私のベトナム、そしてアジア

ベトナムから始まり、多くのアジアの人々に触れた私の記録・・・

尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか    村田忠禧(横浜国立大学)

2012-09-24 04:24:54 | Weblog
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尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか
――試される21世紀に生きるわれわれの英知
村田忠禧(横浜国立大学)


1.はじめに

 いわゆる尖閣列島・釣魚島問題という日本と中国との間に存在する領土問題を考えるうえで、われわれは二十世紀の歴史を開拓した優れた先人たちがこの問題を対処した時の知恵から学ぶ必要があると思う。

具体的には第一に、日中国交回復時における周恩来総理の対応に学ぶべきであろう。彼は1972年7月28日に当時の竹入義勝公明党委員長と会談した際に「尖閣列島の問題にも触れる必要はない。国交回復することに比べると、問題にならない」[1]と指摘した。

この竹入メモについては今日、より詳細な内容が公開されており、それによれば「尖閣列島の問題にもふれる必要はありません。竹入先生も関心が無かったでしょう。私も無かったが石油の問題で歴史学者が問題にし、日本でも井上清さんが熱心です。この問題は重く見る必要はありません。」とのこと。[2]

周恩来がここであえて井上清京都大学教授(当時)の名前を挙げ、その研究成果に耳を傾けるよう促していることは注目に値する。

 もう一つは1978年10月下旬に日中平和友好条約の批准書交換の際に来日した鄧小平副総理が10月25日に日本記者クラブでの内外記者団との記者会見において、記者団から尖閣列島についての質問された際の発言である。鄧小平は以下のように答えている。

「尖閣列島をわれわれは釣魚島と呼ぶ。呼び名からして違う。確かにこの問題については双方に食い違いがある。国交正常化のさい、双方はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉のさいも同じくこの問題に触れないことで一致した。中国人の知恵からして、こういう方法しか考えられない。というのは、この問題に触れると、はっきりいえなくなる。確かに、一部の人はこういう問題を借りて中日関係に水をさしたがっている。だから両国交渉のさいは、この問題を避けるがいいと思う。こういう問題は一時タナ上げしても構わないと思う。十年タナ上げしても構わない。われわれの世代の人間は知恵が足りない。われわれのこの話し合いはまとまらないが、次の世代はわれわれよりもっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れられるいい解決方法を見いだせるだろう。」[3]

 日本と中国との国交正常化交渉においても、それに続く平和友好条約の締結においても、中国側からこの問題については触れないことが提案され、日本側もそれに同意し、両国の関係改善と発展を最優先させる方針が採られてきた。鄧小平は「われわれの世代の人間は知恵が足りない。……次の世代はわれわれよりももっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れられるいい解決方法を見いだせるだろう」と述べたが、すでに四半世紀が過ぎた今日、われわれは二十一世紀に生きる者としての英知を持っているのだろうか。周恩来や鄧小平のような先人の見解や処理法を乗り越える賢明さがあるのだろうか。


2.歴史的事実はどうであったのか



a 最近の研究成果について

 前述した井上清の研究成果は1972年10月に『「尖閣」列島――釣魚諸島の史的解明』として現代評論社から刊行されたが、この出版社はすでに存在しない。今日では第三書館から「釣魚諸島の歴史と領有権」の部分のみを収めたものが1996年10月に刊行され、現在でも利用可能となっている。

 日本でも中国でもこの島の領有問題が発生してから、それぞれの立場にもとづいて数多くの論文や著作が発表されている。ここ数年来、新たに出版されたものとして注目すべきものとして以下の著作がある。

 中国側

鞠徳源著『日本国窃土源流 釣魚列嶼主権辨』上下冊 首都師範大学出版社 2001年5月

日本や中国に保存されている史料・図版を詳細かつ豊富に紹介した大部の書籍で、この問題を論ずる際の必読書と称すべき内容である。

 また国家図書館に所蔵されている琉球関係の档案資料集も編集・出版されている。

 『国家図書館蔵琉球資料匯編』上中下冊、2000年10月、『同続編』上下冊、2002年10月、いずれも北京図書館出版社より出版されており、大変貴重な原典資料集である。

 日本側

 浦野起央編『釣魚臺群島(尖閣諸島)問題 研究資料匯編』、刀水書房、2001年9月

 浦野起央著『尖閣諸島・琉球・中国 日中国際関係史』 三和書籍 2002年12月

この書籍の著者は「北京大学の研究者との資料の検討を通じた共同研究を重ねてきた」、「本書は客観的立場で記述されており、特定のイデオロギー的立場を代弁していない」と「あとがき」で明言している。たしかに日本と中国のこの問題に関する研究書・論文等を多面的に紹介していることは事実だが、必ずしも客観的とはいえない記述が目につく。もっとも不思議なのは、北京大学の研究者と交流してきたことをこの著者は公言しているが、一年以上も前にすでに中国で出版されている鞠徳源の著作についてはまったく触れられていない。

