核・戦争のない世界!!

2024-07-21 11:27:59 | Weblog
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 

南京大虐殺 
 
南京大虐殺(マギーフィルム) パネー号撃沈
     





 
 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

             

 



 原爆    
 

 
 
 
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原爆が使用されたのはなぜ?

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日航123便の怪(1985年8月12日)
 
     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか? 精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年) 本所職制改正 この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。 *特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
 
梅毒に関する硏究
その方法は家兎に於ける動物実験上に於ける所見を土台としたものであって、Pallidumに異種があると迄は言うてはおらぬが、米国株と支那株とに於いては臨床上に相当特徴あることを認めている。その行き方が普通と可なり相違し、如何にも米国流の研究の仕振りで、大がかりな点も注目すべきことだと思う。北京に於いて得た2株は米国に於ける既知のNichols &Zinsser-Hopkinsとを用い、この4系を同時に夫々米国、支那に送付して同時に実験を為して、その所見を比較していることである。Rockefeller硏究所と北京協和医学校とに於ける気候、風土の影響を考慮した為であろう。又病毒を遠くに輸送することによる影響も考慮を払った為であることは申す迄もない。この種の実験的方法は何処でも。又誰にでも行い得ると言う事柄ではない。而も実験的梅毒は夏期に却々によい得られないで春が最も強く現れることは周知の事であって、気温、風土に却々に関係があるから、この種の研究方法は出来る事なら、実施して見たい事柄である。
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より) 吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変

天皇や側近が、陸軍の大陸政策に代案を示すことで連盟脱退を回避しようとしたことを示す文書は存在しない。陸軍の勇敢な行為に陶酔した民衆の反応に影響され、あるいは天皇は賭けに出ることを決意したのかもしれない。外交的孤立を招くことはほとんど、あるいはまったく問題とされることなく、彼は内閣の決定を承認した。手に負えなくなった陸軍と良い関係を維持することは、当時の天皇にとって国際親善よりも重要だった。彼には、国際的な孤立が内閣と軍部との間の内部的、構造的な亀裂を修復する手段にはならないことがわかっていなかった。天皇が大元帥の大権を行使すればするほど、その亀裂は広がるばかりだったのである。

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




























 





























































































































































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