現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

「第一話 ルナールの誕生と子供時代」狐物語所収

2016-04-30 15:43:16 | 作品論
 児童文学の動物ファンタジーでは、動物によっては既定のキャラクターがそのまま設定されている場合があります。
 例えば、キツネの場合は、「ずるい」、「賢い」、そしてその二つを兼ね備えた「ずるがしこい」というキャラクター設定がされることが多いです。
 これらのキャラクターは、12世紀のフランスで異なる作者によって生み出された「狐物語」の主人公である、キツネの「ルナール」によって確立されたものでしょう。
 この短編では、ルナールが誕生した背景について書かれています。
 中世ヨーロッパは王政でしたので、ライオンを王として、このお話の脇役であるオオカミの「イザングラン」は重臣という設定です。
 王に直接はむかうことはこの時代では死を意味しますから、このお話では、代わりに重臣のイザングランを権力の象徴として、本来は力を持たない民衆の代表であるルナールが、ずるがしこさを発揮してイザングランをやっつける姿に、読者たちは喝采したのでしょう。
 ただし、現在ではこうした本来の物語構造をすっかり忘れられて、たんなるキャラクター設定になっている場合が多いようです。
 なお、本来は民衆(大人)のために書かれたので、「狐物語」には猥雑なシーンが頻出します。
 それが、子ども用の物語になる過程において漂白されて、人畜無害なものになってしまいました。
 過度にモラリッシュな現在の日本の児童文学界では、こういったピカレスクロマンを受け入れるのは難しいでしょう。

狐物語 (岩波文庫)
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岩波書店
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浅野弘毅「男のうつ病・女のうつ病」うつ病論 双極Ⅱ型障害とその周辺所収

2016-04-30 08:46:45 | 参考文献
 従来、定型(メランコリー親和型の単極うつ病)が多かった男性のうつ病の非定型化(軽症うつ病など)が進行して、逆に非定型が多かった女性では定型化が進行しているとしています。
 女性の定型化の進行については、従来家庭にいた女性の社会進出が進み、管理職になる女性も増えていることを理由に挙げ、うつ病の男女の性差が小さくなっていると指摘しています。
 その一方で、男性の非定型化の進行理由については言及がなく、バブル崩壊後の特に若い世代(男女ともにです)の雇用・労働環境が激変していることへの視点が決定的に欠如しています。
 その理由としては、筆者(1946年生まれ)が団塊の世代(逃げ切り世代)に属し、現在の世代間格差などの社会のひずみが他人事に映っているのではないかということが疑われます。

 
うつ病論―双極2型障害とその周辺 (メンタルヘルス・ライブラリー)
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4月29日(金)のつぶやき

2016-04-30 08:41:54 | ツイッター
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ウォリアーズ

2016-04-29 10:37:07 | 映画
 1979年に公開された、アメリカのB級映画(低予算で製作された特定の観客向けの娯楽映画)です。
 当時アメリカで社会問題になっていた、ストリートギャングの若者たちを描いています。
 互いに敵対していたニューヨークのストリートギャングの融和を図るための集会で、主催者である有力チームのカリスマ性を持ったリーダーが射殺され、出席していたストリートギャングのチームの「ウォリアーズ」が犯人の濡れ衣を着せられます。
 「ウォリアーズ」のメンバーは、集会が行われたブロンクスからシマ(テリトリー)であるコニーアイランド(ニューヨーク郊外の海辺で、遊園地などがある歓楽街)まで、徒歩と地下鉄で逃げていきます。
 その行先々で、そこをシマとするそれぞれに個性豊かなストリートギャングのチームが襲ってきます。
 さまざまな障害を、「ウォリアーズ」は、ゲーム感覚(その後実際にビデオゲームになりました)で突破していくだけの単純なストーリーです。
 ほとんどオールロケ(トイレの中での乱闘シーンだけがセットだそうです)で撮影されているので、現在のSFXでなんでも済ましてしまう映画と違って、手作り感満載です。
 1970年代当時のニューヨークの荒廃した街路や地下鉄がふんだんに登場していて、作品にリアリティをもたらしています。
 この映画の登場人物や対象としている観衆は、児童文学でいえばヤングアダルトにあたりますが、最近の日本の児童文学では、作者の大半が女性のせいかお行儀がよくなって、こうしたピカレスクロマンはほぼ絶滅しています。
 監督のウォルター・ヒル(脚本家としては「ゲッタウェイ」など、監督としては「48時間」など、製作者としては「エイリアン」シリーズなど)は、こうしたピカレスクロマンが得意で、1984年にはやはりストリートギャングが出てくる「ストリート・オブ・ファイヤー」が日本でもヒットしました(その年のキネマ旬報の読者投票で洋画の第一位)。
 これらの映画では、無意味な殺人や残酷シーンはなく、ストリートギャングたちの乱闘シーンもスポーツ感覚で楽しめ、一種の青春映画か恋愛映画として見ることができます。


