部長ブログ@箕面市役所

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箕面のまちづくりと鉄道(4) ~昭和50年代・60年代~

2017年08月15日 | 市政統括

 こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。

朝晩は少し涼しくなってきましたが、日中はまだまだ暑い日が続いています。炎天下のアスファルト舗装は60度以上にもなることから、幼児やベビーカーの乳児は地面に近いため、大人よりも熱さを感じています。しかも、体が小さいため熱が体にこもりやすいため、熱中症には特に注意してください。

6月のブログでは、箕面が田園が広がる住宅都市として飛躍的に発展していく戦後の昭和30年代から40年代のまちづくりと鉄道についてご紹介しました。

今回は、条例による規制・誘導より、箕面が住宅都市として、さらに発展していく昭和50年代から60年代のまちづくりと鉄道についてご紹介します。

  

 

●市街化の変遷

箕面市の市街化は、明治43年(1910年)の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の梅田―宝塚間(宝塚本線)・石橋―箕面間(箕面線)開通に始まり、鉄道を線として考えるのではなく、面として捉え、動物園や観覧車などの観光地化や沿線において郊外住宅の分譲が始まりました。
【詳細は ~明治時代~ のブログをご覧ください。】

大正時代から昭和時代前期(昭和31年市制施行まで)は、郊外住宅地としての環境に恵まれていた箕面が、観光地化から住宅地化へと軸足が移っていきました。
【詳細は ~大正時代・昭和時代前期~ のブログをご覧ください。】

昭和30年代から40年代は、箕面が田園が広がる住宅都市として飛躍的に発展し、市街地が拡大するとともに、人口が急増しました。
【詳細は ~昭和30年代・40年代~ のブログをご覧ください。】


昭和50年代から60年代にかけては、中部地域・東部地域にも及んぶ住宅地開発が続き、阪急電鉄箕面線の沿線である西部地域だけでなく、中部地域・東部地域へと市街化がさらに進展し、人口集中地区(DID)の面積は、昭和45年約490ha、昭和55年約1,180ha、平成2年約1,390haと、急速に拡大していきました。
※DIDとは、1haあたり40人以上の人口密度のある地区で、実質的な市街地の範囲を表す指標とされています。

人口は、昭和45年約5.7万人、昭和55年約10.4万人、平成2年約12.2万人と、急速に増加し、特に昭和45年から昭和55年までの10年間は倍増し、田園都市から住宅都市へと移行してきました。

 

 

●西部地域

昭和50年、市の人口が集中していた西部地域では、当時、市の最大の商業核であり都市拠点でもあったのが箕面駅周辺です。
箕面駅利用者や商店利用者が年々増加する中、商店の老朽化や駅前広場と道路が狭く交通混雑等が課題となっていました。

そのため、昭和51年に駅前再開発事業に着手し、昭和54年には箕面サンプラザ1号館、2号館と駅前広場が完成するとともに、道路も拡幅整備されました。また、再開発に合わせて箕面駅もホームを延伸し、駅舎が建て替えられました。

昭和55年には箕面駅前第1駐車場と箕面駐輪場も完成し、箕面駅前の迷惑駐車や放置自転車は改善がされました。


       再開発前の箕面駅前           再開発後の箕面駅前

 

 
        整備前の道路              整備後の道路

 

 
        整備前の駅舎                整備後の駅舎

 

また、昭和60年には、念願の箕面警察署が開署されるとともに、警察署の北隣に箕面市消防本部も移転建替えました。昭和63年には、中央図書館、中央生涯学習センター、メイプルホール、箕面駅前第2駐車場が完成し、都市基盤の整備とともに、公共サービスや市民の活動拠点となる施設も順次整備してきました。

 昭和60年当時の西部地域(箕面駅周辺)

 

 

●中部地域

昭和50年代から昭和60年代の中部地域は、船場繊維卸商団地では大部分で建物が建築されてきました。また、船場繊維卸商団地の北西では、萱野第一農住組合土地区画整理事業や萱野第二土地区画整理事業により宅地造成が進みました。
如意谷地区の山麓部では、住宅・都市整備公団(現 UR都市再生機構)により、「ルミナス箕面の森」の住宅団地の建設が進められました。

昭和60年当時の中部地域(山麓部~船場繊維卸商団地)

 

萱野第二土地区画整理事業区域内の北西端には、造成工事と並行して市立病院の建築工事が進められ、昭和56年7月7日に市民の皆さんが待ち望んでいた市立病院が開設しました。