 この他に、領土問題とは直接関係ないものではあるが、中国福建省・琉球列島交渉史研究調査委員会編『中国福建省・琉球列島交渉史の研究』 第一書房 1995年2月 という福建と琉球との交流史についての日中共同研究報告書が出ている。



b 中国の文献にみる釣魚島などの扱い

 この島々の領有権問題のポイントの一つはいわゆる「無主地」であったか否かということである。

明代以来の中国の地図や文献には釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が中国の版図に含まれていたことを示すものがいろいろある。特に明代には倭寇や海賊の被害を防ぐため、政府は海禁という私的貿易の禁止や福建、広東などの沿岸一帯の住民を内陸に強制移住させる「遷界令」を実施するなど、沿海の海防にとりわけ注意を払っていた。[4]沿海の安全確保は国家にとっての重要な任務であり、防衛すべき沿海の島々の範囲に釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼が含まれていた。この点についてはすでに多くの研究者が指摘している。その具体例として1562年に明の胡宗憲、鄭若曽が編纂した『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」と巻二の「福建使往日本針路(梅花東外山至大琉球那覇)」の存在を指摘しておく。これらについては前述の鞠徳源著『日本国窃土源流 釣魚列嶼主権辨』下冊に図5、図6として収められている。同様なものとして施永図編纂の『武備秘書』巻二「福建防海図」(1621年~1628年)がある。これも鞠徳源著の図10に収められている。

 琉球は日本の明治維新後に沖縄県として明治政府の支配下に置かれるまでは独立した国であり、明、清それぞれの王朝との間で冊封関係にあり、新たに琉球中山王に就任するに際して、中国の皇帝からの冊封の儀を受けることが、その正統性を示すうえで不可欠であった。琉球への冊封使の派遣は明、清あわせて24回に及び、冊封使はいずれも派遣経過と琉球の現状報告を「使琉球録」などの文書として皇帝に提出していた。冊封使は琉球との唯一の窓口である福建省の福州(当初は泉州)から出発し、琉球の那覇を目指した。当時は帆船で、夏至の頃の西南の風を利用した航海であった。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼という大陸棚の縁に次々に出現する島々は安全な航海を保証するうえの重要な目標であり、「使琉球録」の多くにこれらの島々のことが記載されている。それらの記録で注目すべきことは赤尾嶼を過ぎ、「古米山」(今日の久米島)にいたってはじめて琉球の領内に入ったと認識していることである。

 現存する記録として最も古い1534年に冊封使として琉球を訪れた陳侃の「使琉球録」には次のような記載がある。

「過平嘉山,過釣魚嶼,過黄毛嶼,過赤嶼。目不暇接,一昼夜兼三日之路。夷舟帆小,不能及,矣在後。十一日夕、見右〔古〕米山,乃属琉球者。夷人歌舞於舟,喜達於家。夜行徹暁,風転而東,進寸退尺,失其故処。又竟一日始至其山。有夷人駕船来問,夷通事與之語而去。」[5]

訳文「平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぎる。目を接する暇がないほどの速さで、一昼夜で三日分の航路を進んだ。琉球人の舟は帆が小さいので、追いつくことができず、後に遅れてしまった。十一日の夕方、古米山〔久米島のこと〕が見えたが、すなわち琉球に属するものである。琉球人は舟で歌舞して故郷に到達したことを喜んでいる。夜行し明け方まで徹したが、風が東に向きを転じたため、一寸進んだと思うと一尺退くという具合で、元の場所から失してしまい、一日かけてようやくその山〔久米島〕にいたった。琉球人が船に乗ってやってきて問い、琉球の通訳と話をしたのち、去って行った。」

 ここで注目すべきことは、陳侃ら冊封使の船に同航した琉球船に乗っていた琉球人たちが古米山(久米島)を目撃したことをもって故郷に戻ったと喜んでいることと、久米島には琉球側の役人がいて、中国からの使節の到来を待ち受けていたことである。

 1606年の冊封使である夏子陽の記した「琉球録」にも、久米島が見え琉球人がその家に達したことを大いに喜んだこと、久米島の頭目が出迎えにやってきて、海螺数枚を献呈したことが記載されている。[6]

 徐葆光の「中山伝信録」(1719年)(前同書中冊36頁)には「姑米山」に「琉球西南方界上鎮山」と注をつけ、また「福州五虎門至琉球姑米山共四十更船」(福州の五虎門から琉球の久米山まで計四十更船)と記しており、久米島をもって琉球の境界としていることが明白である。

