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Q:汝はどんな幼少時代を過ごしたのか?
A:私の生まれる前に、外交官の父は先妻との間に3人の子を、母上は父との結婚前に娘を産んでいました。両親は1歳の時に離婚し、私は母上と共にオスロ西部に帰還し、陸軍大尉の継父と共に暮らしました。継母と父(後に同僚と再婚)はその後、外務省内で出世しています。
両親は消極的でも労働党の支援者でした。義父は穏健右派でしたが、母上と継母はフェミ系統でした。
父は私の保護権を獲得しようと裁判しましたが、敗訴しました。それでも、私は父の下にも定期的に通いました。しかし、父は12の時新妻とも離縁された上に、私を含む4人の子供全てと絶縁しました。これは与否なく父の責任でしょう。私自身も13~16の頃は、噴青していましたが。
義父は好漢でしたが、退役後の今はタイでイアンフに囲まれる日々を送っています。ですが、私は義父のことは非難いたしません。総じてみると、私は恵まれた知的環境の下、順調に生育してきたといえます。4人の兄姉も基本的には保守系です。兄上の女友にはマルクス系の超フェミ娘がいますが。
Q:汝はどのような性格をしていると思うか?
A:楽観派で寛容な性格だと思います。私も多文化主義の伽藍の中で成長しましたから、人種主義者には成り得ません。名付け親はチリからの社会主義系亡命者でした。パキスタン、トルコ、エリトリア、チリ、パキスタン、ソマリア、コロンビア、インド人の友達もいます。
Q:汝は純ノルウェー人でない友人に恵まれておるな?
A:彼らの倫理律や矜持に魅かれたのです。彼らは危機から逃散する純ノルウェー人と異なり、例え不利な状況でも朋の危機に駆け付けてくれます。何より大事なのは矜持ですから。ムスリムの方がずっとこうした行為に敏感です。私は光頭系のロックも好きになれません。
Q:ムスリム噴青の問題が近年浮上しているが、汝の思春期におけるオスロ多文化街道での経験を聞かせて欲しい。
A:私は12歳以降、オスロ切ってのヒップホップ狂になりました。あの頃は落画(グラフィティ)を街に描きまくり、無慈悲であればあるほど賛美されたものです。オスロ市の反落画闘争で半年くらい収監される程に。あの頃はブリッツや人種主義SOS団といった極左組織までガタス会議といったヒップホップ組織をつくるほど、ヒップホップが流行していました。
実をいうと宗教への関心を惹起させたのはムスリムの友でした。和諧の宗教イスラムという教科書の内容は諧謔そのものでしたが、その友はノルウェーなどの西洋文化を信仰ゆえに嫌悪していました。湾岸戦争の時は、米兵が導弾の標的になる度に喝采していましたし。私はそれに反発して、文化身份に目覚め、キリスト教に改宗して同塵するよう言ったものですが。
しかし、あの頃の私は不逞ムスリム集団とも連携し、身を守ったものです。パキスタン系墳青の団体は当時から凶暴で、貧困なる東オスロから富裕なる西オスロまで遠征して、白人先住民の「じゃが芋イアンフ」たちから「ジズヤ」を徴収していました。彼らはマルクス主義者とも連携していたことを証言できます。
そんな噴青たちを左翼集団は称揚し、被害者をファッショ扱いしました。私は最強の偽善者たる彼ら「寛容の徒」の二重基準を目撃したのです。私も「じゃが芋」の一人でしたから。左翼集団はヒップホップの音階を略取し、「マルクス・ジハーディ青年」の一部にしてしまったのです。聞いた内、彼ら人種主義者たちの9割の標的は無防備な白人青年でした。私はこの風潮に直面して、「制度こそ我が病」と実感しました。
Q:汝もそうした風潮に参与したのか?
A:していません。ムスリム噴青と左翼集団は「治安同盟」を締結し、世上から同路してもらえる訳ですが、白人先住民が同様のことをすると、ナチ扱いされます。当時は知識不足で気付けませんでしたが、その実践作法をみて嫌悪しました。
ヒップホップから私が離れたのも、ヒップホップが彼らに略取されたからです。しかし、私の友人はその後もヒップホップから悪の道を奔りました。後で訣別しましたが。学業成績はそれでも良い方でした。
Q:その頃は右派集団とどんな関係にあったのか?