ウォリアーズ [DVD]
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パラマウント ジャパン
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木下古栗「IT業界 心の闇」金を払うから素手で殴らせてくれないか?所収

2016-04-29 08:12:34 | 参考文献
 ストーリーはこれといってなく、三人の若い女性(IT技術者、看護師、OL(実は男?))のグダグダした関係と、週刊誌のゴシップ(本物?)をちりばめた作品です。
 こういった作品は、そのストーリー性や社会性をうんぬんするのではなく、純粋に文芸論的に評すべきでしょう。
 そういった意味では、擬古的な文章とポップな感覚が混じり合った不思議な魅力があるのは認められます。
 ただ、児童文学の世界では、絵本やナンセンス童話にもっと刺激的なものがたくさんあるので、作品世界自体にはそれほど驚きませんでした。

金を払うから素手で殴らせてくれないか?
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講談社
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4月28日(木)のつぶやき

2016-04-29 07:51:58 | ツイッター
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トマス・ハリス「ハンニバル」

2016-04-28 10:02:14 | 参考文献
 1999年に発表された、かの有名な「人食い」ハンニバル・レクター博士を主人公にしたホラー・サスペンスです。
 作者は寡作で有名で、一作一作に非常に時間をかけて執筆しています。
 デビュー作の「ブラック・マンデー」が1975年、ハンニバル・レクター博士が初めて登場する「レッド・ドラゴン」が1981年、代表作の「羊たちの沈黙」が1988年、そして、おそらく最後の作品になると思われる「ハンニバル・ライジング」が2006年と、31年間に5作しか出版していません。
 どの作品もじっくりと調査して、精密に構成された作品なので、それだけの年数が必要なのだと思われます。
 また、すべての作品がベストセラーで映画化もされているので、経済的にも作品を量産して質を下げる愚を犯さないで済んでいるのでしょう。
 作品の出来としては「羊たちの沈黙」をピークとしてだんだん下がっているので、1940年生まれの作者の年齢を考えると、今後傑作が生みだされる期待はあまりできません。
 この作品では、「レッド・ドラゴン」で生み出され、「羊たちの沈黙」で完成した「サイコホラー」というジャンルと「プロファイリング」という捜査方法は影をひそめ、ハンニバル・レクター博士の嗜好や生活、なぜこの「人食い」の怪物が出現したかに多くの紙数がさかれ、ややもすると冗長な感じさえ受けます。
 また、アクションシーンや残酷なシーンが頻出して、心理的に怖い「サイコホラー」というよりは、スプラッター的なホラーといった趣が強くなっていて、「羊たちの沈黙」のファンとしては物足りませんでした。

ハンニバル〈上〉 (新潮文庫)
トマス ハリス
新潮社


ハンニバル〈下〉 (新潮文庫)
トマス ハリス
新潮社
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古田足日著・田端精一イラスト「おしいれのぼうけん」

2016-04-28 08:09:37 | 作品論
 日本の物語絵本のロングセラーです。
 初版は1974年で、私が読んだのは2001年の158刷です。
 見開きに描かれた保育園の全景に、「ここは さくらほいくえんです。さくらほいくえんには、こわいものが ふたつ あります。」という文章で、おはなしは始まります。
 次の見開きには、左に押入れの絵があって「ひとつは おしいれで、」の文章が書かれ、右には「もう ひとつは、ねずみばあさんです。」の文章とねずみばあさんの絵があります。
 ラストは、みんなが楽しく遊んでいる保育園の全景が描かれて、以下の文章が書かれています。
「さくらほいくえんには、とても たのしいものが ふたつあります。ひとつは おしいれで、もうひとつは ねずみばあさんです。」
 「こわいもの」から「とても たのしいもの」への変化が、読者が素直に実感できるところが、この絵本のもっともすぐれた点でしょう(もちろん、それが作者たちのねらいなのですが)。
 体罰として閉じ込められる真っ暗な押入れ。
 水野先生が演じる恐怖のねずみばあさん。
 それらが合体して、二人の男の子たちを冒険の世界へ誘います。
 暗闇という原初的な恐怖が生んだ意識と無意識の世界(「かいじゅうたちのいるところ」の記事を参照してください。)、現実と空想の境を超越して、二人の冒険の世界が広がります。
 男の子たちの友情、ねずみばあさんの恐怖、ネズミたちとの戦い、子どもたちの大好きなおもちゃの活躍、「子どもの論理」の「大人の論理(体罰など)」への完全勝利、楽しい思い出の反芻など、子ども読者の立場からはほぼ完ぺきな絵本だと思われます。
また、児童文学者の安藤美紀夫は、「日本語と「幼年童話」」(その記事を参照してください)という論文で、「物語絵本」の成立要件として、以下のように述べています。
「その時、まず考えられることは、長編の構想である。物語絵本は、そこに文字があろうとなかろうと、少なくとも二十場面前後の<絵になる場面>が必要なことはいうまでもない。そして、<絵になる場面>を二十近く、あるいはそれ以上用意できる物語といえば、いきおい、起承転結のはっきりした、ある種の山場を伴う物語にならざるを得ない。たとえそれが<行って帰る>といった一見単純な物語であっても、である。」
 この作品は、安藤の定義する「物語絵本」の成立要件を、完全に満たしています(もしかすると、安藤が1983年に論文を書いた時には、この作品が念頭にあったのかもしれません)。
 最後に、この作品の歴史的および現時点での価値とは無関係なのですが、「押入れに閉じ込める」という設定自体が体罰あるいは虐待と受け取られて、現在の保育園を舞台にした場合には成立しにくいかもしれません(もちろん、作者たちは体罰を明確に否定していますが)。
 古田足日先生は2014年にお亡くなりになりました。先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