 周煌の「琉球国志略」(1756年)[7]には「琉球国全図」が描かれているが、そこには琉球最南端の「由那姑?」(与那国島)から最北端の「奇界」(喜界島)までの島々(本島と附属する三十六島)がはっきりと書かれており、西端は「姑米山」であって、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼をはじめとする琉球に属しない島々はまったく登場しない。琉球の地理を紹介する「輿地」において「姑米山」のことを「由福州至国必針取此山為準」(福州から琉球国に至るには必ずこの島を基準にして針路を取る)と記している。(前同書中冊838頁)

 この1756年の全魁、周煌の航程を記した潘相の「琉球入学見聞録」(前同書下冊361頁)には「十二日に赤洋〔赤尾嶼のことか〕を見る。この夜溝を過ぎ海を祭る。十三日、姑米山を見る。姑米人が山に登って火を挙げ号とする。舟中も火でもってこれに応ずる。十四日、姑米の頭目が小舟数十を率い、山西〔島の西〕にまで牽挽し、錨を下ろす」と、久米島に近づいた際の琉球側からの出迎えの模様が具体的に書かれている。

 これらの事実から、明から清にかけて中国からの冊封使が琉球に向かう際に、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼は航路目標としてはっきり認識されていたこと、琉球国の領域は久米島からであって、赤尾嶼と久米島との間に存在する海溝を越えることによってはじめて琉球に入ったということを中国側、琉球側いずれも実感をもって認識していたことは明らかである。



c 琉球側の資料による琉球の範囲

 琉球の歴代国王の治世を記した歴史書として1701年に蔡鐸らによって編纂され、その子蔡温により1724年に改訂された『中山世譜』には琉球の範囲が明記されている。それによれば琉球本島は三府五州十五郡〔二十五郡が正しいと思われる〕からなりたっており、三府とは中頭の中山府五州十一郡、島尻の山南府十五郡、国頭の山北府九郡であり、その他に三十六島からなりたっている。「明以来、中華人の称する所の琉球三山六六島なる者即ち是なり」[8]



d 日本側の資料による琉球の範囲

 よく知られていることだが、林子平が1768年に著した『三国通覧図説』(ここでいう三国とは蝦夷地、朝鮮、琉球を指す)に「琉球三省并三十六嶋之図」という地図が収められており、琉球と日本、中国、それに台湾とを色分けして表示している。そこには釣魚台、黄尾山、赤尾山が描かれているが、福建省や浙江省と同じ色で彩色されている。

 徳川幕府は全国を統一したあと、正保年間(1644~1647年)に六寸一里という統一した縮尺による全国の地図の作成を各藩に命じた。薩摩藩の島津家文書として保存されてきた薩摩国絵図と琉球国絵図が東京大学史料編纂所に保存されており、その原寸大模写が東京大学史料編纂所史料集発刊100周年記念事業として2001年12月に東京国立博物館で公開された。琉球国絵図は奄美諸島、沖縄本島、先島諸島の3枚からなっており、それぞれが一辺3メートルから6メートルに及ぶ巨大な手書き図である。先島諸島の宮古島の北にある珊瑚礁まで鮮やかに描かれた大変見事な地図で、当時の測量の精度の高さに感嘆せざるをえない。1609年の島津藩の琉球進攻以来、琉球国は中国と日本のいずれにも従属する両属関係にあり、琉球国と清国との境界を不確かなままにすることなどありえない。この絵図に描かれているのはあくまでも琉球とそれに付属する三十六島である。[9]

 琉球に属する島嶼は三十六島で、そこには釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼は含まれないということは琉球、中国、日本の共通した認識であった。これは地理的観点からしても十分に理解できる。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼はいずれも大陸棚の縁に位置し、その周辺は200メートル以下の浅い海である。そこから久米島をはじめとする琉球の島々との間には1000~2000メートルに達する海溝が存在し、しかも黒潮の流れがある。小舟では容易に渡れるものではなかった。それにたいして琉球本島と先島諸島の間は島々が点在し、浅海が続き、琉球の人々は小舟で自由に往来できた。だから琉球のネットワークが実現できていたのである。当時、スペインの貿易商は先島諸島伝いに進めば「毎日夜は陸上で寝て行くことができる」と記していた。そのような安全な海路が存在しているにも関わらず、なぜ冊封使は釣魚島→黄尾嶼→赤尾嶼→久米島というルートで那覇に向かったのであろうか。民間貿易ではなく、国家を代表する使節の派遣であるため、公式のルートを使うことが当然要求されていたからに他ならない。領土・領海意識は明確であり、無主地論は成立しない。



3 明治政府の公文書が示す日本の領有過程



 1871年8月29日に明治政府は廃藩置県を断行し、中央集権国家体制を作った。島津藩の属領的存在であった琉球王国はこのため明治政府の直接の属領となった。ただしこの時点では明治政府は琉球の清国との関係を旧来通り認めたため、両属関係は保持された。