A:右派といえばメタル・ロックですが、私はそれが嫌いなのです。同級生に7人程度そうした人間がいましたが、彼らは国家社会主義者ではないただの目立ちたがりでした。彼らは遵法的な善人でした。パキスタン系の旧友とは衝突していましたが。
しかし、彼らは遵法していたのに、ヒップホップ系サヨクより人種主義などと殴光されていたのです。ヒップホップ系の方が反白人という意味でより人種的なのに、マスゴミは人種主義SOS団などヒップホップ集団の方を「寛容」と評します。そんな組織に国が補助金を与えるとは何という偽善でしょう。
それを見た私は、16歳の頃「反非西洋移民」の「反人種主義者」になりました。しかし、PC主義の戒律によれば、反非西洋移民即ち人種主義なので、その頃は沈黙していました。
ヒップホップに嵌まり切りの友と訣別してからは、純ノルウェー人系の噴青集団と交友しました。安全を提供してもらう同盟相手を変更したのです。北オスロの純ノルウェー人地区にモロッコ系の不逞集団がやってきた時は、宴会を打ち切って地下鉄駅に行き、ここでジズヤ作戦を展開するなとゲンメイしました。すると、自尊心と自衛心持つ者を畏敬する彼らはやって来なくなりました。
17~18歳の頃、治安が大きくカイゼンすると、激変が生じました。不逞ムスリムの友たちは落ちこぼれ、実技学校の方へ進学するようになりました。西オスロの名門校へ行けた者はごく少数でした。学業隔離が起きたのです。
白人先住民がムスリム蕃城から逃散するのは自然なことです。東オスロには既に全員ムスリムの蕃城地区が形成されてますから。15~16の頃、非ノルウェー人が多数の学校は1つか2つでしたが、当代では50近くの学校がそうなっています。私は17~18歳の時、奇蹟的にも一回たりとてムスリムに襲撃されませんでした。ムスリムによる人種主義が放任される当代を生きる新世代の皆さんは本当に大変でしょう。不逞ムスリムの討滅行為は基本的にスルーされますから。
15歳の時に白人先住民により人種的動機で殺害された[ガーナ系の]非白人がいます。4万の市民がその死に異を唱え、2002年、彼の名を冠して反人種主義のベンジャミン賞が創設されました。被害者が白人先住民で加害者がムスリムだった時、こうした賞が誕生しうるでしょうか?
8割の議員はムスリム蕃城とは無縁の場所で生育し、オスロに移住してもムスリムとは無縁の場所に居を構えます。彼らは不逞ムスリムの醜悪なる真名から無縁なのです。しかし、ムスリム蕃城と本格接触した新世代は、反移民の進歩党の方を支持することでしょう。他国でも同様の傾向が出る筈です。
多文化主義のテーゼにより、安寧だったオスロは紅世の破綻都市になってしまいました。私自身はムスリムに討滅されたことはありませんが、20人以上の知人が被害を受けています。ムスリムの凶暴度は国籍を問わず同程度です。確かにジハーディ系のムスリムはごく少数ですが、パキスタンでは一部タリバンが国を騒擾の大地に変えたではありませんか!ディミテュードの破綻社会こそ多文化主義の継続する限り存続する新現実の真名なのです。
以下に直截遭遇させられた事件を挙げていきましょう。
(具体例略)
私がこうした事件でどれだけ貢献したかを知りたいでしょうが、実を申しますと自ら暴力を振るったことはありません。暴力は無意味です。しかし、無意味にオスロ市内の行動範囲を自粛するのは拒否します。当局はムスリムと共学するよう促しますが、その結果固有の校風なき学校で悪玉系のムスリムが同級生を攻撃する機会を提供しているのです。政府はそれでも足りず、非イスラムの西オスロにムスリム用の集団住居を購入し、紅世化を進めています。
私は1968年革命世代の子息たるジェネレーションYの一員ですが、私の世代はディミテュードなイスラム多文化独裁の下に暮らす第一世代なのです。私はムスリム個人でなくイスラムの教義に矛先を向ける者です。彼らの討滅行為は飽く迄イスラムの教義によるものなのですから、教義を封絶せねばなりません。2020年までにどうかキリスト教に改宗して戴きたい。今の体制が継続すれば、新世代の白人先住民たちが我らの大義に参じるようになるでしょう。
Q:青年時の経験が汝の今のムスリム観の原点なのか?