おしいれのぼうけん (絵本ぼくたちこどもだ 1)
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童心社

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4月27日(水)のつぶやき

2016-04-28 07:59:16 | ツイッター

「砂田弘「変革の文学から自衛の文学へ」日本児童文学1975年11月号所収」 goo.gl/k99rre


「倉本 采「おいで、ラック!」あける27号所収」 goo.gl/tQApXC


「三枝ひかる「ほおずき」あける27号所収」 goo.gl/pUDjTk


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三枝ひかる「ほおずき」あける27号所収

2016-04-27 17:43:13 | 同人誌
 離婚話が持ち上がって実家に戻ってきた叔母さんとその子どもたち(兄妹)と、主人公の少年と祖母との交流を描いています。
 いつの時代でも、大人たちの問題は、子どもたちにも大きな影響を及ぼします。
 安易な解決を求めずに、大人たちと子どもたちとの共棲をていねいに描いていけば、もっと今日的な意義を持った作品になるでしょう。

ふたりのロッテ (岩波少年文庫)
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岩波書店
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4月22日(金)のつぶやき

2016-04-27 17:42:42 | ツイッター

「マージョリー・ワインマン・シャーマット「野の花」ソフィーとガッシー いつもいっしょに所収」 goo.gl/MRUF9h


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倉本 采「おいで、ラック!」あける27号所収

2016-04-27 11:27:38 | 同人誌
 先天性内反足で右足が不自由な四年生の男の子が、リハビリのために飼いはじめたミニュチュアダックスの子犬をめぐって、いろいろな体験をする話です。
 限られた紙数の中にいろいろな素材が持ち込まれているのでやや未消化ですし、大人目線の教訓臭さがぬぐえない点は残っていますが、もっと書き込んでいけば十分に一冊の本にできると思います。
 先天性内反足のよる尖足とそのリハビリ、八人制サッカー(2011年から日本でも導入されたU12世代(主に小学生)向けのサッカー)、にせブリーダー問題、動物虐待、動物愛護、子犬の病気など、今日的で興味深い問題がたくさん扱われていて、現在の日本の児童文学に決定的に欠けている社会性を持った作品です。

小学生の8人制サッカー最強の戦術 (コツがわかる本!)
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メイツ出版
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砂田弘「変革の文学から自衛の文学へ」日本児童文学1975年11月号所収