1871年11月に琉球の漁民が台湾に漂着、原住民に殺害される事件が発生したが、明治政府はこれを口実に1874年2月~12月に台湾出兵を行い、清国に50万両の憮恤銀を支払わせることに成功した。

1875年、明治政府は琉球王に清朝との朝貢・冊封関係を断絶させ、琉球王を東京に移住させ、1879年4月になると琉球藩を廃止し、明治政府直属の沖縄県とした(琉球処分)。

ただし清国側がこの日本の琉球併合をそのまま受け入れたわけではなかったし、琉球内部にも抵抗する勢力があった。

1880年には日本と清国との間での日清修好条規の追加条項に絡んで、日本と清国との間で琉球を分割しようとする「分島・改約」問題が発生した。日本側は宮古・八重山群島を清国領とし、沖縄群島以北を日本領とする案を提示したが、清国側が最終的に受け入れなかったので年末にこの交渉は決裂し、琉球の帰属問題は未解決として残った。

アヘン戦争における敗北以降、弱体ぶりをさらけ出した清国にたいして、列強は獲物に襲いかかるハイエナのように次々と攻撃をしかけた。1884年6月、フランスはベトナムで清国にたいして戦火を開き、7月にはフランス艦隊が福州を攻撃し、10月には台湾の基隆を攻撃したが、劉銘伝がこれを撃退した。翌年7月にフランス軍が澎湖島から撤退し、清仏戦争はようやく終結した。

清国政府はフランスと戦う一方で、日本の朝鮮における金玉均ら開化派による甲申政変の支援や、福建の福州での不穏な動きにも注意を払わなければならなかった。福州にあった琉球館には日本の琉球支配に反対する琉球人がおり、沖縄(琉球)をめぐる日本の動きは彼らを通して清国側に伝わっていたのであろう。1885年9月6日の『申報』「台島警信」と題する記事は「謂台湾東北辺之海島,近有日本人懸日旗於其上,大有占踞之勢,未悉是何意見,姑録之,以俟後聞」と日本の台湾東北辺の海島での動きに警戒を呼びかけていた。

実は当時、明治政府の内務省は、沖縄県県令西村捨三に「沖縄県と清国福州間に散在せる無人島取調」の内命を授け、国標を建てることを企図していたのである。これにたいして沖縄県令西村捨三は1885年9月22日「久米赤島外二島取調ベノ儀ニ付上申」において

「中山伝信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間」と、内務省の意向に懸念を表明した。

外務卿(井上馨)は次のような意見を表明する。

1)明治十八年〔1885年〕沖縄縣久米赤島、久場島、魚釣島、國標建設ノ件

近頃清国ノ新聞ニ我政府ハ清国ニ属スル台湾地方ノ島嶼ヲ占拠セシ様ノ風評ヲ掲ゲ清政府ノ注意ヲ喚起セシテアリ故ニ此際最一番タル一小嶼ニハ暫時ハ着分不相応ノ不要ノコンプリケーション〔complication〕ヲ避クルノ好政策ナルベシ[10]

日本の企図について清国政府に警戒させてはならない、というのである。それを受けて内務卿(山県有朋)は次のような結論を出す。

2)沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在スル無人島へ国標建設ノ件

秘第一二八号ノ内 無人島へ国標建設之儀ニ付内申 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル魚釣島外二嶋踏査ノ儀ニ付 別紙写ノ通 同県令ヨリ上申候処国標建設ノ儀ハ清国ニ交渉シ彼是都合モ有之候ニ付目下見合セ候方可然ト相考候間 外務卿ト協議ノ上 其旨同県へ致指令候条此段及内申候也[11]

「目下見合せ」る方がよいとの結論だが、劉銘伝がフランス軍を撃退できず、清国の台湾統治の弱体ぶりが明らかになっていたならば、日本は1885年の段階で国標建設を実施していた可能性は十分ある。

その後1890年1月13日、93年11月2日に沖縄県知事が所轄を定めるよう上申したが、明治政府はそのまま放置しておいた。しかし1894年に日清戦争を発動し、日本の勝利が確定的となった1895年1月14日の閣議決定で国標建設を認める決定を出した。

井上清の論文「釣魚諸島の歴史と領有権」には明治27年(1894年)12月27日の内務大臣野村靖が外務大臣陸奥宗光に宛てた秘密文書(『日本外交文書』第23巻)を紹介している。これは秘別第一三三号とあるが、どういう理由か不明だが、この秘別第一三三号を「アジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp/)」で検索してみても、12月27日のこの文書は見当たらない。そこで井上が引用しているものを以下に紹介しておこう。(『日本外交文書』編者が付けた傍注は省略する)

3)「秘別第一三三号

久場島、魚釣島ヘ所轄標杭建設ノ儀、別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治十八年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候ヘドモ、其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ、別紙閣議提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也

内務大臣子爵 野村 靖?