A:直接ではないです。あの頃はイスラムについては学校での和諧的教義以外知りませんでしたし、イスラムや政治に関心を持ったのもムスリムの朋が発端でした。
Q:高校以降の汝の遍歴を述べよ。
A:ヒップホップから離れた後は進歩党の青年部に入りました。16~21歳の頃にはマルクス主義やイスラムを含む大思想を深く研究し、自由経済派の文化保守になりました。個光主義(リバータリアニズム)には大いに啓発されましたが、個光主義の自己チューが跋扈しては世上が衰滅してしまうと結論しました。個光主義は伝統主義的な文化身份とは決して共存できません。党活動には積極的に参与しましたが、民主闘争では変革不能と判断し、離党しました。
高校では経済学に燃え、熱心に勉強して1年早く科目を修了しました。その後は非公式な手段も用いて「起業活動」に関係ない科目を圧縮し、小企業運営等を勉強しました。その後は義挙のための資金を貯めるべく、PC主義の伽藍の中にある大学を修了することは止めて、各種企業活動を行いました。
(中略)
ジャスティシア・ナイトとなった翌年、進歩党からオスロ市議会に出馬しないかと連絡されました。もう少しで出馬できるところでしたが、党略上予選落ちしました。そのことを恨む気はありませんが、民主闘争を続ける進歩党への親和感は次第に薄れていきました。進歩党がPC主義のマスゴミに封絶されれば、より穏健な保守派が次に迫害されることでしょう。そうなれば、武装起義の時はより近づきます。
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Q:汝はどんな幼少時代を過ごしたのか?
A:私の生まれる前に、外交官の父は先妻との間に3人の子を、母上は父との結婚前に娘を産んでいました。両親は1歳の時に離婚し、私は母上と共にオスロ西部に帰還し、陸軍大尉の継父と共に暮らしました。継母と父(後に同僚と再婚)はその後、外務省内で出世しています。
両親は消極的でも労働党の支援者でした。義父は穏健右派でしたが、母上と継母はフェミ系統でした。
父は私の保護権を獲得しようと裁判しましたが、敗訴しました。それでも、私は父の下にも定期的に通いました。しかし、父は12の時新妻とも離縁された上に、私を含む4人の子供全てと絶縁しました。これは与否なく父の責任でしょう。私自身も13~16の頃は、噴青していましたが。
義父は好漢でしたが、退役後の今はタイでイアンフに囲まれる日々を送っています。ですが、私は義父のことは非難いたしません。総じてみると、私は恵まれた知的環境の下、順調に生育してきたといえます。4人の兄姉も基本的には保守系です。兄上の女友にはマルクス系の超フェミ娘がいますが。
Q:汝はどのような性格をしていると思うか?
A:楽観派で寛容な性格だと思います。私も多文化主義の伽藍の中で成長しましたから、人種主義者には成り得ません。名付け親はチリからの社会主義系亡命者でした。パキスタン、トルコ、エリトリア、チリ、パキスタン、ソマリア、コロンビア、インド人の友達もいます。
Q:汝は純ノルウェー人でない友人に恵まれておるな?