開設当時の箕面市立病院

 

 

  ●東部地域

昭和50年代から昭和60年代の東部地域は、粟生間谷地区では昭和40年代後半から進められていた住宅・都市整備公団(現 UR都市再生機構)の住宅団地が次々と完成していきました。
また、粟生外院地区では阪急電鉄が、外院地区では民間事業者が開発を進め、戸建て住宅が建築されていきました。

 昭和51年当時の東部地域(粟生間谷、粟生外院、外院地区)

 

小野原地区では、昭和52年から箕面市施行で小野原特定土地区画整理事業が進められ、昭和60年に完成しました。
その隣接した東側では、昭和59年から住宅・都市整備公団(現 UR都市再生機構)施行で小野原東特定土地区画整理事業が進められました。

昭和60年当時の東部地域(小野原地区)

 

 

●北部地域  

余野川沿いの止々呂美地区は、市街化調整区域のため市街化されず豊かな田園風景が残っています。
一方で、地元の皆さんは、止々呂美地区の過疎化に対する危機感や地域振興に対する強い思いから、昭和40年代に西山の山林(現在の箕面森町)を民間企業に売却され、民間開発に期待を寄せていました。

当時、同じような状況にあった近隣市町では、山間部で個別に民間開発が進み、それぞれの開発区域内では良好な街なみを整備できるのですが、そこに至る道路が十分ではなかったため、その後、慢性的な交通渋滞を引き起こし、朝夕の通勤時間帯には延々と自動車の列が続くことになり、その解決のため、行政が長い年月をかけて駅前まで広幅員の道路を整備されたようです。

そうした問題が生じないように、当時、箕面市が大阪府や住宅・都市整備公団(現 UR都市再生機構)など公的機関と協議を重ねていました。実際に動き出したのは平成になってからですので、「箕面森町」の経緯などは次回のブログでご紹介します。

昭和60年当時の北部地域(止々呂美)

 

 

●良好な住環境を確保する独自条例を制定

本市では昭和40年代、他市と同様に宅地開発,住宅建設に伴う地方公共団体の財政負担の軽減や良好な都市環境の整備を目的に行政指導の指針として、いわゆる「開発指導要綱」を制定していました。 

しかし、当時の急激な市街化による人口増を抑制し、計画的なまちづくりや生活環境の保全を図るためには、要綱による行政指導ではなく、条例により規制・誘導する必要があるとして、昭和52年(1977年)に市独自の条例(旧:環境保全条例、現:まちづくり推進条例)を制定しました。 

この市独自の条例により、住宅敷地規模の規制や人口密度規制、道路、公園の設置基準、敷地内の緑化基準など、他市にはない厳しい基準を設けて、開発だけでなく小規模な建設行為も合わせて規制・誘導してきました。


他市と比較して厳しい基準の具体例の一部は次のとおりです。

◆戸建て住宅を建築するときは、他市では最低の敷地面積の制限はありませんが、箕面市では低層住居専用地域では150㎡以上、中高層住居専用地域では100㎡以上の敷地面積が必要になります。

◆マンションを建築するときは、例えば1,000㎡の敷地に建築する場合、他市では戸数の制限はありませんが、箕面市では低層住居専用地域では10戸以下、中高層住居専用地域では12戸以下のマンションしか建築できません。

◆敷地内緑化として、建ぺい率60%の市街化区域で住宅を建築するときは、他市では緑化をすることまでは求めていませんが、箕面市では敷地面積の10%を緑化する必要があります。

 

市独自条例の規制・誘導により、本市が大都市近郊にありながら、良好な住環境を備えた「みどり豊かな住宅都市」として発展してきました。

以上が、昭和50年代から60年代についての箕面のまちづくりと鉄道です。

次回は、現在の箕面における基礎的な都市施設の整備が概ね完了し、新市街地の計画的な整備や都市の骨格づくりが最終段階に来ている平成のまちづくりをご紹介したいと思います。

 

  

 

 ゆるキャラ(R)グランプリ2017」が8月1日(火曜日)にスタートしました。市では11月10日(金曜日)の投票期間終了までの間、「滝ノ道ゆずる」を応援する統一キャンペーンを展開中です。

滝ノ道ゆずるは、6年連続で大阪1位を獲得しており、有名企業とコラボしたり、数々のイベントに参加したりと活躍の場を広げています。箕面市を広くPRするため、グランプリでの日本一を目指していますので、市民のみなさまの投票、応援をよろしくお願いします。

 

 

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