外務大臣子爵 陸奥宗光殿」[12]

今日、われわれが上述したURLから入手できる資料はこれではなく、別紙閣議提出ノ見込とされた1895年1月12日の文書である。それを以下に示す。

4)沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島へ標杭ヲ建設ス

秘別第一三三号 標杭建設ニ関スル件 沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ハ従来無人島ナレドモ近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル者有之。之レカ取締ヲ要スルヲ以テ同県ノ所轄トシ標杭建設致度旨、同県知事ヨリ上申有之。右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス

右閣議ヲ請フ[13]



この結果、1月14日の閣議決定で標杭を建設することとなった。

この間の動きを井上清は歴史家としての鋭い眼力で分析している。以下にいささか長くなるが、紹介する。

「八五年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治十八年の『其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ』という一句の中にある。〔中略〕

明治二十三年にも二十六年にも、政府はまだ日清戦争をはじめていない。さらに二十七年に古賀が釣魚島開拓を願い出た月日が、日清戦争前であればもとよりのこと、たとえ開戦直後であっても、まだ日本は清国に全面的に勝利していたわけではない。だが、その年十二月初めには、すでに日本の圧倒的勝利は確実となり、政府は講和条件の一項として、清国から台湾を奪い取ることまで予定している。これこそが、釣魚諸島を取ることに関連する『事情』の、以前といまとの決定的な『相異』である。〔中略〕

清国側でも、総理衙門の恭親王らは、十月初めにすでに、清国の敗戦をみとめて早期講和を主張しており、十一月初めには、抗戦派の総帥である北洋大臣李鴻章も、早く講和するほかないことをさとった。

この情勢の中で、十一月末から十二月初めにかけて、これから大陸では厳寒に向う冬期において、日本はどのような戦略をとるべきか、大本営では意見が分かれた。一方は、勢いに乗じてただちに北京まで進撃せよと主張した。他方は、冬期はしばらく兵を占領地にとどめ、陽春の候をまって再び進撃せよ、という。

このとき首相伊藤博文は、明治天皇の特別の命令により、文官でありながら、本来は陸海軍人のみによって構成される大本営の会議に列席していた。彼は十二月四日、冬期作戦に関する論争を批判し、独自の戦略意見を大本営に提出した。その要旨は次の通りである。

北京進撃は壮快であるが、言うべきして行なうべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損うだけの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよという声が高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい(春畝公追頌会『伊藤博文伝』下)。

大本営は伊藤首相の意見に従った。威海衛攻略作戦は、翌一八九五年一月下旬に開始され、二月十三日、日本陸海軍の圧勝のうちに終わった。この間に台湾占領作戦の準備も進み、九五年三月の中ごろ、連合艦隊は台湾の南端をまわって澎湖列島に進入し、その諸砲台を占領した。さらに、ここを根拠地として、台湾攻略の用意をととのえているうちに、日清講和談判が進行して、清国をして台湾を割譲させることは確実となったので、連合艦隊は四月一日佐世保に帰航する。

天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった。一八八五年には、政府は、釣魚諸島に公然と国標をたてたならば、清国の『疑惑ヲ招キ』紛争となることをおそれたのだが、いま日本が釣魚諸島に標杭をたてても、清国には文句をつけてくる力などはない。たとえ抗議してきても一蹴するまでのことである。政府はすでに台湾占領作戦を決定し、講和のさいには必ずここを清国から割き取ることにしている。この鼻息荒い政府が、台湾と沖縄県との間にある釣魚島のような小さな無人島は、軍事占領するまでもない、だまって、ここは沖縄県管轄であると、標杭の一本もたてればすむことである、と考えたとしてもふしぎではない。」[14]



日本政府の「尖閣列島の領有権についての基本見解」は次のように述べている。

「尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。」[15]

しかしこれまで紹介してきた事実と論証から、日本政府の主張が成り立たないものであることは明白である。

沖縄(琉球)の所属について明治政府と清国政府との間ではまだ決着はついていなかった。しかもすでに台湾をも領有する狙いを持っていた。1894~95年の戦争を通じてこれらを一挙に解決したのである。



4.日本の領土に編入されてから



 日本政府が「久場島魚釣島」に標杭を建設する決定を出したのはこれらの島嶼の領有だけを目的としたものではなく、台湾と澎湖島の領有をも念頭に入れた行動であった。したがって下関条約でその目的を達成したため、久場島、魚釣島への標杭建設のことをすっかり忘れてしまった。ここに石垣市が地籍表示のための標柱を建てたのはなんと閣議決定から74年後の1969年5月10日。琉球政府がこれらの島々の領有を宣言したのは1970年9月10日である。つまりこの周辺海域に石油が産出する可能性がある、といわれてからあわてて領有権を主張しだしたのである。