A:彼らの倫理律や矜持に魅かれたのです。彼らは危機から逃散する純ノルウェー人と異なり、例え不利な状況でも朋の危機に駆け付けてくれます。何より大事なのは矜持ですから。ムスリムの方がずっとこうした行為に敏感です。私は光頭系のロックも好きになれません。
Q:ムスリム噴青の問題が近年浮上しているが、汝の思春期におけるオスロ多文化街道での経験を聞かせて欲しい。
A:私は12歳以降、オスロ切ってのヒップホップ狂になりました。あの頃は落画(グラフィティ)を街に描きまくり、無慈悲であればあるほど賛美されたものです。オスロ市の反落画闘争で半年くらい収監される程に。あの頃はブリッツや人種主義SOS団といった極左組織までガタス会議といったヒップホップ組織をつくるほど、ヒップホップが流行していました。
実をいうと宗教への関心を惹起させたのはムスリムの友でした。和諧の宗教イスラムという教科書の内容は諧謔そのものでしたが、その友はノルウェーなどの西洋文化を信仰ゆえに嫌悪していました。湾岸戦争の時は、米兵が導弾の標的になる度に喝采していましたし。私はそれに反発して、文化身份に目覚め、キリスト教に改宗して同塵するよう言ったものですが。
しかし、あの頃の私は不逞ムスリム集団とも連携し、身を守ったものです。パキスタン系墳青の団体は当時から凶暴で、貧困なる東オスロから富裕なる西オスロまで遠征して、白人先住民の「じゃが芋イアンフ」たちから「ジズヤ」を徴収していました。彼らはマルクス主義者とも連携していたことを証言できます。
そんな噴青たちを左翼集団は称揚し、被害者をファッショ扱いしました。私は最強の偽善者たる彼ら「寛容の徒」の二重基準を目撃したのです。私も「じゃが芋」の一人でしたから。左翼集団はヒップホップの音階を略取し、「マルクス・ジハーディ青年」の一部にしてしまったのです。聞いた内、彼ら人種主義者たちの9割の標的は無防備な白人青年でした。私はこの風潮に直面して、「制度こそ我が病」と実感しました。
Q:汝もそうした風潮に参与したのか?
A:していません。ムスリム噴青と左翼集団は「治安同盟」を締結し、世上から同路してもらえる訳ですが、白人先住民が同様のことをすると、ナチ扱いされます。当時は知識不足で気付けませんでしたが、その実践作法をみて嫌悪しました。
ヒップホップから私が離れたのも、ヒップホップが彼らに略取されたからです。しかし、私の友人はその後もヒップホップから悪の道を奔りました。後で訣別しましたが。学業成績はそれでも良い方でした。
Q:その頃は右派集団とどんな関係にあったのか?
A:右派といえばメタル・ロックですが、私はそれが嫌いなのです。同級生に7人程度そうした人間がいましたが、彼らは国家社会主義者ではないただの目立ちたがりでした。彼らは遵法的な善人でした。パキスタン系の旧友とは衝突していましたが。
しかし、彼らは遵法していたのに、ヒップホップ系サヨクより人種主義などと殴光されていたのです。ヒップホップ系の方が反白人という意味でより人種的なのに、マスゴミは人種主義SOS団などヒップホップ集団の方を「寛容」と評します。そんな組織に国が補助金を与えるとは何という偽善でしょう。
それを見た私は、16歳の頃「反非西洋移民」の「反人種主義者」になりました。しかし、PC主義の戒律によれば、反非西洋移民即ち人種主義なので、その頃は沈黙していました。
ヒップホップに嵌まり切りの友と訣別してからは、純ノルウェー人系の噴青集団と交友しました。安全を提供してもらう同盟相手を変更したのです。北オスロの純ノルウェー人地区にモロッコ系の不逞集団がやってきた時は、宴会を打ち切って地下鉄駅に行き、ここでジズヤ作戦を展開するなとゲンメイしました。すると、自尊心と自衛心持つ者を畏敬する彼らはやって来なくなりました。
17~18歳の頃、治安が大きくカイゼンすると、激変が生じました。不逞ムスリムの友たちは落ちこぼれ、実技学校の方へ進学するようになりました。西オスロの名門校へ行けた者はごく少数でした。学業隔離が起きたのです。
白人先住民がムスリム蕃城から逃散するのは自然なことです。東オスロには既に全員ムスリムの蕃城地区が形成されてますから。15~16の頃、非ノルウェー人が多数の学校は1つか2つでしたが、当代では50近くの学校がそうなっています。私は17~18歳の時、奇蹟的にも一回たりとてムスリムに襲撃されませんでした。ムスリムによる人種主義が放任される当代を生きる新世代の皆さんは本当に大変でしょう。不逞ムスリムの討滅行為は基本的にスルーされますから。
15歳の時に白人先住民により人種的動機で殺害された[ガーナ系の]非白人がいます。4万の市民がその死に異を唱え、2002年、彼の名を冠して反人種主義のベンジャミン賞が創設されました。被害者が白人先住民で加害者がムスリムだった時、こうした賞が誕生しうるでしょうか?
