へやるのは、あんたの役目でしょ」と。
そこで私に相談があったので、その娘を私の家に呼んだ。呼んで、「お父さんのことをわかってあげようよ」と言うと、その娘はこう言った。「私は小さいときから、さんざん勉強しろ、勉強しろと言われつづけてきた。中学生になったときも、行きたくもないのに、進学塾へ入れさせられた。そして点数は何点だった、偏差値はどうだった、順位はどうだったとそんなことばかり。この状態は高校へ入ってからも変わらなかった。その私に、『もう勉強しなくていい』って、どういうこと。そんなことを言うの許されるの!」と。これが失敗、その2。
Yさん(女性40歳)には夢があった。長い間看護婦をしていたこともあり、息子を医者にするのが、夢であり、子育ての目標だった。そこで息子が小さいときから、しっかりとした設計図をもち、子どもの勉強を考えてきた。が、決して楽な道ではなかった。Yさんにしてみれば、明けても暮れても息子の勉強のことばかり。ときには、「勉強しろ」「うるさい」の取っ組みあいもしたという。
が、やがて親子の間には会話がなくなった。しかしそういう状態になりながらも、Yさんは息子に勉強を強いた。あとになってYさんはこう言う。「息子に嫌われているという思いはどこかにありましたが、無事、目標の高校へ入ってくれれば、それで息子も私を許してくれると思っていました」と。
で、何とか息子は目的の進学高校に入った。しかしそこでバーントアウト。燃え尽きてしまった。何とか学校へは行くものの、毎日ただぼんやりとした様子で過ごすだけ。私に「家庭教師でも何でもしてほしい。このままでは大学へ行けなくなってしまう」と母親は泣いて頼んだが、程度ですめばまだよいほうだ。これが失敗、その3。
こうした失敗は、失敗してみて、それが失敗だったと気づく。その前の段階で、その失敗、あるいは自分が失敗しつつあると気づく親は、まずいない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(339)
●断絶とは
「形」としての断絶は、たとえば会話をしない、意思の疎通がない、わかりあえないなどがある。「家族」が家族として機能していない状態と考えればよい。家族には助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうという5つの機能があるが、断絶状態になると、家族がその機能を果たさなくなる。
親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大げんか! そして一度、こういう状態になると、あとは底なしの悪循環。親が修復を試みようとすればするほど、子どもはそれに反発し、子どもは親が望む方向とは別の方向に行ってしまう。
しかし教育的に「断絶」というときは、もっと根源的には、親と子が、人間として認めあわない状態をいう。たとえば今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。
もっともほんの少し前までは、この日本でも、親の権威は絶対で、子どもが親に反論したり、逆らうなどということは論外だった。今でも子どもに向かって「出て行け!」と叫ぶ親は少なくないが、「家から追い出される」ということは、子どもにとっては恐怖以外の何ものでもなかった。江戸時代には、「家」に属さないものは無宿と呼ばれ、つかまればそのまま佐渡の金山に送り込まれたという。その名残がごく最近まで生きていた。いや、今でも、親の権威にしがみついている人は少なくない。
日本人は世間体を重んじるあまり、「中身」よりも「外見」を重んじる傾向がある。たとえば子どもの学歴や出世(この言葉は本当に不愉快だが)を誇る親は多いが、「いい家族」を誇る親は少ない。中には、「私は嫌われてもかわまない。息子さえいい大学へ入ってくれれば」と、子どもの受験競争に狂奔する親すらいる。
価値観の違いと言えばそれまでだが、本来なら、外見よりも中身こそ、大切にすべきではないのか。そしてそういう視点で考えるなら、「断絶」という状態は、まさに家庭教育の大失敗ととらえてよい。言いかえると、家族が助け合い、わかりあい、教えあい、守りあい、支えあうことこそが、家庭教育の大目標であり、それができれば、あとの問題はすべてマイナーな問題ということになる。そういう意味でも、「親子の断絶」を軽く考えてはいけない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(340)
●親子の断絶の三要素、(1)リズムの乱れ
親子を断絶させる三つの要素に、(1)リズムの乱れ、(2)価値観の衝突、それに(3)相互不信がある。
まず(1)リズムの乱れ。子育てにはリズムがある。そしてそのリズムは、恐らく母親が子どもを妊娠したときから始まる。中には胎児が望む前から(望むわけがないが)、おなかにカセットレコーダーを押しつけて、英語だのクラシック音楽を聞かせる母親がいる。さらに子どもが生まれると、今度は子どもが「ほしい」と求める前に、時計を見ながら、ミルク瓶を無理やり子どもの口に押し込む親がいる。「もうすぐ3時間50分……おかしいわ。どうしてうちの子、泣かないのかしら……。もう4時間なのに……」と。
そしてさらに子どもが大きくなると、子どもの気持ちを確かめることなく、「ほら、英語教室」「ほら、算数の教室」とやりだす。このタイプの母親は、「子どものことは私が一番よく知っている」とばかり、何でもかんでも、母親が決めてしまう。いわゆる『ハズ論』で子どもの心を考える。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「こうすれば子どもは感謝するハズ」と。
このタイプの母親は、外から見ると、それがよくわかる。子どものリズムで生活している母親は、子どもの横か、うしろを歩く。しかしこのタイプの母親は、子どもの前に立ち、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩く。あるいはこんな会話をする。
私、子どもに向かって、「この前の日曜日、どこかへ行ってきたの?」、それを聞いた母親、会話の中に割り込んできて、「おじいちゃんの家に行ってきたわよね。そうでしょ。だったらそう言いなさい」、そこで私、再び子どもに向かって、「楽しかった?」と聞くと、母親、また割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、楽しかったと言いなさい」と。
