現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

北村薫「隣の赤」うた合わせ所収

2016-05-31 14:25:06 | 参考文献
 小説新潮に五十回にわたって連載された、作者が選んだ現代短歌の百人一首の第一回です。
 以下の二首が選ばれています。
 「不運つづく隣家がこよい窓あけて眞緋なまなまと耀る雛の段」塚本邦雄
 「隣の柿はよく客食ふと耳にしてぞろぞろと見にゆくなりみんな」石川美南
 時代も作風も違う二首を合わせて、それに関連した随想を、自分自身は短歌を読まない直木賞作家が書いています。
 短歌に限らず本や文学に関するマニアックな情報が盛り込まれていて、本好きにはたまらない随想です。
 随想の中には他の歌も紹介されていて(本全体で550首収録されているそうです)、現代短歌の格好の入門書になっています。

 
うた合わせ 北村薫の百人一首
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

児童文学を書く上で注意すること

2016-05-31 08:16:23 | 考察
 児童文学を書こうとした場合に、注意すべきことをいくつかまとめておこうと思います。
 まず注意しなければいけない点は、いかに読者である子どもたちの関心を引くかということです。
 児童文学は、作者である大人(子どもが書いた作品もありますが、それは非常にまれなことでしょう)と子どもである読者(最近は大人(特に女性)にも、児童文学の読者は広がっていますが、ここでは便宜上一次的な読者である子どもを想定しています)。
 作者側から見れば一般文学と同様に、自分の関心に基づいて書きたいように書けばいいのですが、児童文学では読者である子ども(それが自分自身の中にある内なる子どもだとしても)を意識する必要があります。
 例えば、「戦争体験をどう伝えるか」を例にあげると、自分自身の経験(実体験に限らず上の世代や外国の人から聞いた場合も含みます)をそのままに書くのではなく、現代および未来を生きる子どもたちに、他人ごとではなく自分自身にも関係のある問題だと思ってもらえるように書く工夫が必要です(例えば、那須正幹の「ねんどの神様」(その記事を参照してください)など)。
 児童文学の場合、自分自身の子どもの頃の体験を書く事も多いと思います。
 その場合は、それを現代に置き換えて書くのか、その時代のこととして書くのかを明確にした方が成功することが多いです。
 子どもたちの風俗は時として変化します(特に高学年や中学生やヤングアダルト物は)。
 それをあいまいにして書くと、どこか作品がピンボケになってしまい、読者の印象に残りにくくなります。
 児童文学の書き方にも流行があります。
 新しい作品を読んで、自分の手法や題材が古くなっていないかをチェックする必要があります。
 よく初心者の作品で、舞台になっている国や時代が不明ないわゆる無国籍童話が書かれることがあります。
 制約がないので、一見書きやすそうですが実はこれば一番難しいのです。
 こういった作品の場合、作品で書かれている部分の外に確固たる世界が広がっているように感じられなくては、読んでいて薄っぺらく感じられます。
 一番いいのは自分自身でひとつの世界観を作り出すことですが、これはよほど才能に恵まれていなければ難しいと思います。
 そこで、もっと楽に書くならば、他人の作った世界観(例えば、トールキンの「剣と魔法」の世界など)を借りてきて、その上で二次創作することでしょう。
 他人の物でも、はっきり世界観を意識して書けば、作品のリアリティは格段に違ってくるでしょう。
 なお、いわゆるリアリズムの作品は、「現実」という世界観のもとで創作されています。
 従来、子どもにわかりやすく伝えるために、児童文学は「アクションとダイアローグ」で書かれてきました。
 それが、80年代に入って、「描写」を前面に出した「小説」的な手法で書かれる作品が増えてきました。
 結果として、児童文学の読者年齢をあげることになり、一般文学へ越境する作品や作家(江國香織や梨木香歩など)が現れました。
 児童文学は女性の読者が多いので、特にL文学(女性作家による女性を主人公にした女性読者のための文学)に越境は多いでしょう。
 こうした手法を幼年文学(幼稚園から小学校三年生ぐらい)に適用して、子どもたちの繊細な感情を描こうという試みもありますが、読者の受容力を考えると限界があるように思えます。
 「子どもたちの風俗をどう描くか」も大きな問題です。
 同時代性を意識しすぎて最新の風俗を描くとすぐに陳腐化してしまいますし、かといって、古い風俗(例えば作者の子ども時代)を現代の子どもに適用するのも現代の子どもたちが読んでピンとこない場合も多いと思います。
 すぐに陳腐化しないような風俗の書き方(例えば、特定のゲームやアニメの寿命は数年ですが、ゲームやアニメという仕組み自体は数十年の寿命を持っています)を工夫する必要があります。
 幼年や絵本を書くのはやさしいという誤解があります。
 本当は、それらを書くのが一番難しいのです。
 読者の受容力が限定されている中で、魅力的なキャラクターを生みだし、ひとつひとつの文章を磨き、より起承転結をはっきりさせて物語のメリハリをつけなければ、気まぐれな年少の読者たちはすぐに本を投げ出してしまいます。
 自分が書きたいのが純文学的な(変な言い方ですが)児童文学なのか、エンターテインメントなのかも、はっきり意識して書かなければなりません。
 エンターテインメントでは、リアリティの追求、細かな心理描写、社会性などよりも、魅力的でデフォルメされたキャラクター(パターン化していてもOKです)、大胆な筋運び(例え偶然を多用したとしてもかまいません)、読者へのサービス(恋愛シーンやスポーツの試合や戦闘シーンなど)などが大事です。
 実際に書き出す前に、自分が何を誰に対してどのように書くかを問うことが必要です。
 ただし、どちらの場合でも、作者が自分自身と読者と主人公のために用意された独自の世界を生みださなければならないことは言うまでもありません。
 また、自分の書き手としての強みが、ストーリーテリングにあるのか、描写力にあるのか、自分自身の体験にあるのかを、はっきり意識することも重要です。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

