コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

宙ぶらりんな思い

2010-05-02 01:12:40 | 日常雑感
前回は足元を見つめる話でしたが、今回は逆に地に足がつかない話です。

明日、娘の部活生活最後の公式戦があります。(勝てば翌日も続くのですが)
小柄な体格ながら、身体がぶつかり合うバスケでよくがんばったと思います。
その雄姿を観にいってやろうと思ってます。

最後の試合ということを娘に聞いてから、自分自身の昔の話を思い出していました。
私も高校時代は軟式テニス部に所属しており、へたくそながらもがんばってました。
受験のこともあり、ほかの部員よりは一足先に引退する公式戦、その前夜のことです。
試合に備えていつもより早い時間に就寝につきました。
しかし、階下よりただならぬ雰囲気が伝わってきます。

父と母がけんかをしていました。
それまでも口論はあったと思います。
しかし、その日は父が母につかみかかっています。
当然私は間に入り、何とか停めようとします。

父の相手は私になり、いつしか父の手は私の首を絞めていました。
もちろん、殺そうなんて気は無かったと信じています。
本気を出せば、私は父を振り払うこともできたと思います。
いつの間にか体格的にも、力的にも、勝っていたんじゃないかと…それはひとつの意味で衝撃でもありました。

しかし、それよりも父が手を出していることが衝撃でした。
もちろん、体罰として父から”しつけ”を受けてきたことはあります。
ですが、それが母に向かっているのはショックでした。

それ以来(そのことだけではないのですが)父に対して、わだかまりと、溝を感じる距離感が出来たように思います。


先日のブログに書いたように、そんな父と久しぶりに顔を会わせました。
そこにはやけに柔和な父の姿が在ります。

そのとき、私のわだかまりの行き場がなくなりました。
直接対峙して、そのわだかまりを乗り越えていく…フォーカシングなどを通じて、そういうプロセス・変化が通り道だと思い込んでいた感があります。
しかし、わだかまりをぶつけるべき父はそこに居らず、別の人物です。

これはわだかまりが解決したこととは違います。
わだかまりはわだかまりとして私の心の奥底に残ったまま、解決の機会・対象を失ったんです。
これが今後、どのような影を落とすのか、あるいは自然消滅するのか、今の私には分かりません。

同じようなことは他の場面でも起こってきます。

私の心に影を起こした問題がいろいろあります。
なかには相手との関係が変化して氷解していくものもあります。
また、父の件と同じように、こだわった相手が変わってしまい、思いをぶつける対象でなくなってしまって宙ぶらりんのまま、朽ちるのを待っている思いもあります。
へたすると、相手が変わってしまった原因に私も関わっていると責めてしまう心も起こってきます。
解決しない心に、追い討ちをかけるように責める心。

少し幸いなことは、そういう心も含めて、「いま・ここ・わたし」と受け止めるだけの経験が確かにあるってkとでしょうか。
仏法に照らされるわが身の部分と、カウンセリングで培ってきた自らへの受容の経験。

アルコールが入って、よく分からない文章になってる気もしますが、これを記しておきたいなという私の欲求に従っておこうとおもいます。

私はかなえられませんでしたが、最後の試合にかけてる娘を、そっと見守って応援したいと思います。