コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

法座の余韻 (ひとり味わう)

2009-05-05 00:25:06 | 真宗

3日間の永代経法座が終わりました。
今回は、京都支部がお当番ということで、法座にどっぷりと浸かれた感はないのですが、お手伝いなどをしながら、会場のスピーカーからもれてくるお話を耳にしたり、いろんな法友と話をすることを通して、仏法にはどっぷりと浸からせてもらえました。

仏法にどっぷりと浸かるということは…世間的にはこういう法座にて有り難いお話を聞いていい気分になるっていうのが”浸かる”という感じに近いかもしれませんが、華光会で阿弥陀仏の願いを聞かせてもらえばもらうほど、その大元である「私自身」と向き合っていくことになります。

欲の心、自分を認めて欲しい心、頑張っていると評価したい心、自分を護りたい心、相手のせいにしたい心、ねたみ、ひがみ、そねみ…
清浄のものは何一つとしてありませんねぇ。
表向きには「良いこと」と思えることがあっても、その裏にほんの少しでも毒が混じって入れば、それは悪業となってたまっていきます。
ましてや、行動に起こすことだけでなく、心で思うだけでも…いや逆に、そういう”意業”のほうが罪深いというのですから。

もちろん、そういうことに気づかされ、それこそがお目当てだという「仏願」を知らされ、打たれ、その名を称えさせてもらう…そんな「有り難い」時間・空間に浸らせてもらえるのですが。

そういう得がたい場でありながら、そういう法友に囲まれる場でありながら、なおもおれがおれがの「我執」に悩まされていきます。
清らかな泉に浸かりながらも、自身のなかからとめどもなく染み出してくる毒に染まります。
それどころか、その毒を回りに振りまいてしまう。
これを救われようのない悪凡夫といわずしてなにを悪凡夫というのか。

「誠に知んぬ悲しき哉(かな)愚禿(ぐとく)鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず真証の証に近づくことを快(たの)しまず、恥づべし傷むべし」
『教行信証』信巻

これは親鸞聖人のお言葉ですが、この言葉に貫かれる私がいます。
じゃあ、親鸞聖人と一味だと喜べるかというと、「恥ずべし傷むべし」のお心が、私には浅い、浅すぎる。
うわべの恥、傷みでしか感じられない…ほんとうに恥、傷んでいるなら、こんなに冷静にブログを書いてなぞいられません。
こうやってブログにして、同情を買い、受け入れて欲しいというパフォーマンス。
もうどこまで行ってもぐだぐだですね。


でも、そんな私に届けられているものがひとつだけある。
それに「頼っているんじゃない」と嘲られるなら嘲られてもいい。
それを「利用してるんじゃない」と叱られるなら叱られてもいい。
上手く言葉にすることは出来ないが、これだけは人に認めて欲しいとか、わかって欲しいとかいうものではなく、誰に影響もされない、私自身の問題として、深く向き合っているもの。
私自身の後生の一大事として、誰も助けようのない一生、いや流転し続ける限り捨てようのない私の中の塊への代償として。

ぐだぐだの責任は、私自身が負っていくしかないのだから。

こういうことを書いていると、ふとある漫画の一説が頭によぎりました。
(親鸞聖人の言葉と、漫画の台詞を並べるなんてというお叱りは覚悟の上で)
「全部オレのもんだ。孤独も苦痛も不安も後悔も、もったいなくて○○なんかにやれるかってんだよ。」
幸村誠作「プラネテス」
(○○は相手キャラクターの名前)

その上で、そんな私の今のままを全部ひっくるめて、「必ず摂めとる」という阿弥陀仏の願いが染みてきます。


今回の法座は、いろんな面で断片的な参加だったせいか、いろんな先生のお話が区分されずに入り込んでる感じですね。
この3日間の私に届いたテーマは
(いろんなことがある、という上で)「ただ、わが名を称えよ!!!」

南無阿弥陀仏