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遺棄毒ガス訴訟!!

2009-10-22 09:17:37 | Weblog
日本軍は中国に敗戦直後大量の毒ガス弾を遺棄して撤退した。
最近、その遺棄された毒ガス弾が、都市の再開発で工事現場などから出てきて、多くの中国市民を苦しめている。日本軍の罪業はまだまだ続いている。日本政府はこの問題に関してほとんど無視し続けている!!国側弁護士の態度にもあきれ返る!!

 その中国の被害者が日本で裁判を起こし、闘っている。


 以下は裁判を傍聴した方の報告です。(メールで着ていたので勝手に転載させていただきました。あしからず)。

倉橋です。
 昨日東京地裁で、チチハルの毒ガス被害裁判の傍聴に参加しました。
 実に多くのことを感じた1日で、皆さんの熱気に元気をもらいました。
 70名あまりの参加で、若いかたも多かったです。

午前11時から、原告被害者の楊樹茂さん(45歳)に、富永弁護士の質問が続きました。

 楊さんは(父が元地主であったため)、子どもの頃文革で迫害され、貧しい生活に耐えてきました。職を転々としながら、次第に豊かになり、ひまわりの種を精選販売する会社を設立、どこよりもいい物を販売し、大きく発展したところでした。

 2003年8月4日、自宅の庭用にトラック5台分の土を買い、11日に整地作業をしたため、両足に水泡ができ、やがて203病院に入院、3ヵ月後に治らなくとも退院となりました。
 体に無理して、200キロのひまわりの種を精選、得意先40軒の店などに出向きましたが、感染を恐れ一つも売れませんでした。

以来、会社はつぶれ、だるい体で働けず、イライラ(悶胸・胸が苦しい)で、家族との仲が壊れ、薬代で借金がかさみ、年取った父親までがゴミ拾いでわずかな金をかせぐようになった。
(このとき、思い余って楊さんは泣かれました)

最後に、もう、生きていたくないが、家族のために死ねない。なんとか、医療費が出ないだろうか。

公正な裁判を望む、との言葉でした。

楊さんへの尋問が終ったとたん、ベテランの小野寺弁護士がいきなり立ち上がり、大声で向かい側の国側弁護団の一人に向かって言われました。

「以前からあなたについては傍聴人から苦情が出ていた。
 原告の話をまともに聞こうという姿勢はなく、居眠りをしている。
今日もまた、○時○分から○分まで、さらに、2回、居眠りをしていたのを確認した。目の前で原告が泣いているのに、なんたる態度だ。

 被害者の苦しみを真摯に受け止めてほしい。

新政権は弱者にやさしくすると言っているが、あなたはその国が指定した代理人なのだから、まともな態度を取りなさい!」

見事な一撃を、裁判官も会場も固唾を飲んで見守り、言われた人はたじたじとなり、一言もありませんでした。

午後1時20分から2時間ほど、今度は原告らを検診した橘田亜由美医師に対し、佐藤弁護士が証人尋問をおこないました。
(神経内科とは、神経の機能や器質の異常を対象とする科であり、毒ガス被害者に対し、神経内科からの検証は世界で初めてとのことです。)

橘田医師は、当初は皮膚の糜爛(びらん)がある周辺に神経痛がおこるのではと思っていたが、そうではなく、神経全体にまで、末梢神経から大脳に至るまでえいきょうしていることがわかった、と証言されました。

 感覚障害、運動障害、自律神経障害自覚症状、高次機能障害など、いくつもの分野についての、テストなどをもとに、証言されました。

膨大な資料に対し、国側代理人の質問は実に瑣末なことばかりでした。

また、小野寺弁護士から注意を受けた人は、今度は起きていたようです。

最後に、福井さんという若者がチチハルまで出かけて、被害女性の、う・景芝さんの日常生活を撮影した記録を大きなスクリーンで見ました。

 一日中咳に苦しめられ、寝ているだけの生活。彼女の薬代のために、息子は1年出稼ぎに行き、5部屋のうち3部屋を売っても、まだ足りない。
暗がりにたたずむ夫のやせた横顔が映し出されました。
彼女も、生きていたくないとつぶやきました。

