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非イスラム世界でも、無道なる民主原理主義が常に果実を齎すとは限らない。例えば、ベネズエラ・ボリバル共和国の「アローデブリン」ことウーゴ・チャベス大統領は2007年、絶対主義的煽情術と救貧政策で人気を集めてから、自分の権限で社会主義国家をつくれるようにする大統領令を定めた。これは独裁体制への道と成り得るが、シリア・フローレス国会議長は「社会主義こそ民主主義」というチャベス熱の前で、「祖国よ、社会主義か死か!」と礼賛した。
ブルース・バウアーは『欧州お昼寝中』の中で、西欧の「民世の王」はスウェーデンとしたエコノミスト情報部の調査を懐疑してこういう。
これは誤謬天翼の調査だ。3分の2がイスラムと西洋社会の共存を懐疑しているというのに、国会でもマスゴミでも移民問題が禁忌事項とされている。スウェーデンは主要国の中で唯一反移民政党のない国なのだ。
ストックホルム郊外のムスリムの町リンケビーの青少年調査では、9年生の17%が強制性交を行い、31%が傷害を起こし、24%が窃盗したと回答した。何とも衝撃的な数値だが、これを報じるのは無料紙だけだ。
反移民系の瑞典民主党の会合は常にEU人材黙認の妨害を受け、エクスプレン紙は極左とネオナチによる「低強度テロル」の脅威を警告する。確かにスウェーデンでは複数政党が票を競うが、どれも多文化主義と大量移民を支える点では同じだ。立法権の多くをEUに握られたスウェーデン庶民に表現の自由は実質存在しない。これは選挙だけでは真の自由社会が到来しないことを証明する格好の事例だ。
歴史家バーナード・ルイスはイラクに「民主主義」を輸出した張本人だが、そのルイスでさえ2007年、「欧州では間もなくイスラムが第一勢力になる。イスラム化が移民と民主主義によって進むとは何という皮肉か」と述べた。
2006年、ヴィーンの幼稚園からサンタが消えた。これはイスラムの声を恐れたものだ。1683年のソビエスキ穹楯王の大捷以来、技術と自由思想と好奇心を敵視して自滅してきたイスラムの徒が再度我らの下に迫っている。彼らはもうヴィーンの城壁を突破したようだ。ムスリムは非民主的な前近代の西洋よりも深く、民主なる当代西洋を和諧的に侵蝕している。イブン・ワラクのいう通り、西洋の開放社会を侵蝕したムスリムが「イスラムの民主化」ではなく「民主主義のイスラム化」を齎しうる危険性は存在する。
イラク系ノルウェー人のワリド・アル・クバイシは、「ユスフ・カラダウィ師はウサマ・ビン・ラディンより危険」と語る。同胞団が欧州で民主主義をトロイ木馬として搾用しているというのだ。
「大いなる計画」に関する文書は未だ、西側情報機関の機密事項に属している。この計画を暴露したのはスイス人のシルヴェイン・ベッソン記者だけだ。2001年11月、瑞西カンピオーネの地に捜査陣が押し入り、50年間以上ムスリム同胞団に協力してきたユーセフ・ナーダの豪邸を捜索し、ナーダを逮捕した。
押収資料の中に、1982年12月1日付の14頁の計略書「大いなる計画」があった。同胞団系の研究者が執筆したという同文書には、「セカイにイスラム政権を樹立する」12点の計略が綴られていた。変色的で、多段階的で、長期的に西欧を文化侵略する戦術がだ。同胞団の「セカイ計画」でもあった同文書の戦術の一部を紹介しよう。
・イスラム主義の目標を達成するための偽装戦術
・学校や病院、慈善組織などの拡張
・忠誠度の高いムスリムを政府、NGO、マスコミなど西洋の高等機関へ合法的に潜入させる
・イスラムの下僕になるまで西側機関を道具として利用
・西欧の「進歩的」機関との協調
