これまでヘイ州のことをずっと書いてきたのは、ヘイ州出身者に好きな人物が多いからだw。
というわけで、ヘイ州をとりまく人物をいろいろ読んでいこうと思う。
トップバッターは張遼。まあ三国志をちょっと触れたら誰もが一度はお目にかかる感じだよね。
・張遼は字を文遠といい、雁門郡馬邑県の人である。
ふむふむ。馬邑…ホース・シティ!!
なんだかワクワクする名前だが、 干宝『捜神記』を引く『後漢書』に頼 . . . 本文を読む
その②[千千]州は匈奴の居住区だった。
匈奴…かつての北方の雄ともいえる騎馬民族だが、
後漢末にあっては南北に分裂し、南匈奴の人々は
漢化が進み、[千千]州内に多くが居住していた。
三国志内では、
187年、張純の反乱に対して、霊帝は匈奴の単于羌渠に出兵を命じる。
羌渠は拒むこともままならず、左賢王に騎兵を率いさせて劉虞の元に派遣する。
翌年、この派兵に反対した匈奴の一部が反乱を起こし羌渠は殺害 . . . 本文を読む
曹操によってポイされてしまう[千千]州…
いったいどういう情勢であったのかをよーく考えてみよう。
その①[千千]州は、常に鮮卑とのバトルに明け暮れていた。
鮮卑…北方騎馬民族のうち当時最も勢いのあった連中である。
ただ、いちおう留意しておくべきだが、
前漢の時代に冒頓単于という匈奴の大英雄が現れ、
北の大地を席巻した。
このとき、鮮卑の多くは匈奴に併呑されていった。
だが、この匈奴も南北に分裂 . . . 本文を読む
『獻帝建安二十年(215年)春,因胡羌侵擾,曹操“省雲中、定襄、五原、朔方郡”,
割太原郡北部置新興郡。五原郡人口被安置于太原郡陽曲縣故地,
即新興郡九原縣(在今山西忻州)。』
wikiより。
献帝の建安二十年春に、北方の異民族の侵入と掠奪を考慮し、曹操は雲中、定襄、五原、朔方郡を廃止し、
太原郡の北部を分割して新興郡を置いた。五原郡の人々の故地を太原郡陽曲県に移し、
新興郡九原県と改めた。
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