ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

3/4日 奈良の東大寺・興福寺 高校時代に行った修学旅行の記憶の確認

2014-03-10 07:03:06 | 草花
青春18切符のありがたいところで、一日中乗り放題ですので、法隆寺を見たあとは奈良の東大寺に行くことにしました。
これも高校時代に修学旅行で行ったところで、その記憶の確認でもあります。

JRで法隆寺駅から奈良駅までは10分と少々で着いてしまいます。
奈良駅からは、両側に賑やかにお店が建ち並び、今風の門前町のようになっているやや上り勾配の道を東進します。
途中で興福寺と猿沢の池の間を通り抜けるところから鹿のいる奈良公園に入っていきます。
そして国立博物館を過ぎてから東大寺の南大門に通じる道に至り、これを左に曲がり北上します。
東大寺の大仏殿まではJRの奈良駅から歩いて2.5km弱でしたでしょうか。

今回は東大寺に近づくにつれて大仏殿最上部の屋根の両端を飾る金ピカの鴟尾(しび)が見え始めたので、地図に頼らずにその鴟尾(しび)を見ながら近付きました。

奈良公園 ↓

奈良公園内に入ると早速鹿がお目見えします。そのあとは公園内では当たり前のようにいました。
奈良公園では鹿は神仏のお使いでしたね。
小生の歩く山野では鹿は最早害獣と成り下がってはいますが・・・。




若草山は枯れ草山 ↓

これは若草山でしょうね。今の季節はすっかり枯れ草の山となっています。



南大門(国宝) ↓

国内最大の山門だそうです。東大寺が華厳宗の大本山であることからこの扁額があるわけですが、この額は2006年に新調されたものです。
天平時代に創建され、平安時代に台風で損壊、その後鎌倉時代に再建したものだそうです。
門の高さは基壇上25.46mあり、門の左右に金剛力士像を安置しています。



金剛力士像阿形(国宝) ↓

高さ8.4mの木製大彫刻で運慶および快慶が小仏師13人を率いて造ったものとあります。



金剛力士像吽形(国宝) ↓

こちらは定覚および湛慶が小仏師12人と共に造ったもので、阿吽の両像を1203年に僅か69日間で彫り上げてしまったそうです。



大仏殿屋根最上の鴟尾(しび) ↓

鴟尾(しび)とは、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種ですね。
もう大分前のことになりましたが、この鴟尾(しび)法要の様子をNHKで放映していました。
「鴟尾(しび)」が屋根の最上部に設置されるのは火除けの意味があるそうです。
魚の形をしていて、魚は水に棲むものですからその関連なのでしょうね。



鴟尾(しび)の拡大 ↓

ネット上で鴟尾(しび)にまつわるこんな俳句を見つけました。
金色の鴟尾の眩しき五月晴  中野千江
月幾夜照らせし鴟尾に今日の月  水原秋櫻子
一山の鴟尾の金色天高し  佐藤信

しかし、鴟尾(しび)は何も金色である必要は無いそうですね。



大仏殿(金堂)(国宝) ↓

大仏殿は正式には東大寺金堂といい、東大寺の本尊、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置しています。
木造軸組構法(もくぞうじくぐみこうほう)としては世界最大の建造物と言うことです。
最初の大仏殿の建設は大仏の鋳造が終わった後に始まり、758年(天平宝字2年)に完成しました。

1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、落慶法要には源頼朝なども列席したということです。

1567年(永禄10年)11月10日(旧暦10月10日)から11月11日(旧暦10月11日)にかけて、東大寺大仏殿の戦いによって焼失。

その後、仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。

さらにその後、公慶上人の尽力や、徳川綱吉配下の勘定奉行・荻原重秀などの寄進により、現存する大仏殿の建設が始まり、1691年(元禄4年)に完成、1709年(宝永6年)に落慶した。
しかし、大きさは当初のものよりも幅が3分の2程に縮小されているそうです。

また、1879年(明治12年)から1915年(大正4年)までに修理が行われた。これは瓦の重量に屋根が耐えられなくなったためであり、やむなく瓦の数を減らすなどの対処が行われた。しかし雨漏りなどの問題が生じ、1973年(昭和48年)から1980年(昭和55年)に再修理が行われた。この際は現代の技術で軽量化された瓦が採用された・・・ということです。




大仏(盧舎那仏=るしゃなぶつ像)様(国宝) ↓







当時の世の中は貴族や僧の勢力あらそい、伝染病の流行、穀物の凶作などで民衆は苦しみ、いろいろな困難に直面していた。 そのため、聖武天皇は仏の大きな力にすがろうとして、巨大な大仏を作る事を思いついた。、大きければ大きいほど、仏の力が大きくなると考えたのでしょう。

仏教の中にこの東大寺の拠って立つ華厳教というものがあり、この教えの中心となる仏は盧舎那仏という仏でありました。盧舎那仏はかぎりない力を持ち、すべての人々を苦しみから救ってくるとされていました。
造るお像は大きさの関係で、座した姿の仏とされました。
この仏を作ることで、仏(ほとけ)が存在することを目に見える形で民衆に示そうとしたのでしょう。

大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、鋳造が終了し、大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのはは天平勝宝4年(752年)のことでありました。
その後1180年(平安時代)と1567年(戦国時代)に焼け落ちていて、現在の大仏は1692年(江戸時代)に修理されたものとありました。
高さ(座高):14.98m
顔の大きさ :5.33m
膝の開き幅 :20m
使用材料  :銅・錫・水銀・金合計で約500トン
延べ稼動人員:260万人 (当時の総人口は約700万人)という一大国家事業でありました。
鋳造する手順はこうなります。

大仏ができるまで】

① 木で骨組(ほねぐみ)をつくる。
② 骨組(ほねぐみ)にねん土をぬって原型をつくる。
③ 原型にさらにねん土をぬって鋳型(いがた)をつくる。
④ 原型の表面をすこしけずる。
⑤ けずった分だけ原型と鋳型(いがた)にすき間ができる。
⑥ すき間に銅などを8回に分けて流しこむ。
⑦ 鋳型(いがた)をはずして、表面をみがき、金をぬる。
⑧ 大仏が完成する。 



ニ月堂(国宝) ↓

「お水取り」「お松明」(修二会=しゅにえ)の行われる事で有名な建物です。
今年は3月12日の深夜(厳密には13日の未明午前1時半ごろ)に若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式のようですが、これは、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔(さんげ)の行を勤めるものなのだそうです。



興福寺の五重塔(国宝) ↓

JR奈良駅まで戻る道筋に興福寺が有り、来るときに通り過ぎていましたので、帰りに立ち寄ることにしました。
なんと言いましてもこの五重塔が良く目に付きます。
高さが50.1mで木造の塔としては日本第二位の高さだそうです。創建は天平二年(730年)。
現在のものは応永33年(1426年)頃の再建。



興福寺の南円堂(重文) ↓

これも法隆寺の夢殿のように八角形でした。創建は弘仁4年(813年)。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建と聞きました。



猿沢の池 ↓

周囲が360mくらいしかない小さな池で、天平21年(749年)に造られた人工池だそうです。
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。
水が流入する川はなくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている・・・・などと言うことに始まるこの池の七不思議があるそうです。
池の名前のサルサワを「去る差・和」と読み替えて、水量が減る・増えるが無いと受け止めたのでしょうね。
般若心経の中に「不増不減]と言う言葉がありますが、松原泰道老師はこの池を引き合いに出して、その意味するところを説いていましたね。
コメント (6)
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