南京大虐殺

2008-11-23 20:37:33 | Weblog
日中戦争は、満州事変とは比較にならない本格的な戦争であった。日本は1937年(昭和12年)12月の南京占領までの第一段作戦において、陸軍は戦時編成の16箇師団を中国戦線に送り、海軍は第2、第3艦隊と航空隊の主力を使用し、1万8千の戦死者と5万2千の負傷者を出した。(遠山茂樹他著「昭和史」岩波書店) 近衛内閣は「八紘一宇」などをスローガンに掲げ、侵略を正当化した。【「八紘一宇」とは「世界を一つの家とすること。第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。」(大辞林)】 天皇が家父長で、周りの国々の人々は下僕として仕えることか? 国民には勤労奉仕や節約を強制した。パーマネントをやめさせ、国民服やモンペ姿を男女の制服・日の丸弁当をおしつけたりした。 そのような生活全体が戦争一色の時代である。南京陥落後、南京で何が起こったか?昨日の続きを書こう。 「今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、なき戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置についた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑なシナ家屋を一々さがして、男は全部調べた。大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服(普段着)と着替えつつあるところを第二小隊の連絡係前原伍長らが見つけた。それというので飛び込んで見ると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。傍らには小銃、拳銃、青龍刀など兵器が山ほど積んであるではないか。軍服のままの者もあれば、早くもシナ服に着替えている者もあり、また、下に軍服を着て、上にシナ服をまとっている者もあるが、いずれも時候はずれのものや不釣合いの物を着ているので、にわかごしらえである事が一目で解った。 片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下がっている電線で引くくり、数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめとして気の立っている者どもは、木の枝や電線で力任せにしばき付けながら「きさま達のために俺たちはこんなに苦労しているのだ、エイ」ピシャン「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲となっているのか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。「貴様らのためにどんなに多くの国民が泣いているのか知れんのだぞ」エイ、ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、ポン「こらこの餓鬼もだ」ポン、素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも三百人くらいはいる、ちょっと多すぎて始末に困った。 しばらくして委員会の腕章をつけたシナ人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの大きな建物を指して「多々的有」と答える。その家に入ってみるといっぱいの避難民だ。その中から怪しそうな者一千名ばかり選び出して一室にいれ、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選び出して最後に三百人くらいの奴を縛った。金を出して命乞いをする者もあったが、金に欲のない我々は十円札、三枚五枚と重ねたままピリッピリッと引き裂きポイッと投げる。また時計など出すのがあれば、平気で大地に投げつけ靴のかかとで踏みつけて知らん顔している。 夕闇の迫るころ、六百人近くの敗残兵の大群を引き立て、玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった。(増田六助「南京城内掃蕩の巻」『増田手記』)」 にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
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