法廷は4時に終了、そのあと皆で熱気ある報告集会をやり、1日が暮れました。
今日の尋問のために奮闘された弁護士さんたち、橘田医師、福井さん、そしてぎっくり腰を押して司会もされた大谷さん初め、支援会のスタッフの方々、本当にお疲れ様でした。

次回は11月16日、3人の原告が来日されます。11時より103法廷。

どうか一人でも多くのかたが傍聴されますように。

(大久野島の藤本さんはみえませんでしたが、病状悪化でしょうか。心配です。)
 
以上

(参考ホームページ)

516部隊

大久野島(毒ガス島)

化学兵器CAREみらい基金ブログ

中国人戦争被害者の要求を支える会 
  
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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-10-22 08:04:44 | Weblog

「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!

「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)


※731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
 また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万(最大の見積もり)である。
 日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!(ノブ)

.
●戦後日本・・・「外国のジャーナリストたちに向かって証拠資料を用いて話すと、彼らはほとんど決まって、なぜ日本政府は731部隊の存在とその蛮行を認めないのか、と筆者にただしてくる。それは筆者自身にとっての疑問でもあるが、多くの場合、次のように答えてきた。敗戦直後、日米合同で731部隊隠しが行われたことが最大の原因である、と。それによって日本は、人体実験や生物兵器使用の事実を歴史の表舞台から下ろすことができた。他方アメリカは、石井のネットワークでの人体実験によるデータを独占することができた。この日米の密約が1986年には破綻したことは第一章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
 日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のための大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行っていた。それゆえ本来なら決して行わない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
 国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。
 こんなことを思い始めたのは、昨今の戦時補償問題が一向に進まないという現実からだ。・・・・」
(『731部隊』常石敬一著:講談社現代新書:1995年)

※731部隊と天皇
 日本は日中戦争の始まる前から、戦争に勝つための最新兵器の開発に取り組んでいた。
資源と資金に乏しい日本は、安くできる強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 そこに現れたのが石井四郎であった。彼の説く細菌兵器(生物兵器)に軍部・天皇が耳を傾け、そして天皇の認可の下、それを実行に移した。中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったのか?
  戦後731部隊幹部はアメリカと密約し、731部隊員の戦犯免責と引き換えに人体実験で得た研究成果をわずかなお金でアメリカに売り渡した。
 なぜ、アメリカは人道に反する生体実験をしていた731部隊員の戦犯免責をしたのかが疑問に残る。その答えは、天皇の戦争犯罪の免責ではなかったのか?
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。アメリカは人体実験のデータが表ざたになると、そのデータをアメリカが独占できなくなると判断し、以前から水面下で交渉していた陸軍参謀の服部卓四郎や政治家の亀井貫一郎のグループに石井らの戦犯免責と引き換えに、731の詳細なデータを金で買うことを伝え実行した。
 そのため、731の戦犯追及をしていた占領軍の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 マッカーサーは日本占領に当たり、昭和天皇の力をうまく利用して日本を統治しようとした。
 そのため、天皇を戦犯からはずすためにも、アメリカは731部隊には触れたくなかったのではないか?
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
 現在の日本政府の731部隊の細菌戦や人体実験の実行についての見解は、私には分からない。(ただ今問い合わせ中)(ノブ)

●参考ホームページ

天皇・マッカーサー会談

・731部隊のことを知っていた皇族

秩父宮

三笠宮

東久邇宮

・731部隊に係わっていた皇族

竹田宮

●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年に満州に渡る、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。