 この点においては中国政府の対応も五十歩百歩である。台湾を取り戻すことに意は注ぐが、これら小さな無人島については関心を示してこなかった。

『人民日報』1953年1月8日の「琉球群島人民反対美国占領的闘争」では琉球群島を構成するもののなかに尖閣諸島を含めている。



「琉球群?散布在我国台湾?北和日本九洲?西南之?的海面上,包括尖???、先???、大???、冲???、大???、土?喇??、大隅??等七???,??都有?多大小??,??共有五十个以上有名称的??和四百多个无名小?,全部?地面??四千六百七十平方公里。」



 同じ時期の日本の国会審議における政府側委員の答弁も、まさにシドロモドロと称すべき内容で、日本側もこの無人島の問題に関心を持っていなかった。[16]

1954年2月15日参議院水産委員会

「説明員(立川宗保君) ヘルイ演習場と申しますのは、私どもどこかはっきりわかりませんが、想像いたしますのに、漁釣島〔魚釣島が正しい〕だろうと思います」

1954年3月26日参議院大蔵委員会

「○成瀬幡治君 そうしますと、魚釣島ですね、リイン島というのですか。日本の領海になるところですが、あの辺のところはどういうふうになっているのですか。○政府委員(伊関佑二郎君) あれは行政協定の問題になりますかどうか、ちょっとそういう話がございまして……沖繩の南でございますね。私のほうもあの点は詳しいことは存じません。」

 いくら当時はアメリカの統治下であるとはいえ、自国の領土というにはあまりにお粗末な答弁である。

それどころか、米軍占領下に黄尾嶼、赤尾嶼は米軍の射爆場にされてきたのだが、そのことをもって「尖閣列島で米軍の射爆場なんかがあってけしからぬじゃないかと、こういうお話ですが、この米軍の射爆場としてA表で提供することにした、これこそは、すなわち尖閣列島がわが国の領土として、完全な領土として施政権が今度返ってくるんだ、こういう証左を示すものであると解していただきたいというお答えをいたしまして、御答弁といたします。(拍手)」(1971年12月15日の参議院本会議における福田赳夫外務大臣の答弁)と、米軍が射爆場にしたことに感謝までしている。



日本も中国(台湾当局をも含む)も、前述した通り、この島々周辺海底に石油が産出する可能性があるとの情報が流されてのち、領有権を主張するようになったのであって、それ以前に両国の間で領有権をめぐる争いが発生したことはなかった。

この点は両国の地図の表記でも明白である。中国の地図(台湾当局をも含む)において釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼を中国の領土であると明示するようになったのも、日本の文部省検定済みの地理教科書において、尖閣列島なる名前でこれらの島々の存在が登場するようになったのも、すべて領土問題が発生した1972年以降のことである。

これらの扱いから「固有の領土」と主張するには、日本政府にも中国政府にも「いささか後ろめたい」ところがあってしかるべきであろう。



5.狭隘な民族主義を煽る口実としての領土問題





今日、幸いなことに国会の議事録がインターネットで公開されており、われわれは居ながらにしてその内容を読むことができる。

日本の国会審議で尖閣列島(諸島)、魚釣島がもっとも多く登場するのは1978年(91回)、これは日中平和友好条約や領海法に関係してのことである(この前年も42回とかなり多い)。

次いで多いのは1971年(54回)、1972年(42回)で、いずれも沖縄復帰・日中国交正常化に関連した領有権問題として取り上げられる。

気になるのは1997年(52回)をピークとする90年代後半から今日にいたるまでの時期で、1996年から2001年まではいずれも10回以上(この6年間の平均は26回)にも及ぶ。

国会審議の内容にいわゆる「中国脅威論」に関係するものが増えている。たとえば1997年3月25日の衆議院安全保障委員会において、参考人として登場した元統合幕僚会議議長の佐久間一は次のように述べている。

「中国につきましては、近年、その国家政策が次第に鮮明になってきていると私は考えております。すなわち、その国家目標は国力の増大、昔の日本の言葉で言いますと、いわゆる富国強兵であります。それと社会主義体制下の経済力の発展、これが国家の目標であると考えます。

また、一九九二年には、中国の軍隊の任務として、従来の主権の防衛に加えて海洋権益の防衛という任務が加えられました。同じく同年には、領海法の制定によって我が国の尖閣諸島を含む地域をその領域と宣言したことは、御承知のとおりであります。これらの要素から、中国がいわゆる海洋進出という方向を目指しているのは間違いのないところだと考えております。

この中国の軍事力の近代化あるいは海洋進出の動向というのは、国際社会がどのようにアプローチをしても、私は、基本的には変えることはできないだろうと思っております。と申しますのは、これは中国にとうていわば国家の目標であり、また、エネルギーの確保という要因が背景にあると考えております。