2016-04-27 08:37:02 | 参考文献
 「現代児童文学論集4」にも再録されている評論です。
 児童文学の評論には珍しく、社会情勢の変化に伴う児童文学の変化を論じているので、その後のいろいろな評論や論文に引用されています。
 1953年6月に早大童話会が発表したいわゆる「少年文学宣言」(正しくは「少年文学の旗の下に」、その記事を参照してください)は、明確に「変革の文学」を志向していたとし、その影響下で1950年代から1960年代に発表された多くの作品はこの「変革の文学」の範疇に入るとしています。
 それら社会的視野に立つ作品として、、「少年文学宣言」のメンバーであった山中恒の「赤毛のポチ」を筆頭に、「もんぺの子」同人の共同執筆の「山が泣いている」、松谷みよ子の「龍の子太郎」、国分一太郎も「鉄の町の少年」、住井すゑの「夜あけ朝あけ」などをあげています。
 また、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」、「ながいながいペンギンの話」、今江祥智の「山のむこうは青い海だった」、柴田道子の「谷間の底から」、神沢利子の「ちびっこカムのぼうけん」なども、「変革の論理」の路線に含まれているとしています。
 砂田は、これらの作品の共通理念は「子どもを通しての人間の未来に対する限りない信頼感」だと述べています。
 そして、これらの作品の執筆時期は1950年代で、社会主義リアリズムが志向されていた背景があったことを指摘しています。
 つまり、その時代の「”敵”は、アメリカ帝国主義と復活しつつある日本独占資本主義であり、その”敵”に子どもを含む労働者・農民階級を対置させ、子どもの成長を描くことによって変革の必然性を語る」というのが、創作方法であったとしています。
 そのころに、「最終的にめざしたものがソビエト型社会主義であった」とも述べています。
 それが、1960年代になって変質を遂げた原因には、スターリン批判による社会主義神話の崩壊、六十年安保の挫折、日本の高度成長による中間階層の増大、児童文学がビジネスとして成り立つようになったことによる出版社や作家たちの資本主義化などを挙げています。
 そして、1970年代になると、「変革の意志」をもった作品は完全に姿をひそめ、現状を批判するだけだったり過去を回帰したりするなどの、「これ以上悪くなってはならぬ」という「自衛の思想」の作品が目立つようになっていると批判しています。
 そんな中で依然として「変革の論理」を持つ作品として、古田足日の「ぼくらは機関車太陽号」、後藤竜二の「算数病院事件」をあげて、肯定的に評価しています。
 1950年代から1970年代という二十年以上にわたる期間を短い紙数でまとめているので、駆け足になった感は否めませんが、作品や作家の姿勢の変化を社会情勢の変化を背景に概観していて非常に参考になりました。
 特に、1950年代から1960年代への変化の背景は、砂田自身も当事者であるせいかリアリティがあり、うなずけるものが多かったです。
 それに比較すると、1960年代から1970年代への変化の背景については、七十年安保をめぐる学生運動や市民運動などの動きや挫折に触れておらず、それらの児童文学への影響について述べられていないので不満が残りました。
 また、砂田は明確に当時の革新勢力側の立場にたって書いているので、研究論文としてみれば(もちろんこれは評論で研究論文ではないのですが)としては、客観性に欠けている部分もあります。
 しかし、この評論は、私が特に深く考察したいと思っている「狭義の現代児童文学(1950年代から1990年代初頭まで)と社会との関係」にアプローチが近く、良い点も悪い点も含めて多くの示唆が得られました。
 
多様化の時代に (現代児童文学論集)
クリエーター情報なし
日本図書センター
 
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4月26日(火)のつぶやき

2016-04-27 08:18:38 | ツイッター

「浅野弘毅「希望の消滅」うつ病論 双極?型障害とその周辺所収」 goo.gl/LWJtY0


「荒木せいお「高速道路の神様」あける27号所収」 goo.gl/8Rmnzz


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荒木せいお「高速道路の神様」あける27号所収

2016-04-26 11:56:46 | 同人誌
 ひと月前にとうさんが家を出てしまい、告白した男の子にもふられてしまった、六年生の女の子の話です。
 いろいろなことに傷ついた主人公は、雪で封鎖された高速道路で、自転車に乗った神様(?)と出会ったことをきっかけに立ち直っていきます。
 思春期前期の女の子の繊細な心の動きを、ビビッドに描き出しています。
 良くも悪くも「文学的」な作品なので、現在の主人公と同年代の女の子たちに共感を持って読んでもらえるかは微妙なところです。
 かつて、今は亡き安藤美紀夫は「児童文学とは、アクションとダイアローグの文学である」と定義していました(関連する他の記事を参照してください)が、この作品の半分ぐらいは主人公の「モノローグ」で書かれています。
 このような小説的技法で描かれた児童文学は、1980年代から1990年代初頭にかけてはよく出版されていましたが、今ではその存在は希少になっています。
 この作品に限らず、作者の短編は、よく「玄人好み」と評されるのですが、この「玄人」には作家、評論家だけでなく、いわゆる児童文学の媒介者(子どもたちに本を手渡す大人のことで、編集者、学校の教師、図書館の司書、書店員、読み聞かせのボランティア、両親、祖父母などです)も含まれます。
 現在は媒介者の多くが女性になり、また児童文学の読者も子どもたちだけでなくより広範な女性たちが対象になっています。
 そのため、こうした媒介者の目に留まって、出版される機会は十分にあると思われます。

プールのジョン (牛ライブラリー)
クリエーター情報なし
牛の会
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