5月30日(月)のつぶやき

2016-05-31 08:07:40 | ツイッター
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

吉村萬壱「樟脳風味枯木汁」虚ろまんてぃっく所収

2016-05-30 18:46:39 | 参考文献
 これもまたエロとグロの世界なのでが、その中に書けない売れない食えないの三重苦にあえぐ純文学作家(作者の分身?)が描かれていて興味深い面もありました。
 御多分にもれず、作中の作家も純文学をあきらめてエロ小説を書くのですが、それもうまくいきません。
 かつてのエロ小説(官能小説と呼ばれていました)の世界では、宇能鴻一郎(芥川賞受賞作家)や川上宗薫(芥川賞候補五回)などの大家がいますので、純文学との親和性はもともと高いと思われます。
 昔なら作者もとっくに官能小説に転向していたかもしれませんが、今はこれらの小説の読者は高齢者に限られていて、マーケットも縮小しているので難しいでしょう。

虚ろまんてぃっく
クリエーター情報なし
文藝春秋
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

老人児童文学

2016-05-30 07:10:35 | 考察
 最近の児童文学の同人誌では、老人が出てくる作品が増えています。
 それは、児童文学の書き手が高齢化しているとともに、元気な高齢者が増えてこれから児童文学の創作をやりたいという方が増加しているからでしょう。
 私は、それらの作品を老人児童文学と呼んでいますが、中には子どももまったく出てこないし、子どもの読者を想定して書かれていないものもあり、これらは純粋に老人文学といえるでしょう。
 私はそういった分野には疎いのですが、老人文学を対象とした同人誌はないのでしょうか?
 こういった作品を、真の意味で共感して読めるのは、同じような境遇のお年寄りか、そういった親を持つ子どもたち(四十代、五十代、場合によっては六十代)でしょう。
 ご存知のように、日本では超高齢社会化が進んでいるのですから、そういったお年寄り向けの同人誌や雑誌を作ったら、おそらく大成功するでしょう。

絵本・児童文学における老人像―伝えたいもの伝わるもの
クリエーター情報なし
グランまま社
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