いつも母親のほうがワンテンポ早い。このリズムの乱れが、親子の間にキレツを入れる。そしてそのキレツが、やがて断絶へとつながっていく。あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの? お母さんが、毎週高い月謝を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。それがわかっているの!」「いつ、だれがあんたにそんなことをしてくれと頼んだ!」と。
つまりこのタイプの親は、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを3枚するようになれば、親は、「四枚やらせたい」と言うようになる。子どもは、それを知っている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(341)
●親子の断絶の3要素、(2)価値観の衝突
日本の子育てで最大の問題点は、「依存性」。日本人は子どもに、無意識のうちにも依存性をもたせ、それが子育ての基本であると考えている。
たとえばこの日本では、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、昔から「鬼っ子」として嫌う。言うまでもなく、依存と自立は、相対立した立場にある。子どもの依存性が強くなればなるほど、子どもの自立は遅れる。
が、この日本では、「依存すること」そのものが、子育ての一つの価値観になっている。たとえば「親孝行論」。こんな番組があった。数年前だが、NHKの『母を語る』というのだが、その中で、歌手のI氏が涙ながらに、母への恩を語っていた。「私は女手ひとつで育てられました。その母の恩に報いたくて東京へ出て、歌手になりました」と。I氏はさかんに「産んでもらいました」「育てていただきました」と言っていた。
私はその話を聞いて、最初は、I氏はすばらしい母親をもったのだな、I氏の母親はすばらしい人だなと思った。しかし10分くらいもすると、大きな疑問が自分の心の中に沸き起こってくるのを感じた。本当にI氏の母親はすばらしい人なのか、と。ひょっとしたらI氏の母親は、I氏を育てながら、「産んでやった」「育ててやった」と、I氏を無意識のうちにも追いつめたのかもしれない。そういう例は多い。たとえば窪田聡という人が作詞、作曲した『かあさんの歌』というのがある。あの歌の歌詞ほど、ある意味で恩着せがましく、またお涙ちょうだいの歌詞はない?
で、結局はこうした「依存性」の背景にあるのは、子どもを一人の人間としてみるのではなく、子どもを未熟で未完成な半人前の人間とみる、日本人独特の「子ども観」があると考える。「子どもは子どもでないか。どうせ一人前に扱うことはできないのだ」と。そしてこういう「甘さ」は、そのまま子育てに反映される。
子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることだ。子どもを大切にするということは、子どもに苦労させないことだと考えている人は多い。先日もロープウェイに乗ったとき、うしろの席に座った60歳くらいの女性が、五歳くらいの孫にこう話していた。「楽チイネ、おばあチャンといっチョ、楽チイネ」と。子どもを子ども扱いすることが、子どもを愛することだと誤解している人は多い。
そこで価値観の衝突が始まる。たとえば親孝行論にしても、「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。しかし現実には、総理府の調査でも、今の若い人たちで、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と答えている人は、19%に過ぎない(総理府、平成九年調査)。
どちらが正しいかという問題ではない。親が一方的に価値観を押しつけても、今の若い人たちはそれに納得しないだろうということ。そしてそれが、いわゆる価値観の衝突へと進む。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(342)
●親子の断絶の三要素、(3)信頼関係の喪失
子どもをあるがままを受け入れろとはよく言われている。しかし子どもをあるがまま受け入れるということは、本当にむずかしい。むずかしいことは、親なら、だれでも知っている。さらに子どもを信じろとも、よく言われている。しかし子どもを信ずるということはさらにむずかしい。
「うちの子はいい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。そうでなければ、そうでない。子どもは長い時間をかけて、あなたの思いどおりの子どもになる。そういう意味で子どもの心はカガミのようなものだ。
イギリスの格言にも、「相手は、あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。たとえばあなたがAさんのことを、「いい人だ」と思っていると、相手も、あなたのことを「いい人だ」と思っているということ。子どももそうで、「うちの子はいい子だ」と思っていると、子どもも「うちの親はいい親だ」と思うようになる。そうでなければそうでない。
昔、幼稚園にどうしようもないワル(年中男児)がいた。友だちを泣かせる、ケガをさせるは日常茶飯事。先生たちも手を焼いていた。が、ある日私がその子どもを見かけると、その子どもが床にはいつくばって絵を描いていた。そして隣の子どもにクレヨンを貸していた。私はすかさずその子をほめた。ほめて、「あなたはいい子だなあ。やさしい子だな」と言った。それから数日後もまた見かけたので、また同じようにほめてやった。「君は、クレヨンを貸していた子だろ。いい子だなあ」と。それからもその子どもはワルはワルだったが、どういうわけか、私を見かけると、そのワルをパッとやめた。私に向かって、「センセ~!」と言って手を振ったりした。
子どもを伸ばす秘訣は、子どもを信ずること。子どもというのは、(おとなもそうだが)、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを前向きに伸ばす。もしあなたが今、「うちの子はどうも心配だ」と思っているなら、今日からその心をつくりかえる。方法は簡単だ。