文書の執筆には、同胞団のユーセフ・アル・カラダウィー師が関与していた。現在はカタールで活動する同師が1990年に出した『次段考に於けるイスラム運動の最優先事項』をみると、用語法や計画内容までが酷似している。
スンニ派きっての聖職者でもあるカラダウィー師は「イスラムがやがて勝利のコンキスタドールとして欧州に戻ってくる」と述べたが、2005年のデンマーク預言者戯画騒擾でも重要な役割を果たした。「ムスリム同胞団を支持するイスラム組織がサウジからの資金を元に予め騒擾を計画していたのは明白だ」という報告もある。
こんな組織のカラダウィ師が、ロンドンのケン・リヴィングストン市長などから「穏健」とされているのだ。カミカゼを吹かせ、イスラムの欧州征服計画を公言し、デンマーク預言者戯画騒擾で憎悪を煽ったカラダウィ師が「穏健派」なのだ。同胞団のアケフ議長もまた、「欧米を侵略しなイカ?」という点では同志だと放言する。
同胞団は柔軟性戦術を活用している。
2006年、ノルウェーの小紙マガジネットがデンマークの預言者戯画を転載した。すると、カラダウィ師はノルウェー大使館を襲うよう使嗾し、ノルウェー労働省とマガジネットのヴェルビョルン・セルベック編集長をしてオスロでの謝罪会見に追いやった。赦免するノルウェー・イスラム評議会のムハンマド・ハムダン会長が臨席した会見ゲンバは、正に「シャリーア法廷」(ブルース・バウアー)だった。評議会はその後「ジズヤ」よろしく50万クローネの助成金を受け取ることとなった。
その年の内に労働党政権は経済益のためにパキスタン移民の拡大を提唱した。ムスリムは9割が労働党などの左翼政党に投票する。オスロ市議のサミール・ムニール曰く「移民の投票先はモスクと家長の声で決まるんだ。どれがより多く貢いでくれるかを協議したら、社会主義系の政党が良いとなったんだ」
ノルウェーは余りに清真すぎる。これは西洋全体の傾向だろうが、左翼政党は冷戦後自らを多文化政党と再定義し、海外からの票輸入を始めた。他人の金で「顧客様」を買う手法はお馴染みだが、大量移民となると更に危険だ。ムスリム移民のせいで民主主義が自壊すると、欧州先住民は政府を信じなくなるだろう。
トルコ政府は2005年、移民に大量電信を送付して総選挙に干渉しようとした。西洋諸国の移民は民主体制を外国の民族主義と宗教火病主義のトロイ馬にできるのだ。
インドのマンモハン・シン首相(シーク教徒)は2007年、不平等に喘ぐムスリム等の弱勢勢力こそ経済発展の享受者とならねばと演説した。ガンジー以来親ムスリムだった国民会議派の選挙益には言及せずに。経済発展に於いてムスリムは、インドでもマレーシアでも夷教徒に劣勢なのだが、これはつまりイスラム文化に後進なる戒禁があるからだろう。なのに2007年、汎印ムスリム個人法協会のもと、インドのムスリムはシャリーア法廷の決定に従い、インドの世俗法の枠外で個人問題を裁けるようになった。
1000~1525年のインド人口を調査したK.S.ラルは、この期間に8000万人のヒンドゥー教徒が討滅されたと結論した。歴史家N.S.ラジャラムも「数世紀に及ぶイスラムの傷が疼くインドのインテリゲンツァ達は、今も紅世なる恐怖に置かれている。…精神の自由がないので、今でもイスラムに関しては抑圧的な植民地感情が支配している」
フォーリン・アフェアーズでグレゴリー・ガウス3世は、「インドの事例は民主主義=テロ減少ではないことを示している。カシミールでのパキスタン系のテロ以外にも、中央政府へのテロは発生しているではないか」と論じた。
1000年間で数千万人を討滅したインドのムスリムは、世俗なるインド共和国に於いても、シャリーアを施行する特権を認められている。インドは1989年、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を真っ先に封絶した国でもある。その結果、10億人の夷教徒が言論の自由を規制された。