731部隊
『日の丸は紅い泪に』
(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅶ ああ いさましや
強制堕胎と憲兵逃亡の意味
 終戦、いや敗戦らしいということは、私は3ヶ月ほど前からわかっていた。南方へ派遣された者が帰ってきて話すことが、大本営の報道とあまりに違っていたからだ。
 そして私自身も「やはりダメなのか」と実感したことがいろいろあった。その1つに、妊娠3ヶ月ほどの女性をすべて診療室へ呼び出し、婦人科医の手で強制的に堕胎させたことである。どうしても産みたいと渋る女性には、婦人会の幹部が、連日入れ替わり立ちかわり押しかけ、おろすことを強制した。私も、泣いて産みたいと訴える若い女性の姿を見たが、その訴えは受け入れられなかったようだ。
 ついで1ヶ月前、憲兵伍長が逃亡するという事件が起きた。第731部隊には曹長、軍曹、伍長と3人の憲兵がいた。その憲兵は大変な遊び人で、明らかに梅毒症状だとわかる斑点が頬に出ていた。彼らは普段、支那服のような私服を着て行動しており、かつて立入禁止区域の道外の憲兵を勤めていたので、街のすみずみまで熟知していたので、遊ぶ場所を心得ていた。よく特別車で女の所へ乗りつけたこともあった。もちろん、マルタは積んでいないが、特別車を運転して女街へ乗り込むのは気が引けたが、憲兵命令では仕方がなかった。
 道外は、治安おだやかならざるところで、それだけに一層庶民の心の動きや、秘密情報がピンピンとわかる所でもあった。おそらく、かの憲兵伍長は、日本軍の敗戦を予想し、このままだとソ連軍や八路軍にしょっぴかれて殺されてしまうと踏んで、いち早く逃亡したのだろうと思った。(明日に続く)

※妊娠3ヶ月の女性を全員堕胎させるとは何と残酷な話であろうか!大日本帝国は戦争に勝つことのみを考え、最初は女性に対して、「産めよ!増やせよ!」と号令をかけ、産んだからといって、特別手当を出すわけでもなく、成人したら、赤紙1枚で召集し、戦地へ送り出させた。国民は「出征!万歳!」とか「名誉の戦死」という言葉に翻弄された。
 今度は、負けるとわかると、堕胎せよだ!人権無視もはなはだしい!
この暗黒の時代、戦争の為政者は、自分のことしか考えておらず、国民は全く無視されていたことがよくわかる。(ノブ)


参考ホームページ

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8

南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

父や母の被害

朱玉昌(男、54歳)の証言

 1937年には、家は双塘朱家苑1号でした。12月15日、日本軍が南京を占領した時に、小行まで逃げて行ったり戻ったりし、後でまた沙洲囲まで逃げました。明くる日日本軍が焼いたり殺したりしに沙洲囲まで来たので、私たちはまた谷里村まで逃げました。その時父と祖父とが私たちをはぐれてしまいました。やがて、祖父と父とは私たちを探しに手探りして家に帰って来ました。家についてから、父が家屋の後ろの小高くなった所で見渡していたら、日本軍に見つかって、1発撃たれて傷つけられ、父が家に這い戻ったら、日本軍がまた我が家まで追ってきて、父の胸を猛烈に幾太刀か刺したので、父はその場で死亡しました。祖父の朱福宝は頭を日本軍に幾太刀か斬られて、昏倒してしまいました。小さい妹で、数ヶ月にしかなっていなかったのが、逃げ帰ってきた時に死亡しました。5歳の弟が、中華門の城門付近で、日本軍に殺害されました。(陳燕召が記録) 

※日本軍の掃蕩作戦が徹底的にされていたのではないか?一般の大人・子ども・老人まで無差別にされていた感がある。もちろん殺されなくても、逃亡生活で生まれたばかりの子が死ぬ場合もあるだろう。悲惨なことだと思う。(ノブ)

※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
   陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮から天皇に報告が入っていたはずである!!
(ノブ)

※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)

※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)

参考ホームページ

朝香宮


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない


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