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731=国家犯罪!!

2016-10-08 07:46:57 | Weblog

・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・パネル展



瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!幽霊が出る!!
最先端の技術を日本は持ったわけですね。人体実験やるわけですから。それを米軍が引き継いだと。それから細菌戦の恐怖というのは今もって続いているわけでして9.11の後に炭疽菌の騒ぎがありましたね。これも石井部隊研究してたわけですからね。それからもう1つは薬害エイズで話題になったミドリ十字というのはこの石井部隊の部下たちが作った会社。つまり今につながっているんですね。いろんな話が!!

石井隊長の戦後4 




<群馬大病院>二つの外科、手術数競う 死亡事故調査委


筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ


「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。

薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体


イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!


子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ



以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



日本の医学者の多くは原爆症患者を救うよりも、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!

ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)


ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した[3]。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。 ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった[4]。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。



予研と731の関係
小林六造(防疫研究室嘱託)   初代国立予防衛生研究所所長
小島三郎(防疫研究室嘱託)  2代目国立予防衛生研究所所長
北岡正見(栄1644部隊)   4代目国立予防衛生研究所副所長
柳沢謙(防疫研究室嘱託)    5代目国立予防衛生研究所所長
福見秀雄(防疫研究室嘱託)  6代目国立予防衛生研究所所長
村田良介(中支那防疫給水部) 7代目国立予防衛生研究所所長
宍戸亮(防疫研究室嘱託) 8代目国立予防衛生研究所所長
江島真平(赤痢班長)      国立予防衛生研究所血清学部
朝比奈正次郎(昆虫)       国立予防衛生研究所衛生昆虫部長
八木沢行正(植物学研究班)    国立予防衛生研究所
堀口鉄夫(731部隊)      国立予防衛生研究所



ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

第2章  原子力ムラの源流

学者集団と原子力産業の接近

物理化学地学科会委員だった菊池正士は、原子力委員会参与をへて、1959 年には日本原子力研究所理事長に就任した。同じ物理化学地学科会委員を務めた嵯峨根遼吉は、原子力委員会参与となり、その後、日本原子力研究所副理事長、日本原子力発電株式会社副社長などを務めた。1957年9月に第1回の会合が開催された放射線審議会には、文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会医学科会委員だった都築正男と物理化学地学科会委員だった木村健二郎が会長と会長代理となり、中泉も、医学科会委員だった筧弘毅らとともに、委員として名を列ねた。


放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書



開示された文書「何で黒塗り?」








・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!!

<国連>「核廃絶」決議採択 保有国は反対、日本は棄権




潜在的核保有国化を目指す日本は、「核廃絶」決議を棄権!!
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!

◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直

アメリカ軍もそのことは熟知していた。それがこの史料からわかる。だからGHQの判断を飛び越えて、アメリカ本国の判断で、理研と阪大のサイクロトロンは破壊されたのである。朝永振一郎をはじめ「ニ」号研究に携わった多くの関係者が、仁科はより大型のサイクロトロンをつくることには熱心であっても、できたサイクロトロンを使って「生物の世界を支配する自然法則を発見」するための研究を行うことにはさほど熱心でなかったと証言していることは、そのことを裏付けている[★6]。



湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。
ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。

※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。


※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!


原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)





全文は、「731からフクシマまで!!」で!!

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