2006年タイでタクシン・シナワトラが軍部に放逐された理由は種々あるが、南部でのジハード活動が与否なくその一因となった。南部ではジハーディが僧侶や教師を斬首し、1000の学校を閉鎖に追い込んだ。ジハーディの小冊にいわく「この地を解放し、シャリーア化する。この地はタイに非ず、パレスチナやアフガンと同じ戦地なり。夷教徒とは分住しかない」
暫定首相となった軍部のチュラヌート・スラユットはタクシンの強硬策を謝罪し、家族法などでシャリーアを認めると述べた。しかし、カシミールの例をみる限り、政府がシャリーアで媚敵しても、タイの仏教徒たちは脱北を図るだろう。
シャリーアは、ムスリムが多数派を占める前からやってくる。騒擾を含む社会運動を通して体制を譲歩させるのだ。これはインドやタイ、フィリピン、英国などで既に顕現している。夷教徒はイスラムの騒擾を恐れて媚敵するばかりだ。
技術優位だから西洋がジハードを恐れなくても良いと油断してはならない。リー・ハリスは、アンドリュー・ボストム『ジハード伝』の書評でこう語る。
ジハーディは我らの民心を掴むことには興味がない。日常の政治作法が通用しないセカイ新秩序を突き付け、西洋に屈服するか紅世化かの無可有鏡の選択を突き付ける。これが文明の衝突だ。
この文明の衝突はクラウゼヴィッツの戦争観とは次元を異にする。特定の秩序に手向かう蕃族はもう組織力でその秩序に匹敵する必要がない。既存秩序の教授たちを内乱コワイと恐れさせ、その武力を発動させないように導向すれば良いのだから。理性の前に教授たちは立ち竦み、権力機関は路上へと移行する。
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非イスラム世界でも、無道なる民主原理主義が常に果実を齎すとは限らない。例えば、ベネズエラ・ボリバル共和国の「アローデブリン」ことウーゴ・チャベス大統領は2007年、絶対主義的煽情術と救貧政策で人気を集めてから、自分の権限で社会主義国家をつくれるようにする大統領令を定めた。これは独裁体制への道と成り得るが、シリア・フローレス国会議長は「社会主義こそ民主主義」というチャベス熱の前で、「祖国よ、社会主義か死か!」と礼賛した。
ブルース・バウアーは『欧州お昼寝中』の中で、西欧の「民世の王」はスウェーデンとしたエコノミスト情報部の調査を懐疑してこういう。
これは誤謬天翼の調査だ。3分の2がイスラムと西洋社会の共存を懐疑しているというのに、国会でもマスゴミでも移民問題が禁忌事項とされている。スウェーデンは主要国の中で唯一反移民政党のない国なのだ。
ストックホルム郊外のムスリムの町リンケビーの青少年調査では、9年生の17%が強制性交を行い、31%が傷害を起こし、24%が窃盗したと回答した。何とも衝撃的な数値だが、これを報じるのは無料紙だけだ。
反移民系の瑞典民主党の会合は常にEU人材黙認の妨害を受け、エクスプレン紙は極左とネオナチによる「低強度テロル」の脅威を警告する。確かにスウェーデンでは複数政党が票を競うが、どれも多文化主義と大量移民を支える点では同じだ。立法権の多くをEUに握られたスウェーデン庶民に表現の自由は実質存在しない。これは選挙だけでは真の自由社会が到来しないことを証明する格好の事例だ。
歴史家バーナード・ルイスはイラクに「民主主義」を輸出した張本人だが、そのルイスでさえ2007年、「欧州では間もなくイスラムが第一勢力になる。イスラム化が移民と民主主義によって進むとは何という皮肉か」と述べた。
