部長ブログ@箕面市役所

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箕面のまちづくりと鉄道(2) ~大正時代・昭和時代前期~

2017年05月29日 | 市政統括

こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。

前回のブログでは、明治43年(1910年)の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の開通以後、鉄道を線として考えるのではなく、面として捉え、動物園や観覧車などの観光地化や郊外住宅の分譲が始まった明治時代をご紹介しました。
今回は、郊外住宅地としての環境に恵まれていた箕面が、観光地化から住宅地化へと軸足が移って行った大正時代から昭和時代前期(昭和31年市制施行まで)についてです。

住宅地開発工事中の写真(大正時代)

 

●箕面駅周辺の観光施設が移転
箕面動物園は、開園した約6年後の大正5年(1916年)3月31日に閉園しました。
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、新たに動物園も併設したレジャー施設を宝塚駅周辺に作ることとし、大正13年(1924年)に宝塚ルナパーク(後の宝塚ファミリーランド)が開業しました。
また、劇場だった箕面公会堂も開館した約9年後の大正8年(1919年)に宝塚に移転し、歌劇場として活用されました。

 

●箕面駅周辺の住宅地化

【ラケット型線路内が住宅地化】
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、箕面公会堂の移転後、箕面駅のラケット型を廃止し、ラケット型線路内の運動場を大正11年(1922年)から造成に着手し住宅地としました。
今の駅前住宅地の道路が行き止まりとなっているのは、当時のラケット型線路の形状内で住宅地化したなごりです。

当時のラケット型線路と施設を重ねた現在の地形図


【箕面地区の住宅地】
現在の箕面三丁目から五丁目にかけたあたりの住宅地は、箕面土地株式会社(箕面有馬電気軌道や箕面動物園の出資者でもあった岸本汽船社長の岸本兼太郎が経営主)が、大正11年(1922年)から開発に着手し住宅地としました。

また、岸本氏は住宅地の開発だけでなく、「箕面学園尋常小学校」を大正15年(1926年)に設立し、英語教育など当時としては斬新な教育を実践したと言われています。
住宅地開発の経営主であり学園校主である岸本氏は、行政や地域の運営にもさまざまな協力をしていましたが、戦争の影響で各種の事業から手を引かざるを得なくなりました。
ちょうどその頃に、新しい学校の設立を計画していた箕面村は、「箕面学園尋常小学校」の校舎、土地、備品すべてを買取り、昭和20年(1945年)4月に北小学校(当時は北国民学校)として開校しました。

今はさらに緑豊かで閑静な住宅街となり、桜並木は「大阪みどりの百選」にも選ばれています。


 

 

●牧落駅の開設
牧落駅は、当時の住宅地開発会社や箕面村の多くの人々の働きかけと寄付により誘致が実現し、明治43年の箕面有馬電気軌道の開業から遅れること約11年後の大正10年(1921年)12月30日に開設されました。
駅といっても長らくホームがなく、木製のはしごが2つ置いてあり、前後の乗降口をはしごの位置に合わせて停車したそうです。

現在の牧落駅は、箕面小学校南側のホーム下が大きく掘りこまれて道路になっていますが、この場所は当時駅ではなく踏切があり、小学校に通う児童の安全のため、昭和5年(1930年)に踏切を廃止して地下道としたなごりです。

 

●牧落駅周辺の住宅地化

【百楽荘の住宅地】
牧落駅前の百楽荘は、当時の住宅地開発会社の関西土地が、大正11年(1922年)から開発に着手し住宅地としました。
百楽荘の開発は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の指導を受けたようですが、生け垣や石畳を敷いた側溝があるまちなみは、関西土地が独自に設計したようです。

住宅地は、当初「新桜井住宅地」と名付けられていましたが、大正13年(1924年)11月ごろから「百楽荘」と宣伝されています。住宅のほか、売店、派出所、ビリヤード場、遊園地、下水などが整備されていました。