最初はウソでもよいから、「うちの子はいい子だ」を繰り返す。子どもに向かっては、「あなたはすばらしい子だ」「どんどんよくなっている」を繰り返す。これを数か月、あるいは半年とつづける。やがてあなたがその言葉を、自然な形で言えるようになったとき、あなたの子どもはその「いい子」になっている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(343)
●親子のリズムを取り戻すために(1)
昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には3つの役目がある。1つ目は親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。2つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロテクター)として。そして3つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。
日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。その理由の一つが、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。おとなはおとなだが、子どもを半人前の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。
たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(60歳くらい)が、5歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチョ、楽チイネ」と。
5歳といえば、人格の形成期に入る。その時期に、こうまで子どもを子ども扱いしてよいものか。子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。子どもを大切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。
日本には親意識という言葉がある。この親意識には、2つの意味がある。1つは「親としての自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。もう1つは、「私は親だ」式に、子どもに向かって親の権威を押しつける親意識。
この親意識が強ければ強いほど、親は、子どもの横に立つことができなくなる。というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下と。日本人は長い間の、極東の島国という特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語すらない。
あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。言うまでもなく、この日本ではたった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに徹底した支配、従属関係を築く。
が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。その一例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。あの歌は、CDのジングル版だけでも200万枚(CBSソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、300万枚以上」ということだそうだ。
あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。私たち団塊の世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(344)
●親子のリズムを取り戻すために(2)
尾崎豊は「卒業」をとおして、おとなたちの権威を否定した。「先生、あんたもか弱き羊なのか」と彼は歌った。尾崎のこの歌は、まさにその世代の「俺たちの怒り」を代弁したものだった。そこで尾崎は、「行儀よく、まじめなんてできやしなかった」と歌い、つづけて「夜の校舎、窓ガラス壊して回った」と歌う。
問題はここである。尾崎は権威を破壊した。それはわかる。しかしそれにかわる新しい価値観をつくることができなかった。そしてそれがそのまま、今の若い父親や母親の混乱の原因となっていった。
最近、よく家庭における教育力の低下を訴える論調をみかける。しかし実際には、いろいろな統計結果をみても、家庭における教育力は低下などしていない。私の世代とくらべるのもヤボなことだが、私たちの時代には、親子の触れあいなど、ほとんどなかった。親も自分たちが食べていくだけで精一杯。家族旅行にしても、私のばあい、小学6年生までにたったの一度しかない。しかし今は違う。日曜日ごとにドライブをする。各地の行楽地は親子連れでいっぱい……!
教育力が低下したのではなく、親たち自身が、古い価値観を否定し、破壊したものの、それにかわる新しい価値観をつくれないでいる。そしてそれが原因で、家庭教育が混乱している。教育力が低下したのは、あくまでもその結果でしかない。昔は、「親に向かって何だ!」と、親が一喝すれば、子どもはそれで黙った。しかし今は、違う。親自身がそうであってはいけないと思っている。その迷いがそのまま、混乱となった。
で、ここで二つの考え方が生まれる。一つは旧来型の「親の権威を取り戻そう」という考え方。私はこれを復古主義と呼んでいる。もう一つは、「そうであってはいけない。新しい考え方をつくろう」という考え方。私は当然のことながら、後者の考え方を支持する。またそうでなくてはいけないと考える。
そこでどうするか? 新しい価値観をつくるためにどうするか? もう答はおわかりかと思う。基本的には、子どもは生まれながらにして、一人の人間として認める。そして時には、子どもの前やうしろを歩くことはあっても、しかしそれ以上に、子どもの横を歩く。
子どもに向かって、「~~しなさい」と叫んだり、子どもに向かって、「おいチイネ、おいチイネ」と甘くささやくのではなく、「あなたはどう思うの」「あなたは私に何をしてほしいの」と、子どもの心を確かめながら行動する。子どもと一緒に歩くときも、務めて子どもの横を歩く。できれば子どものうしろを歩く。こうした謙虚な気持ちが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。