2006年、ヴィーンの幼稚園からサンタが消えた。これはイスラムの声を恐れたものだ。1683年のソビエスキ穹楯王の大捷以来、技術と自由思想と好奇心を敵視して自滅してきたイスラムの徒が再度我らの下に迫っている。彼らはもうヴィーンの城壁を突破したようだ。ムスリムは非民主的な前近代の西洋よりも深く、民主なる当代西洋を和諧的に侵蝕している。イブン・ワラクのいう通り、西洋の開放社会を侵蝕したムスリムが「イスラムの民主化」ではなく「民主主義のイスラム化」を齎しうる危険性は存在する。
イラク系ノルウェー人のワリド・アル・クバイシは、「ユスフ・カラダウィ師はウサマ・ビン・ラディンより危険」と語る。同胞団が欧州で民主主義をトロイ木馬として搾用しているというのだ。
「大いなる計画」に関する文書は未だ、西側情報機関の機密事項に属している。この計画を暴露したのはスイス人のシルヴェイン・ベッソン記者だけだ。2001年11月、瑞西カンピオーネの地に捜査陣が押し入り、50年間以上ムスリム同胞団に協力してきたユーセフ・ナーダの豪邸を捜索し、ナーダを逮捕した。
押収資料の中に、1982年12月1日付の14頁の計略書「大いなる計画」があった。同胞団系の研究者が執筆したという同文書には、「セカイにイスラム政権を樹立する」12点の計略が綴られていた。変色的で、多段階的で、長期的に西欧を文化侵略する戦術がだ。同胞団の「セカイ計画」でもあった同文書の戦術の一部を紹介しよう。
・イスラム主義の目標を達成するための偽装戦術
・学校や病院、慈善組織などの拡張
・忠誠度の高いムスリムを政府、NGO、マスコミなど西洋の高等機関へ合法的に潜入させる
・イスラムの下僕になるまで西側機関を道具として利用
・西欧の「進歩的」機関との協調
文書の執筆には、同胞団のユーセフ・アル・カラダウィー師が関与していた。現在はカタールで活動する同師が1990年に出した『次段考に於けるイスラム運動の最優先事項』をみると、用語法や計画内容までが酷似している。
スンニ派きっての聖職者でもあるカラダウィー師は「イスラムがやがて勝利のコンキスタドールとして欧州に戻ってくる」と述べたが、2005年のデンマーク預言者戯画騒擾でも重要な役割を果たした。「ムスリム同胞団を支持するイスラム組織がサウジからの資金を元に予め騒擾を計画していたのは明白だ」という報告もある。
こんな組織のカラダウィ師が、ロンドンのケン・リヴィングストン市長などから「穏健」とされているのだ。カミカゼを吹かせ、イスラムの欧州征服計画を公言し、デンマーク預言者戯画騒擾で憎悪を煽ったカラダウィ師が「穏健派」なのだ。同胞団のアケフ議長もまた、「欧米を侵略しなイカ?」という点では同志だと放言する。
同胞団は柔軟性戦術を活用している。
2006年、ノルウェーの小紙マガジネットがデンマークの預言者戯画を転載した。すると、カラダウィ師はノルウェー大使館を襲うよう使嗾し、ノルウェー労働省とマガジネットのヴェルビョルン・セルベック編集長をしてオスロでの謝罪会見に追いやった。赦免するノルウェー・イスラム評議会のムハンマド・ハムダン会長が臨席した会見ゲンバは、正に「シャリーア法廷」(ブルース・バウアー)だった。評議会はその後「ジズヤ」よろしく50万クローネの助成金を受け取ることとなった。
その年の内に労働党政権は経済益のためにパキスタン移民の拡大を提唱した。ムスリムは9割が労働党などの左翼政党に投票する。オスロ市議のサミール・ムニール曰く「移民の投票先はモスクと家長の声で決まるんだ。どれがより多く貢いでくれるかを協議したら、社会主義系の政党が良いとなったんだ」