5月29日(日)のつぶやき

2016-05-30 07:05:59 | ツイッター
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

柏原兵三「外套」柏原兵三作品集1所収

2016-05-29 12:00:32 | 参考文献
 作者自身が述べているように、この作品が書かれた1971年でも死語になりかかっていた「外套」は、その後使われた「オーバー」という言葉が死語になったというよりは防寒用の衣類がコートやダウンに取って代わられた現在では、その存在自体が死に絶えているのかもしれません。
 この作品では、戦中及び戦後の物不足の中で、いかに苦労して外套(代用品だったり中古だったりしています)を工面したかの苦労が描かれていますが、現在の読者にはよく理解できないかもしれません。
 しかも、作者は役所まで送り迎えの車があるような高級官僚の息子で、山の手の中流家庭で育っている弱点がこの作品ではもろに出ていて、この程度の苦労話では同世代の人でさえも共感よりは反発を覚えるでしょう。
 こういったエリート臭いエピソードを臆面もなく作品に書くのは、作者の特長なのですが、限界でもあります。

柏原兵三作品集〈第1巻〉 (1973年)
クリエーター情報なし
潮出版社
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

売れる児童文学の本について

2016-05-29 07:34:37 | 考察
 売れる児童文学の本とは何か?
 一般文学とは違って、児童文学には作者と読者の間に「媒介者」と呼ばれる存在があるので、「売れる本の条件」は少し複雑です。
 媒介者とは、子どもたちに代わって、本を購入したり、本を選んだりして、読書を勧める人たちのことで一般的には大人です。
 主な媒介者には、両親をはじめとする家族、学校の教師、図書館の司書、子ども文庫活動をしている人たち、読書運動の活動家、読み聞かせのボランティア、書店員などがいます。
 これらの媒介者の手を経て、子どもたちが本を手にすることが多いのです。
 売れる本のタイプの一番目は、もちろん子ども自身が選択して本を購入する場合ですが、現在ではコミックスだけでなく、ゲーム、アニメ、ケータイなどの他のエンターテインメント分野と競合して、子どもたちの少ないこずかいからお金を払うわけですから、それに見合うだけ楽しめるものでなくてはなりません。
 このジャンルは、一般にエンターテインメント作品と呼ばれますが、少し上の年齢層向けとしては、ジュニアノベル(女の子向けが中心)、ライトノベル(男の子向けが中心)と呼ばれる作品群が、文庫や新書の形で毎月大量に出版されています。
 これらには、たくさんのレーベルがありますが、最近は小学生向けのレーベルも増えて低年齢層の取り込みを図っています。
 これらの作品群は、ストーリーや文章よりもカバーイラストやキャラクターが重視されていて、その点でも戦前の少年倶楽部の少年小説や吉屋信子などの少女小説の正統な末裔と言えるでしょう。
 次に媒介者が本を選ぶ場合ですが、これらは媒介者自身の読書体験やいろいろなブックリスト(毎年選ばれている読書感想文コンクールの課題図書もここに含まれます)をもとに選択されています。
 そのため、子どもたちが読んで面白いかどうかももちろん大切ですが、教育的な配慮が重視されることが多いと思われます(課題図書の場合は、読書感想文の書きやすさもポイントになるでしょう)。
 このジャンルでは、世界や日本の児童文学の古典的な名作、戦争や障碍者などの社会的な問題を扱った作品の人気が根強いです。
 かつて労働運動や社会運動が活発だった時代には、社会主義リアリズムの作品群もこのジャンルとして人気があり、初期のそれらの作品の出版の背景になりましたが、運動の衰退とともに人気を失いました。
 この分野では識字教育とも結びついていて、現在では高学年向けの作品は低調で、幼年向け(小学校三年生ぐらいまで)が中心になっています。
 最後に、子どもたちと媒介者の間での妥協によって選ばれる作品群があります。
 このジャンルの代表的な作品群としては、媒介者が比較的良心的と認めるエンターテインメント作品(例えば、ズッコケシリーズやゾロリシリーズなど)、偉人やスポーツ選手などの伝記、ノンフィクション、ハウツー物などがあげられます。
 また、児童文学の媒介者と読者は、ともに圧倒的に女性が多いので、媒介者がかつて読んだ(あるいは一緒にこれから読みたい)女性向け(対象年齢は問わない)の作品も選ばれることが多いです。

