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セント・ポール大聖堂








ただいまセント・ポール大聖堂前。

多才クリストファー・レンによる18世紀初頭の作品...
曼荼羅(コスモロジーと言うべきか)を内部に抱えたこの大建築、
いつ見てもロケーションがいまひとつと感じる。

ロンドン大火の後、レンが計画したという「ユートピア的なロンドン都市再生計画」、
どんなだったか見てみたい(ロンドン博物館あたりに模型があってもよさそうなのに)。

それが実現していたら、ロンドンにはもっと美しい街並が残っていたかもしれない。

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進君のブログ




友人から、「子供の学校で、受験に役に立たない無駄な科目が多すぎると文句を言う親がいる」という話を聞いた。
受験は大人をそこまで追いつめるのかと思うと少しショックだ。

そういえば別の友人からは、「子供から、英語の勉強が将来役に立つのが分かるけれど、なぜ数学や楽器を習わなくちゃいけないのかと言われ」てどう対処したらいいのか分からないと保護者会で話題になった、と聞いた。
わたしは、「あなたはなぜ勉強するかが分からないの? 分からないから勉強したりお稽古をしたりして自分で答えを見つけるんですよ。人に聞くのはズルです(笑)。自分で見つけるんです」と言えと彼女に言った。
また子供がそういうことを言うのは万事絶好調の時ではなく、テストの点がたまたま悪かったり、お稽古でつまづいたりした時ではないかと思うので、そこをケアしてやった方がいいのかもしれない。


無駄が多いとおっしゃる大人も、なぜ勉強するかと問う中高生も、進君のブログをお読みになってはいかがだろうか。

進君は太宰治(太宰は誰かになりすまして「ブログ」を書いたら超々一流)の「正義と微笑」の主人公で16歳だ(後半で18歳)。子供はこれを読んで「オチが分からない」と言うかもしれないが、「ブログ」なのでオチはない、と言えばよろしい。あるいはオチは「自分で見つけるんです」。この「ブログ」の中で斎藤先生が進君に「ひとりでやれ!」と一喝するように。

最初の方、英語の黒田先生とお別れするこの部分...

「もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。」(太宰治 「正義と微笑」、「パンドラの匣」収録)


他にも
「僕は今まで、説教されて、改心した事が、まだ一度もない。お説教している人を、偉いなあと思った事も、まだ一度もない。お説教なんて、自己陶酔だ。わがままな気取りだ。本当に偉い人は、ただ微笑してこちらの失敗を見ているものだ。けれどもその微笑は、実に深く澄んでいるので、何も言われずとも、こちらの胸にぐっと来るのだ。ハッと思う、とたんに目から鱗が落ちるのだ。本当に、改心も出来るのだ。説教は、どうもいやだ。」(同上)
...などと親として耳が痛いステキな箇所もある。


青空文庫でも読めるのでぜひぜひ。
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私の非常識、あなたの常識




先日、ロンドンのバレエ公演でこんなことがあった。


劇場の照明が落ち、開演の合図。指揮者の登場と期待の喝采。オーケストラが鳴り響き、幕がしずしずと開く。目が覚めるほど明るい舞台の真ん中に美しい踊り手が...

わたしが座っていた座席の一角で事件は起こった。


袋を開けるバリバリいう音と、それに手を突っ込むガサガサいう音が遠慮なしに響き渡り、しかも止まなさそうだったのだ。
教師のような眼光鋭い女性が何人かじろっとそちらを見る。
わたしの真後ろだ。
しかしその音の主は全然かまわずに増々大きな音をたて、フランス語でささやき合ってはクスクス笑っている。すごい心臓の持ち主。いや、空気が読めないと言うべきか。

と、後ろの方から誰かが彼女等の方へやって来た。
注意するのだろうかとわたしは思ったが、どうも座席の入れ違いがあったらしく、その人たちはガタガタと席を入れ変わり始めたのである。
スーパーのビニール袋に食べ物の袋を仕舞う音、移動する音...

わたしも辛抱たまらず振り返った。若い女性2人と若いカップルがささやき合いながら動いていた。


とうとう英国人の女性が小声で鋭く声を上げた。
「いったい、何やってるの?!」と。

周りの観客は「行儀の悪い」人たちの立てる音を気にしながらも舞台にひき付けられているようで、周りには妙な雰囲気が漂い、しばらくして静かになった。


そしてインターバル。


と、すかさず劇場係員がやって来て、わたしの座席の前々列の人たちに向かって言った。
「この列に上演中ずっと携帯電話のスイッチを入れていた人がいたようです。後ろの席の人たちから画面の青い光が目障りだという苦情が複数ありました。上映中は携帯電話のスイッチを入れるのは禁止です!」
結構強い口調だった。

側にいた先ほどの「いったい、何をやってるの?!」の女性が、「上映中の携帯電話は禁止ですとアナウンスすべきよ。どこの劇場でもやってるわ」と係員に向かって言った。
係員は、「上演前に携帯電話、写真撮影は禁止、としっかりアナウンスしております」と相変わらず強い口調で答える。
女「ぜんぜん聞こえませんでしたよ。きっと誰も聞こえてないわ」
係「(何と言ったのか聞き取れず)」
女「でも常識のない人がいるのよ!」
彼女は「行儀の悪い人」達の方を見ながら、周囲にもはっきり聞こえるように言った。


常識。
文化背景や価値観の異なる人が集まる公共の場では、お互いが気持ちよく過ごせるよう、ある程度の配慮や空気を読む力が要求される。子供が小さい頃からこれを仕込むのは親の役目だとわたしは思った。マナーを仕込むと共に、瞬時に判断して適切な行動をとれる能力を仕込む...

