現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

小沢正「ファンタジーの死滅」日本児童文学1966年5月号所収

2023-12-30 09:35:06 | 参考文献

「目をさませトラゴロウ」で有名なナンセンスファンタジーの名手の著者が、児童文学研究者の石井直人が「戦後児童文学の批評における最大の書物」と評する石井桃子たちの「子どもと文学」(私自身も、高校時代にこの本を読んで児童文学を志すきっかけになりました)のファンタジー論を批判した論文です。
 「現代児童文学論集3 深化と見直しのなかで」にも収められていますので、バックナンバーを探さずに読むことができます。
 著者は、冒頭でファンタジーについて以下のように仮に規定しています。
「童話の中では、現実には起こりえない事象、または自然の法則反する事象、たとえば、トラがバターに変わるといった事象(注:「「子どもと文学」で普遍的な価値を持つ作品の例としてあげた「ちびくろサンボ」のことをさしています)が、しばしば起る。そのような事象をひとまず<ファンタジー>と名附け、そのような事象の起こり得る世界を<ファンタジー世界>と呼ぶとして、<後略>」>
 そして、「子どもと文学」でのファンタジーの発生の文章を引用した上で、著者は<子ども>について以下のように定義しています。
「<前略>子どもは、たとえば形而下的には<学校>に象徴され、形而上的には<童心の世界>として表現されるような、子ども独自の空間と時間の中に、いわば閉じ込められ、一切の物質的手段をおとなたちから与えられ、また貸し与えられて生きる存在となる。」
 そして、「子どもと文学」の主張は、以下のような技術論に限定されていると批判しています。
「「子どもと文学」の功績とは、結局のところ、ファンタジーの中からそのような<貸与物>としての痕跡を消し去る技法についての考察をめぐらした点にあるのではないだろうか。」
 著者は、子どもたちの目を、現実的な状況に向かって開かせるべきときが来ているように思われると述べています。
 そのためには、ファンタジー作品が「自からのファンタジー性について告白するための方法を考え始めなければならないのだ。」と主張しています。
 自作の「一つが二つ」(「目をさませトラゴロウ」所収、その記事を参照してください)を例にあげて、増やすべきものを持っていないトラがいる限りにおいては、「<一つのものを二つにする機械>のファンタジー性は、ついに<二つのものを一つにする機械>というファンタジー以外の何物でもない存在を生みださずにおかないのだ。」と、述べています。
 ここでは、我々の世界に持つ者と持たざる者が存在する限りにおいては、<一つのものを二つにする機械>のような「ファンタジー世界」は、自らの「ファンタジー性」を告白しなければならないという以下のような著者の主張が込められています。
 「機械のファンタジー性をあばくことによって、トラ(注:子どもたちも含めた我々を象徴していると思われます)の不完全性なり、トラの生きる世界の未完成性なりをよりいっそう証かすことも可能な筈なのだ。」
 最後に、やや長くなりますが、この論文の結論を引用します。
「そして今のところ、ぼくたちがそれらについて書き得ないとしても、少なくともこれらを書き得ないということについては、表現できるのではないだろうか。
 言うまでもなくそれは、堅牢に組立てられたファンタジー世界の土台をゆるがさずにはおかないだろう。だが、それをゆるがすものは、<外の世界からのすきま風>などではなく、ファンタジー世界の中に不意とふき起る烈風によってであろう。
 そして、その烈風は何よりもファンタジー世界の住民たちによって起こされなければならないのであり、そのためにぼくたちは、彼らの目を、<ファンタジー存在>として自からの不完全性に、そしてまた、自からを<ファンタジー存在>たらしめている世界の未完成な姿に向って開かせ、その両者を死滅させる方法について思いめぐらせはじめなければならないのだ。」
 著者のこの「子どもと文学」への批判は、背景に「少年文学宣言」(その記事を参照してください)のグループ(著者も早稲田大学在学時に少年文学会のメンバーでした)の創作理論があります。
 特に、その中でも「変革の意志(世の中を変えていこうという思い)」は、この論文が書かれた1960年代半ばには70年安保の挫折の前なのでまだ破たんしていませんでした。
 著者の主張は、「子どもと文学」が技術論(「おもしろく、はっきりわかりやすく」)に傾きすぎていて、作家の主体性や思想性が欠けていることへの批判です。
 タイトルの「ファンタジーの死滅」という反語的表現には、この「子どもと文学」のファンタジー論を乗り越えてパターン化しないファンタジーを創造していこうという著者の願いが託されています。
 同様の批判は、「子どもと文学」が出てすぐの1960年に、同じく「少年文学宣言」グループの神宮輝夫からも「新しいステロタイプになる恐れがある」となされていました。
 それから六十年近くが経過した現在、小沢や神宮の危惧はまさに的中し、作家性や思想性のない「おもしろく、はっきりわかりやすい」安直なファンタジー(リアリズム作品さえも)が、児童文学界にはあふれています。


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