やさしさと出会う本―「障害」をテーマとする絵本・児童文学のブックガイド
クリエーター情報なし
ぶどう社
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

5月28日(土)のつぶやき

2016-05-29 07:28:31 | ツイッター
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

石井睦美「すみれちゃん」

2016-05-28 07:31:53 | 作品論
 児童文学研究者の宮川健郎は「声をもとめて」という論文(その記事を参照してください)の中で、「声が聞こえてくる」幼年文学のひとつとして、この作品をあげています。
 幼稚園児のすみれちゃんを主人公にした連作短編集で、時間が進行しない「循環型」でなく短編ごとに時間が進んでいく「進行型」です。
 シリーズ作品ですが、その後も主人公は成長していって、読者の成長に合わせてお話が進んでいくようです。
 ストーリーは主人公に妹が生まれることの葛藤を描いた平凡なものですが、ところどころで主人公が歌を歌うミュージカル仕立てのような点が工夫されています。
 主人公の年齢からするとやや文章が難しくかたい感じですが、シリーズが進むにつれてあっていくのでしょう。
 ただ、この本の範囲においては、エピソードがありきたりで、本になっていない素人作品も含めて同様の作品はすでにたくさん書かれているでしょう。

すみれちゃん
クリエーター情報なし
偕成社
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

5月27日(金)のつぶやき

2016-05-28 07:28:23 | ツイッター

「古田足日「現代児童文学論」小さい仲間第5号所収」 goo.gl/KaoEVh


「山中恒「ぼくがぼくであること」」 goo.gl/L8xrBL


「古田足日、鳥越信、神戸光男「日本児童文学を斬る」」 goo.gl/pRrwJ


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ラウンド・ミッドナイト

2016-05-27 08:29:20 | 映画
 1950年代のパリを舞台に、黒人のジャズのサックス奏者と、その熱烈なファンであるフランス人の青年の奇妙な友情を描いています。
 ジャズに限らずポピュラー音楽が、まだビッグビジネス化していない時代の雰囲気が、ふんだんに演奏されるジャズと紫煙とアルコールとドラッグとともに、情緒たっぷりに再現されています。
 映画のモデルになったのは、ジャズ・ピアニストのバド・パウエルのパリ時代だそうで、彼のファンである私にとってはその点でもたまらない魅力があります。
 音楽も文学も、過度にビジネス化が進んでいなかったころの方が、演奏者や作者の「作家性」が息づいていて、聴き手や読者に強くアピールします。