今も小学校につながる広い道路の両側に石畳や生け垣が続く美しい街並みが維持されています。


【桜ヶ丘住宅地】
桜ヶ丘住宅地は、当時の住宅地開発会社である田村地所部や大同土地が、大正8年(1919年)から開発に着手し住宅地としました。
当時は、資材調達や天候、資金などの問題により造成は遅れぎみだったこともあり、田村地所部は経営を軌道にのせる起爆剤として、住宅改造博覧会の誘致を進め、主催者である日本建築協会に道路と上下水道の整備を提案したと言われています。

桜ヶ丘住宅地は、郊外としての空気・水・景観のよさに加え、交通の便もよく電力供給があるとともに、開発会社が道路と上下水道を整備することから、日本建築協会の理念を実現するうえでも最適地だったようです。
その結果、実践的な生活改善のモデルを提案したい日本建築協会と、経営を軌道にのせたい田村地所部の思惑が一致して「桜ヶ丘住宅改造博覧会」が実現しました。

今も博覧会当時の展示住宅も残っており、国の登録有形文化財に指定されている住宅もあり、美しいまちなみが形成されています。


【桜ヶ丘住宅改造博覧会】
桜ヶ丘住宅改造博覧会は、大正11年(1922年)9月21日から11月26日にかけて、日本建築協会により開催されました。生活の洋式化を推進する生活改善のとりくみの集大成といえる博覧会です。

この博覧会では、理想のまちと家のモデルを実際につくり、終了後に展示住宅を土地付きで販売するという画期的な試みがされました。日本建築協会は、博覧会開催前に住宅設計図案を募集し、入選作品住宅も実際に建築、販売されました。

会場は約1万5000坪(約5万平方メートル)あり、東側5000坪(約16,500平方メートル)には、住宅設計入選図案の実物住宅や建築会社など全14社からの出品による合計25戸の住宅が建ち並びました。(当時の工事中写真)

 

西側には、150品目をこえる物品の展示がおこなわれた住宅博覧会本館あるとともに、野外会場には噴水、音楽堂、活動写真館、飛行機遊具、休憩所など、憩い遊べる施設もありました。(当時の本館全景写真)

 

●その他の住宅地化

【桜井南天荘の住宅地】
現在の桜井三丁目から豊中市宮山町にかけたあたりの住宅地は、当時の住宅地開発会社の清光社が、昭和9年(1934年)ごろに開発し住宅地としました。
住宅地は桜井南天荘と名付けられ、分譲の案内には自動車道の開通、上下水道の整備、電力電灯電話の開通、さらに景観が特に良いことなどが記されていました。

 【東箕面田園住宅地】
現在の今宮三丁目から四丁目にかけたあたりの住宅地は、当時の住宅地開発会社の小谷工務店が開発し、昭和4年(1929年)に分譲を開始しました。
当時では唯一、鉄道の箕面線から離れた住宅地で、東箕面田園住宅地と名付けられていました。


 

 

●箕面の都市計画
大正8年に施行された(旧)都市計画法は、急激に近代化する経済状況への対応を主な課題として、新たな交通機関整備のための道路拡幅、大火対策のための減歩手法による土地区画整理事業など公共の基盤施設の整備が中心でした。

昭和8年に改正された(旧)都市計画法は、適用範囲が全ての市と町村は大臣が指定することとなり、大阪府内では大阪・堺都市計画区域の外縁にに位置した箕面村や池田町、豊中町、高槻町など14町村が指定を受けました。

箕面の都市計画は、戦前に計画を立案しましたが、戦争の影響で認可や補助がおりず戦後あらためて計画を立案し、都市計画道路として阪急電鉄箕面線と並行する「牧落公園線」が昭和27年12月に箕面で初めて都市計画決定されました。

桜井駅から牧落駅に至る途中のカーブを曲がったところから箕面駅までの線路沿い道路で、現在は全線が整備済みとなっています。

整備済みの都市計画道路牧落公園線


以上が、大正時代から昭和時代前期(昭和31年市制施行)までの鉄道と箕面のまちづくりです。
郊外住宅地の人気により観光地化から住宅地化へと軸足が移った時代でした。当時の住宅地では、現在、緑豊かで閑静な住宅街となり風格さえ感じさせる成熟したまちなみが形成されています。
次回は昭和時代後期から現在までの「箕面のまちづくりと鉄道」をご紹介したいと思います。

 

 

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