ノルウェーは余りに清真すぎる。これは西洋全体の傾向だろうが、左翼政党は冷戦後自らを多文化政党と再定義し、海外からの票輸入を始めた。他人の金で「顧客様」を買う手法はお馴染みだが、大量移民となると更に危険だ。ムスリム移民のせいで民主主義が自壊すると、欧州先住民は政府を信じなくなるだろう。
トルコ政府は2005年、移民に大量電信を送付して総選挙に干渉しようとした。西洋諸国の移民は民主体制を外国の民族主義と宗教火病主義のトロイ馬にできるのだ。
インドのマンモハン・シン首相(シーク教徒)は2007年、不平等に喘ぐムスリム等の弱勢勢力こそ経済発展の享受者とならねばと演説した。ガンジー以来親ムスリムだった国民会議派の選挙益には言及せずに。経済発展に於いてムスリムは、インドでもマレーシアでも夷教徒に劣勢なのだが、これはつまりイスラム文化に後進なる戒禁があるからだろう。なのに2007年、汎印ムスリム個人法協会のもと、インドのムスリムはシャリーア法廷の決定に従い、インドの世俗法の枠外で個人問題を裁けるようになった。
1000~1525年のインド人口を調査したK.S.ラルは、この期間に8000万人のヒンドゥー教徒が討滅されたと結論した。歴史家N.S.ラジャラムも「数世紀に及ぶイスラムの傷が疼くインドのインテリゲンツァ達は、今も紅世なる恐怖に置かれている。…精神の自由がないので、今でもイスラムに関しては抑圧的な植民地感情が支配している」
フォーリン・アフェアーズでグレゴリー・ガウス3世は、「インドの事例は民主主義=テロ減少ではないことを示している。カシミールでのパキスタン系のテロ以外にも、中央政府へのテロは発生しているではないか」と論じた。
1000年間で数千万人を討滅したインドのムスリムは、世俗なるインド共和国に於いても、シャリーアを施行する特権を認められている。インドは1989年、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を真っ先に封絶した国でもある。その結果、10億人の夷教徒が言論の自由を規制された。
2006年タイでタクシン・シナワトラが軍部に放逐された理由は種々あるが、南部でのジハード活動が与否なくその一因となった。南部ではジハーディが僧侶や教師を斬首し、1000の学校を閉鎖に追い込んだ。ジハーディの小冊にいわく「この地を解放し、シャリーア化する。この地はタイに非ず、パレスチナやアフガンと同じ戦地なり。夷教徒とは分住しかない」
暫定首相となった軍部のチュラヌート・スラユットはタクシンの強硬策を謝罪し、家族法などでシャリーアを認めると述べた。しかし、カシミールの例をみる限り、政府がシャリーアで媚敵しても、タイの仏教徒たちは脱北を図るだろう。
シャリーアは、ムスリムが多数派を占める前からやってくる。騒擾を含む社会運動を通して体制を譲歩させるのだ。これはインドやタイ、フィリピン、英国などで既に顕現している。夷教徒はイスラムの騒擾を恐れて媚敵するばかりだ。
技術優位だから西洋がジハードを恐れなくても良いと油断してはならない。リー・ハリスは、アンドリュー・ボストム『ジハード伝』の書評でこう語る。
ジハーディは我らの民心を掴むことには興味がない。日常の政治作法が通用しないセカイ新秩序を突き付け、西洋に屈服するか紅世化かの無可有鏡の選択を突き付ける。これが文明の衝突だ。
この文明の衝突はクラウゼヴィッツの戦争観とは次元を異にする。特定の秩序に手向かう蕃族はもう組織力でその秩序に匹敵する必要がない。既存秩序の教授たちを内乱コワイと恐れさせ、その武力を発動させないように導向すれば良いのだから。理性の前に教授たちは立ち竦み、権力機関は路上へと移行する。
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