ラウンド・ミッドナイト [DVD]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

古田足日、鳥越信、神戸光男「日本児童文学を斬る」

2016-05-27 08:27:34 | 参考文献
 2003年に行われた同名の公開鼎談を、翌年に出版したものです。
 非常に刺激的なタイトルですが、率直に言えば、「羊頭を掲げて狗肉を売る」といった印象を受けました。
 古田先生と鳥越先生は、早大童話会の出身で私の大先輩にあたる方々です。
 お二人は、いわゆる「少年文学宣言」とその後の議論で現代児童文学のスタートに大きく貢献し、古田先生は主に創作と評論で、鳥越先生は研究と評論を中心に、五十年以上にわたって日本児童文学を牽引されてこられました。
 個人的にも、鳥越先生には、大学時代にサークルの例会に先生の研究室を使わせていただくなど、大変お世話になりました。
 また、古田先生には、1984年に私が児童文学活動を再開するために参加した日本児童文学者協会の合宿研究会で、全体の討論をまとめる時の先生のお話の明晰さに敬服しましたし、その後創作活動するための同人誌も紹介していただきました。
 しかし、両先生ともに1920年代のお生まれで、この鼎談の時には七十代の半ばになっていらしたと思います。
 さすがに、最新の日本児童文学の状況を語るのには、お年を召されていたのではないかと思われます。
 両先生にまだ語っていただけばならないほど、現在の日本児童文学界は人材が払底しているのでしょうか。
 また、司会役の神戸氏は、長年、児童文学の出版や読書運動に携わってこられた方ですが、両先生とほぼ同年齢で鳥越先生とは早稲田で同級生ということもあり、さながら同窓会の雰囲気になってしまっています。
 もっと若くて現在の児童文学に精通した人(例えば、佐藤宗子、宮川健郎、石井直人など)を司会役にすれば、両先生からもっと有益なお話が聴けたと思います。
 案の定、前半は、「少年文学宣言」のころの昔話に終始してしまい、その後も、課題図書、読書運動、戦争児童文学、海外の作品など、あちこちに話が飛び、けっきょく時間切れで尻切れトンボに終わってしまいました。
 本が売れる売れないとか、子どもが本を読む読まないといった話でなく、なぜ現在の日本児童文学にいい作品が生まれないのかについて、もっと両先生の議論を深めていただきたかったと思ったのは、私だけではないはずです。
 2013年になってから、日本児童文学学会を通じて、鳥越先生の訃報に接しました。
 また、古田先生も2014年にお亡くなりになりました。
 心より両先生のご冥福をお祈りいたします。

日本児童文学を斬る―鼎談/古田足日・鳥越信・神戸光男
クリエーター情報なし
せせらぎ出版
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山中恒「ぼくがぼくであること」

2016-05-27 08:08:12 | 作品論
 教育ママにあまりにしぼられたために、衝動的に家出をした小学六年生の主人公の男の子が、偶然訪れた山村でのひと夏の体験を通して、「ぼくはぼくなんだ」と一人の人間として生きていくことを自覚する作品です。
 このよくありそうなテーマを単なる成長物語ではなく、一級のエンターテインメントにしてしまうのが、天性のストーリーテラー、山中恒の作家としての腕前でしょう。
 なにしろ、主人公の淡い初恋、ひき逃げ事件、替え玉母親、さらには、武田信玄の埋蔵金まで、エンタメ要素満載です。
 しかも、そこへ、受験競争、学園闘争、家庭崩壊、戦争体験などの、出版された1969年当時の社会問題までも、巧みに盛り込んでいます
 彼の文才は、早大童話会時代からつとに有名で、「山中恒がいたから創作はあきらめた。敵わないですよ、彼には」(「『早稲田の児童文学サークル』と現代日本児童文学」日本児童文学2011年7・8月号所収)と、児童文学研究者で翻訳家の神宮輝夫に言わしめたほどです。
 児童文学研究者の鳥越信も、同様の理由で(彼は強がりなので、公式にはケストナーのように幼少時代を鮮明に覚えていないから創作をあきらめたんだと言っていましたが)作家をあきらめて研究者になったといわれています。
 19歳だった私自身の1973年のレポート(早稲田大学児童文学研究会「ビードロ」所収)でも、古田足日や後藤竜二のテーマ主義が目立つ当時の作品に比べて、彼の優れたストーリー性と社会性のバランスを高く評価していました。
 その後1970年代に入ると、「おれは児童文学者ではなく児童読み物作家なんだ」と、山中自身が完全に開き直ってしまい、山中恒の作品からは社会性が失われてしまいました。
 1974年に聞いた山中恒の講演の記憶では、自分の本が課題図書に選ばれないことをかなりひがんでいた面もあると思われます。
 なお、児童文学者協会の協会賞は1969年に「天文子守歌」で選ばれているのですが、山中は辞退しています。
 講演でも、「協会賞はいらないから課題図書に選んでくれ」と言っていました(今はそれほどではありませんが、当時は課題図書になれば家が建つと言われていました)。

ぼくがぼくであること (岩波少年文庫 86)
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

5月26日(木)のつぶやき

2016-05-27 08:01:00 | 演劇
コメント
この記事をはてなブックマークに追加