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ぶらいやWATTY 探求の泉

人生も残り少なくなってきたので、単なる近況報告となります。

【妄想】仏教の世界とキリスト教の世界

2025年04月10日 22時30分05秒 | 妄想
大きな違いの一つは人間は仏になることを目指すが、人間は神(天主)には絶対になれないということだ。「仏を目指す」というが、いまのところ現世では欲望にまみれている人間ばかりなので、本当に目指している人は極少数であろう。無論、私も目指してなんかいない。目指していたら仏門には入らずとも執着を捨てる生活に入っていなければならぬ。

「嘘だ!!日本ではあんなに沢山の神様がいるではないか。」というが、そんなこと言っていること自体、欧米諸国との神の概念の違いに気づいていないということになる。
欧米のキリスト教などが示す神というのは絶対神で唯一無二のものである。全知全能どこにでも存在している普遍的な存在である。
私が何度もキリスト教精神によって近代資本主義社会や近代人権思想が生まれたと言っているので私をキリスト教信者ではないかと見ている者が居るがそれは誤解であり、私はキリスト教を信じていない。そしてこの学説(考え)は私のものでは無く、歴史上に燦然と輝く数々の識者(本当の識者。日本における「有識者会議」等お芝居での"インチキ"識者とは違います)が研究や思索によって生み出された学説や結論であります。

日本の仏教でもそうだが、キリスト教やイスラム教でも、神や仏に「人格」があるように表現している。私はそれ自体が誤りでないのかと思っている。
そう私が考えている時点でいずれの宗教に与していないのである。
経典宗教(ユダヤ~キリスト~イスラム教)は経典を全て信じなければ信者でないからである。
なにしろ、ユダヤ教やキリスト教の神(天主)は他の邪神を拝んだら怒り出す恐ろしい神なのである。仏に人格があると思うのはまだ理解できる。元々は人間等の衆生だったかもしれないからだ。確か弥勒菩薩ですら人間時間ではあと60億年弱の修行を経なくては仏にならないという。ただ菩薩になったので仏になるのはもう既定路線、つまり今後は道を外れることなく「予定どおり」に仏様になれるというわけだ。仏様は何体(人)いらっしゃるかわかりませんが、法(dharma)を悟った者が仏であるからおそらく一体ではあるまい。

「人格」でなく「神格」なら有りうる。ただ「神格」に人間的感情の有無はわからぬ。人間という受信者が、神意と相対する際「人格」として受け取り捉えるだけなのではないか。もしかしたら予期不能の法的「運動体」として活動しているだけなのではないか。

よく大災害や戦争があったとき、神が本当に存在するならば何故人間を救わないのか、悪事を企み多くの人達を死に追いやる極悪人・欲深な人間を稲妻や火炎や霊力などで殺害して始末しないのかと言う人が居る。
思うに、神(天主)はそんな些末なことには関わらないのだろう。人間にとっては極めて深刻で耐えがたい苦痛・苦悩でも自ら克服すべき(天主からみて)些末な問題であり、いちいち関与せず自力または他人の協力を得て悪役も居る修行ドラマ配役(一定のシナリオはあるがハプニングやアドリブもあり)の中で克服すべきと思っているのだろう。私も畑を耕しているとき、いちいちミミズや草花に気を使わない様に(まあ、私の場合は気が付いたらできるだけ配慮している。無闇な殺生はしない主義だから。途轍もなく卑怯な裏切者や悪人が惨たらしく死ぬとか復讐を果たすことは大好物で喜びだけどね。)。一応、ここまでの思考は「神(天主)が実際に存在する」という仮定上の話であることはここであらかじめ伝えておくよ。
ここで理解してもらえただろうが、私も"地獄"の住人である。イエスみたいに「頬を叩かれたら他方の頬も差し出せ」と言われてもできませんよ。当然殴り返す。復讐に愉悦を感じる人間なので"地獄の住人"なのである(スウェデンボルグ「霊界紀行」参照のこと)。そんな性格を克服したいかと言われたら、返事に困る。私は基本は平和主義者なので、生理的嫌悪は如何ともし難いけど、善人や尊敬に値する人とか何の恨みもない人達にはにこやかに応じたい。
またトラブルの際はなるべく話し合いで解決したいが駄目なときは爆発する。

