核・戦争のない世界!!

2024-05-31 10:29:08 | Weblog
 
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 

 
南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈


 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)



 
731部隊展




 原爆    
 
今も傷む背中の傷 目をそらさないで聞いて 原爆を背負って(1)


被爆者がいない時代に ~再掲に寄せて~
 その自負の裏で、廃絶まで導けなかったことへの焦りも強めていた。米ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約再検討会議でスピーチした10年も、80年代に肌で感じた反核運動の熱気には及ばなかった、と残念そうだった。17年、核兵器禁止条約の採択を受けて、亡くなる直前に病床から寄せたビデオメッセージではこんな不安を漏らしている。

「被爆者が一人もいなくなった時に、どんな形になるのかが一番怖い」
 
 
日航123便の怪(1985年8月12日)


 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
戦争と文化
 

この大戦の結果ラジオに、飛行機に、その他多くの驚くべき兵器の発達と共に、平和時に使用せらるべき機械、器具等々科学の長足の進歩を促したことは縷縷すべき必要もないくらいである。吾日本も日清・日露の役は通ってきたが、それでも尚欧州大戦前迄は自然科学、人文科学の両方面ともに、殆ど総て欧米依存の状態であったことは否むことが出来なかったが、一朝欧州の大事変に遭遇して茲に科学の独立を為さざるべからざる運命に立ち至ったのである。

 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 
犬養は首相になるや、直ちに日本が2ヵ年にわたり固持してきた金本位制を終わらせた。
1920年代の大半を通じて、商品や貸付資本の自由な流れは、この金本位制に基づいてきた。この行動をもって日本は国際的な信用を損なう排他的で保護主義的な景気回復政策を追求し始めたイギリスや他の列強の列に加わったのである。犬養は天皇に天津に2個大隊、満州に1個旅団増派の裁可を求めた。天津では12月初旬以来、錦州の地上攻撃のため関東軍が兵力を集結させていた。12月23日、天皇は、当時、外務大臣を兼ねていた犬養に、「錦州不攻撃の方針」と「国際間の信義を尊重すべき」ことを指示したが、関東軍は錦州に進駐した。
 
 
 
 

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