そして、中国の軍事力につきましては、いろいろな評価がございます。例えばアメリカは、そのみずからの強大な軍事力を物差しにして、中国の軍事力を見て、これは大したことはないという評価をいたしますが、一方、同じ中国の軍事力でも、周辺の地域の各国から見るならば、それは非常に強大なものに映るだろう、その認識のギャップというものを常に留意する必要があると思っております。

また、中国は、いわゆる台湾の問題、あるいは香港の返還、新彊ウイグル地区、チベット問題等、幾多の内政問題を抱えております。これは内政問題であると思いますけれども、ただ、台湾海峡においてもし武力が行使されるという事態になるならば、それは単なる中国の国内問題ではなくて、我が国を含む関係諸国にとっての国際問題としての意義を持ってくるというふうに考えております。」

中国の軍事的脅威をことさら強調するために「尖閣列島」問題が利用されていることは注目に値する。

 実は同様な傾向は中国の『人民日報』の報道にも見受けられる。

 『人民日報』で「釣魚島」というキーワードで記事を検索してみると、1996年から2003年までのうち、出現回数がもっとも多い年は1996年の40本、ついで97年の13本、99年の8本であり、この時期は日本も中国も相手に対する警戒論、脅威論がことさら強調された時期といえる。90年代後半に日本でも中国でも愛国主義のみ強調する民族主義的風潮が強まった結果といえよう。

 二十一世紀に入ってからの報道ぶりを見てみると、2001年には0本であったのが、2002年には2本、そして2003年には7本とまた増加している。2004年に入り、1月21日の人民網の「元あるいは現職の駐日記者が選ぶ2003年の中日関係10大ニュース」〔原現任駐日記者評選2003年中日関係10大新聞〕という記事をみて私は驚いた。得票の多い順に紹介されているのであるが、一位には「釣魚島問題が再び波瀾を引き起し、中国の民間人士は釣魚島防衛行動を組織した」が挙げられているのである。[17]たしかに日中間でこの島の問題は未解決であるし、両国政府の見解は一致していない。しかし十大ニュースのトップに取り上げるほどのことが2003年に発生しただろうか。むしろ人民網が意図的にそのような世論作りをしていると見るほうが正確と思われる。なお『人民網』では記者のとは別に網民(ネットワーカー)の投票結果というのも紹介されており、それによるとチチハルにおける遺棄化学兵器の被害問題が一位、小泉首相の靖国神社参拝問題が二位、釣魚島問題は三位という結果である。

同じ時期の日本の『朝日新聞』における「尖閣列島」もしくは「尖閣諸島」という語彙を含む記事の出現回数を調べてみると、1996年に220本、1997年は111本、1998年と1999年はいずれも29本と、中国の出現傾向と似た現れ方を示している。2000年15本、2001年11本、2002年には6本と減少傾向を示してきたのが、やはり中国同様、2003年になると28本とまた増加している。1984年から2004年2月初めまでの総計では604本となる。[18]。

この原稿をひとまず書き上げたあと、2月5日付け『朝日新聞』には船橋洋一(朝日新聞コラムニスト)の「アーミテージ・ドクトリン」と題する論説が目にとまった。船橋洋一は以前からこの日中間の領土問題を意識的に取り上げており、同紙の「オピニオン」欄に取り上げた回数は1996年以来6回にも及ぶ「ご執心」ぶりである。彼の6回目の「オピニオン」は次のような書き出しから始まっていた。[19]

「リチャード・アーミテージ米国務副長官は、2日の日本記者クラブでの記者会見で、『日米安保条約では日本の施政の下にある領域への攻撃があれば、それは米国への攻撃と見なされる』と述べた。

同条約第5条(共同防衛)の内容を述べたまでで、別に目新しいことでも何でもない。

しかし、事情に通じた米国務省の東アジア専門家はアーミテージ氏が「日本」とか「日本の領土」ではなく「日本の施政の下にある領域」(administrative territories)という表現を使ったことに言及し、その含意は尖閣諸島(中国名、釣魚島)を想定しての発言であることに注意を促した。

その上で、『かつての米政権のこの問題に対するあいまいな姿勢を修正したものだ』とも付け加えた。

『かつての米政権の姿勢』とは、尖閣諸島をめぐる日中間の領有権問題に関して米国は『中立』姿勢を維持し、ここでは安保条約上の防衛義務を必ずしも負わないとするクリントン政権の方針のことだ。アーミテージ氏は、それを修正し、『日本の施政の下』にある尖閣諸島が攻撃されれば、米国は防衛義務を負うことを明確にした、というのだ。アーミテージ・ドクトリンの誕生と言ってもよい。」