以前も投稿したが、私は原始仏教に近いものを信じている(インド~中国~日本に伝播して曲がってしまったものは信じない)ので、法(dharma)だけが唯一絶対と思い、それがスウェデンボルグの唱える"霊界の太陽"と同一というなら納得するが、ユダヤ~キリスト~イスラム教の神(天主)と同一とは、経典に著されている神(天主)に「人格」の薫りがする点で信じられない。預言者自体の妄想が混入したか、もしくは厳しい生活環境で生き抜く民に厳格な規律を課した(それでもモーセの十戒(じっかい)と付随する613の命令だけ)仲立ちで介在した高級霊(思考体)の配慮だったのかもしれない。当然、その高級霊が彼らの「神(天主)」であると思うので、私は唯一無二の絶対神とは思っていないのである。法(dharma)または霊界の太陽なくしては神(天主)またはアラーも全知全能ではいられないのであると解釈してもらって構わない。

「人格」の認識に関しては、人間というものは、神に対しても、愛玩動物含む他の生物に対しても「人格」を求めてしまうのは習性としてやむを得ないことだろう。意思疎通は完全にできないので真意をつかむことは困難だろうが、まあ対人間でも困難なんだから。

仏教やキリスト教にも「天国」と「地獄」が存在すると思っている人達は多いが、実際にそう唱えているのはイスラム教だけである。非常に具体的に描写している。仏教は実在論を否定する。人間の心の外にあるものは全て妄想である。キリスト教においては「神の国」はあるが「天国」はない。「神の国」とは最後の審判の日に再誕した肉体を有するイエス・キリストがそこに入る人間と入れない人間を峻別して、入れなかった人間は永遠の死を迎えるというのだ。「神の国」の具体的表現は無い。キリスト教の「天国」は後世における文学的・芸術作品であり、ドラマの「水戸光圀」みたいな願望混じる創作話である。聖書に「天国」なる記述はない。

キリスト教の教義には"矛盾"や"本当かいなと疑念"あるものが多く、例えば、三位一体説(天主・絶対神と精霊とイエスで「三神」でなく「一体」という説)や先ほどの「最後の審判」である。昔は"何もない"空中からパンを出すとか十字架で刑死したイエスが死んだときの肉体(「新しい肉体」ではない)のまま再生したというのも信用していなかったが、今はそんなこと有ってもいいかもと思っている。
それは今でいうマジック(手品)であり、イエスにはもう一人双子の兄弟が居て、彼が民衆の前に再び現れたという説を述べる者もいる。
私は実際にそんな"奇跡"があってもいいかなと思う側である。

「三位一体説」の宗教論争でも意見や主張の違いで分派が促進するのだが、一般庶民であれば「そんなことどうでもいいじゃないか」「こんなことで分派して時に争うから信用できないんだよ」「とにかく神(天主)の存在を信じさえすればいいんだ」などと言い出すものだが、こういう論争を通して、信仰が正しいか正しくないか深化・純化があり、矛盾点の指摘がなされ、各個人の願望・妄想や迷信を排して合理的精神や正統性の議論が育つのである。ここも※日本の弱点である。
※組織・団体内でその時の権力者や権威者、勢いのある者が主導して、または集団心理で「迷信」が育つことがある。例えば(例えが悪いかもしれぬが)甲子園神話や箱根神話、もしかしたらイェルサレム神話もだが「聖地化」「聖城」するのである。不文化規範の鉄板化も。
「想い」が「行為」に宿り、製品や土地に「魂が宿る」と言えばいいのか。
これが職人気質で高品質な製造品に繋がるのなら良いが、頻繁に只の思い込みや思い上がりであり、他組織・団体に所属している人やフリーランスから見たら不気味で理解不能なものに見えるのである。宝塚なら「阪急電車に敬礼する」儀礼とか。こういった迷信や悪習慣を打破して合理化するには、強固な一般市民規範が必要である。

後発宗教であるイスラム教は、先発宗教の矛盾を意識して解消したのかどうかわからぬが、せいぜい「スンニ派」と「シーア派」の分派しかなく、これがかえって合理的精神の育成が不十分になった要因だったのでないか(これは個人的な意見)。現在「シーア派」は対イスラエル勢力の核となっている。

「最後の審判」については、今更イエスの身体を肉体として再生することができるのだろうかという大きな疑問があり、しかも、今までに亡くなり(これはあくまで「仮の死」)審判で赦された人達も「神の国」誕生時には完全な肉体を取り戻すというのであるから、到底私には信じられない。敬虔なキリスト教徒でも、さすがにこのことは何らかの比喩と解釈している人もいる。
(執筆中・PCの性能か何かの理由で、抜けたり余計な文字が付加されてしまうので修正もしている)
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