めでたさもちうくらゐなりおらが春 一茶
この句の場合のちうくらゐ(中くらい)には現代とは違った意味があるようです。
先ず方言的な見方からすると:長野での「ちゅうぐらい」は「あいまい。あやふや。いいかげん・・・というような独自のニュアンスがあるそうです。
そして時代的には:一茶の江戸期では「ちうくらゐ」「ちゅうぐらい」とは余りよくないこと、感心しない、具合がわるい。面白くないという意味で用いられていたそうです。
そうなるとこの句の場合の「春」は正月を指すようですから以下のような解釈になるようです。
句の解釈:
(風が吹けば吹っ飛ぶようなあばら屋でもあるし、掃除もしないで、門松も立てないで、ありのままで正月を迎えている。だから)目出度いのかどうかあいまいな自分の正月である
というような今まで小生が持っていたのとは違った解釈になって来るようです。
そしてこの後に「雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかえける」と続きます。
そして最後は
ともかくもあなた任せのとしの暮 という句で結ばれます。
ここでいう「あなた」とは阿弥陀如来のことで、浄土真宗の根本である「本願他力」の境地を句の中に巧みに織り込んでいたのですね。
そんな深いところとは大違いですが、人並みに「春よ来い来い、早く来い」・・・と待ち望んでいた我が家に、やっとフクジュソウの気配が見えて来ました。
例年よりも二週間遅れとなります。
2月16日の姿 ↓
そして本(2/17)日の姿 ↓
ここまで来ると花が地上に出て開くのは今週中のことになりそうですね。
果たしてどんなものになるのか楽しみにしています。
ツクシ ↓
フクジュソウの蕾を見てから庭の片隅でツクシ探しをしました。不満足なものですが、これが今年の”お初”です。
この句の場合のちうくらゐ(中くらい)には現代とは違った意味があるようです。
先ず方言的な見方からすると:長野での「ちゅうぐらい」は「あいまい。あやふや。いいかげん・・・というような独自のニュアンスがあるそうです。
そして時代的には:一茶の江戸期では「ちうくらゐ」「ちゅうぐらい」とは余りよくないこと、感心しない、具合がわるい。面白くないという意味で用いられていたそうです。
そうなるとこの句の場合の「春」は正月を指すようですから以下のような解釈になるようです。
句の解釈:
(風が吹けば吹っ飛ぶようなあばら屋でもあるし、掃除もしないで、門松も立てないで、ありのままで正月を迎えている。だから)目出度いのかどうかあいまいな自分の正月である
というような今まで小生が持っていたのとは違った解釈になって来るようです。
そしてこの後に「雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかえける」と続きます。
そして最後は
ともかくもあなた任せのとしの暮 という句で結ばれます。
ここでいう「あなた」とは阿弥陀如来のことで、浄土真宗の根本である「本願他力」の境地を句の中に巧みに織り込んでいたのですね。
そんな深いところとは大違いですが、人並みに「春よ来い来い、早く来い」・・・と待ち望んでいた我が家に、やっとフクジュソウの気配が見えて来ました。
例年よりも二週間遅れとなります。
2月16日の姿 ↓
そして本(2/17)日の姿 ↓
ここまで来ると花が地上に出て開くのは今週中のことになりそうですね。
果たしてどんなものになるのか楽しみにしています。
ツクシ ↓
フクジュソウの蕾を見てから庭の片隅でツクシ探しをしました。不満足なものですが、これが今年の”お初”です。
一茶の句の解釈については過去記事でも重複していたかもしれませんが、年寄りの繰り言としてお許しください。
この福寿草については昨年のことですが、株が大分弱っているように見えました。
もしもそうでしたらそれが原因で花の咲くのが遅くなったのかもしれません。
自分の中ではフクジュソウとのお付き合いが少し難しくなりました。