船橋は最後に次のように書いている。

「北朝鮮の核問題解決に向けて6者協議を進めている時だ。中国を下手に刺激するべきではない。

しかし、そうした節度を十分わきまえた上で、日本は海洋国家として何を守り、何を譲のか、将来、中国とどのように海洋での共存の構想を描くのかを、国益と安全保障の観点から明確にし、覚悟を決めなければならない。そして、中国に日本の譲れない一線をくどいくらい伝え、行動で示すことだ。『以心伝心』も『惻隠
そくいん
の情』も逆効果である。中国は日本の意志の強さを試しているのだ。

まず、中国の尖閣諸島の領海突入を含め、海洋調査面での違反、問題事例を公表するべきだ。それから、中国政府に誠意ある回答と善処を求める。

それでも、このような状況が続くようなら、尖閣諸島に不法上陸を試みる外国船舶は拿捕
だほ
する方針で臨む。その旨を中国政府に通知する。」



日本政府はイラクへの自衛隊派兵という形で、これまでの防衛政策の壁を突破した。次は東アジアである、と言わんばかりである。アーミテージあるいはその伝道者たる船橋洋一の挑発言論に乗ってはいけない。日本と中国がこの小さな無人島のことで争うことが誰の利益になるのだろうか。頭を冷やして考えればわかることである。



6.試される二十一世紀に生きる者の英知



これまで見た通り、歴史事実としては日本が尖閣列島と呼ぶ島々はほんらい中国に属していた。琉球の付属島嶼ではなかった。日本が1895年にこれらを領有するようになったのは、日清戦争の勝利に乗じての火事場泥棒的行為であって、決して正々堂々とした領有行為ではない。このような歴史事実をごまかしてはいけない。事実を事実として受けとめる客観的で科学的な態度が必要である。研究と称しながら、実は意図的な事実隠しをしているものがおり、学者の論を絶対に鵜呑みにしてはいけない。この拙論にたいしてもそのような態度で接していただきたい。

われわれは政府、政党、マスコミなどの見解を公的なものとして素直に受け入れてしまいがちである。しかし必ずしもそれらが正しいとは限らない。われわれにとって大切なのは真実、真理であって、国家の利益ではない。国家は自国の利益に不都合と彼らが判断することを隠蔽したがる。その点は政党、マスコミも同様である。

 単に尖閣列島・釣魚島の問題だけを孤立的に見るのでなく、沖縄問題、台湾問題という全体の流れのなかで過去の歴史を、そして現在を見る必要がある。

 領土問題のような国家間で見解の対立する問題が発生した場合には、対立する意見にも耳を傾け、冷静かつ平和的に問題を解決しようとする精神を常に持つ必要がある。そしてなによりも第一に相互に相手を挑発することで狭隘な民族主義や偽物の愛国主義を煽動するような行動は絶対に慎むべきある。この点でわれわれはまだ周恩来や鄧小平の対応に学ぶべきであり、彼らを乗り越えるだけの英知をもっていないことを自覚し、反省する必要がある。

 日本と中国の国家関係はまだ「初級段階」にあるに過ぎず、より高級な段階に達するためには双方の不断の努力が必要である。

                      2004年2月6日


[1] 「日中国交正常化に関する周恩来総理と竹入公明党委員長会談についての邦字紙記事〔朝日新聞1980年5月23日〕(竹入メモ)『日中関係基本資料集 1949年-1997年』霞山会発行414頁」

[2] 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室のデータベース「世界と日本」のうちの日中関係資料集 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/

[3] 前掲『日中関係基本資料集』527頁

[4] 中国の海防政策については盧建一著『?台海防研究』、方志出版社、2003年3月出版を参照のこと

[5] 陳侃「使琉球録」『国家図書館蔵琉球資料匯編』上冊27頁

[6] 夏子陽「琉球録」前同書上冊425頁

[7] 周煌「琉球国志略」前同書中冊644~645頁

[8] 蔡温「中山世譜」『国家図書館蔵琉球資料続編』下冊19~20頁

[9] 東京国立博物館 東京大学史料編纂所『時を超えて語るもの』2001年

[10] 外務省外交史料館 外務省記録1門 政治/4類 国家及領域 1項 亜細亜 帝国版図関係雑件

[11] 公文別録・内務省・明治十五年~明治十八年・第四巻・明治十八年(1885年12月5日)

[12] 井上清著『「尖閣」列島――釣魚諸島の史的解明』、現代評論社、115頁、1972年10月発行

[13] 公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二巻・政綱一・帝国議会・行政区・地方自治一(府県会・市町村制一)(1895年1月12日)

[14] 井上清前掲書119~121頁

[15] 「尖閣列島の領有権についての基本見解」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/

[16] 国会会議録検索システム http://kokkai.ndl.go.jp/

[17] 人民網 中日論壇 http://japan.people.com.cn/2004/1/20/2004120182435.htm

[18] 朝日新聞のホームページ http://www.asahi.com/

[19] 船橋洋一「アーミテージ・ドクトリン」『朝日新聞』2004年2月5日13面「オピニオン」掲載







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