8割の議員はムスリム蕃城とは無縁の場所で生育し、オスロに移住してもムスリムとは無縁の場所に居を構えます。彼らは不逞ムスリムの醜悪なる真名から無縁なのです。しかし、ムスリム蕃城と本格接触した新世代は、反移民の進歩党の方を支持することでしょう。他国でも同様の傾向が出る筈です。
多文化主義のテーゼにより、安寧だったオスロは紅世の破綻都市になってしまいました。私自身はムスリムに討滅されたことはありませんが、20人以上の知人が被害を受けています。ムスリムの凶暴度は国籍を問わず同程度です。確かにジハーディ系のムスリムはごく少数ですが、パキスタンでは一部タリバンが国を騒擾の大地に変えたではありませんか!ディミテュードの破綻社会こそ多文化主義の継続する限り存続する新現実の真名なのです。
以下に直截遭遇させられた事件を挙げていきましょう。
(具体例略)
私がこうした事件でどれだけ貢献したかを知りたいでしょうが、実を申しますと自ら暴力を振るったことはありません。暴力は無意味です。しかし、無意味にオスロ市内の行動範囲を自粛するのは拒否します。当局はムスリムと共学するよう促しますが、その結果固有の校風なき学校で悪玉系のムスリムが同級生を攻撃する機会を提供しているのです。政府はそれでも足りず、非イスラムの西オスロにムスリム用の集団住居を購入し、紅世化を進めています。
私は1968年革命世代の子息たるジェネレーションYの一員ですが、私の世代はディミテュードなイスラム多文化独裁の下に暮らす第一世代なのです。私はムスリム個人でなくイスラムの教義に矛先を向ける者です。彼らの討滅行為は飽く迄イスラムの教義によるものなのですから、教義を封絶せねばなりません。2020年までにどうかキリスト教に改宗して戴きたい。今の体制が継続すれば、新世代の白人先住民たちが我らの大義に参じるようになるでしょう。
Q:青年時の経験が汝の今のムスリム観の原点なのか?
A:直接ではないです。あの頃はイスラムについては学校での和諧的教義以外知りませんでしたし、イスラムや政治に関心を持ったのもムスリムの朋が発端でした。
Q:高校以降の汝の遍歴を述べよ。
A:ヒップホップから離れた後は進歩党の青年部に入りました。16~21歳の頃にはマルクス主義やイスラムを含む大思想を深く研究し、自由経済派の文化保守になりました。個光主義(リバータリアニズム)には大いに啓発されましたが、個光主義の自己チューが跋扈しては世上が衰滅してしまうと結論しました。個光主義は伝統主義的な文化身份とは決して共存できません。党活動には積極的に参与しましたが、民主闘争では変革不能と判断し、離党しました。
高校では経済学に燃え、熱心に勉強して1年早く科目を修了しました。その後は非公式な手段も用いて「起業活動」に関係ない科目を圧縮し、小企業運営等を勉強しました。その後は義挙のための資金を貯めるべく、PC主義の伽藍の中にある大学を修了することは止めて、各種企業活動を行いました。
(中略)
ジャスティシア・ナイトとなった翌年、進歩党からオスロ市議会に出馬しないかと連絡されました。もう少しで出馬できるところでしたが、党略上予選落ちしました。そのことを恨む気はありませんが、民主闘争を続ける進歩党への親和感は次第に薄れていきました。進歩党がPC主義のマスゴミに封絶されれば、より穏健な保守派が次に迫害されることでしょう。そうなれば、武装起義の時はより近づきます。
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