わたしの真後ろで、先ほどのフランス語を話す若い女性2人と、席を入れ替わった若いカップルがおしゃべりを始めたのが否が応でも耳に入って来た。若いカップルはスペインから来た、と言った。
「英国は劇場で飲んだり食べたりしちゃいけないの? あのマダム、怖い(笑)」
「スペインじゃ上演中、観客は何をしてもいいのよ。おしゃべりしても大声で笑っても、食べたり飲んだりしても、立ち歩いたとしても」
「私たちがスイスでオペラに行ったときは、食べ物の持ち込みと携帯電話が禁止なことは多言語でスクリーンに注意書きとして出たわ。英国でもそうすればいいのに」
彼らもまた「自分たちは常識知らずではない」と周囲に知らせたいのか、私語らしくないトーンで会話していた。

いやいや。お嬢さん方、そんなことは劇場の「常識」。悪いけど、わたしもあの英国人女性と同意見...と思ったと同時にはっとした。
わたしが今ここでもし「いやお嬢さん方、劇場の常識がありますでしょう」と言うとする(言わないけど・笑)。でもそこで「フランスでは違うわ」とか「スペインじゃ、あなたが非常識」と言われたら返す言葉がない。かろうじて「ここは英国だから英国の『常識』を守りましょう」と言い返すしかない。そこへ「外国人観光客だから、英国の『常識』を知らない」と言われたら?
「常識」は集団が変われば変わる。「あなたの常識は私の非常識」、そういうものなのだ。


わたしは自身は「郷に行っては郷に従え」主義者である。強い信心もポリシーもないから、どこに行っても変わり身は早い(しかもその現場でのルールは遵守したい方だから、例えば「撮影禁止」の美術館でこっそり撮影している人を見かけたら殺意を覚えるほどだ・笑)。
英国や日本ではバレエ公演は静かに鑑賞するものだと思うし、周りにもそれを期待する。でもスペインで、野次を飛ばしたり大声で笑ったり弁当を食べながら見る人々の間に混ざったらぜひそれに習いたいと思う。あなたと私の常識は違うようだから、ではここで「常識」について合意点を探しましょうなどと議論を始めたら公演が終わってしまうではないか。
と言うか、そんな議論をいちいちしなくて済ませるための配慮が「常識」であるはずなのに。

おかしいなあ、常識ってこんなに根拠のない不確かなものだったのか??

ひょっとしたら「常識」には一神教的な神のような絶対性がないところがその巧妙なのかもしれない。

「あなたの常識は非常識だ」と指摘され、言葉を失った時点でさらにその先の言葉を探す努力は必要だと思う。特に多民族が共存する時に起こりがちな文化摩擦(あるいは常識摩擦?!)は、お互いがその先の言葉を探し(=つまりこれが本当のコミュニケーション)どこかで了解し合うしかないと思う。
でもたかだか2時間ほどの公演くらいはその場の流儀で見たいよ...うん。いや、どうしたらいいんだろう、やっぱりスクリーンに多言語で注意書き? 小学生相手じゃあるまいに...いや、ここは世界の都市ロンドン、この数十年で観光客は著しく多様化し、今後も多くの人がさまざまな集団からさまざまな価値観を持って集まる。

どうすればいいのだろう。

逆に考えると、多民族が行き交う世界の都市ロンドンで、普段は目立つほどの摩擦ももめ事も起きていないのは、ひょっとしたら驚くべきことなのかもしれない...そう、それこそが絶対性のない「常識の」巧妙なのか?


ジェントルマンは決して他人の無作法で怒ったりはしない人種なんですよね。彼らだったらどんな提案をするのだろうか。
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「外国語で話すと性格が変わる」




昨日の記事、「nice to meet you」は、今日のこの記事が書きたいがための伏線(それほどのものでもないか)だったと言っても過言ではない。.

「外国語で話すと性格が変わる」とはどういう現象なのか。

週末、英語を話せるようになったベルギー人のお嬢さんの話を聞いている時、自分の考えや好きなものについて滔々と話す彼女はオランダ語でも全く同じように強く自己主張するのかな...と思ったのだ。

人は使用する言語によって「性格」が微妙に変わるらしい。
例えばバイリンガルAさんは、日本語では婉曲的な表現をする一方で、英語では比較的はっきり意見を述べる。日本語で話すときは日本人らしいジェスチャーをし、英語で話すとアメリカのTV俳優のようなジェスチャーが出る、等々。


それで興味深い本を思い出した。われわれが「外国語を使うことによって考え方、感じ方までも異なる様相を呈する」(林知己夫、『日本らしさの構造』、東洋経済、1996年、182頁)のを踏まえ、「国民性とは何か」、それを「文化受容、国際理解、国際化」に活用できるかを、物語の語り口や翻訳の仕方などを通して研究した本だ。

長いが段ボールの中から引っ張り出してきたので一部引用。

「使う言語によって考え方・感じ方まで変わ」り、またそれに濃淡があるのはこのように説明されている。
「第一に、言語の特性が考えられる。
日本語は中間的な態度を表現するのにふさわしい言葉であり、日本人に日本語で質問するとピッタリした気持ちで、中間的回答に反応する。アラビア語には中間的な態度を表現するのにふさわしい言葉がなく、はっきりした態度を表現するのに適している。したがって、アラブ人にアラビア語でたずねると断定的な回答が多くなる。しかし、英語でたずねると日本語の場合ほどではないが、中間的回答にふさわしい表現があるのでそれに反応する。言語の違い(言語の特性)による---もちろん言葉は、国民性の形成と表裏一体であるが---ところが多い。
第二に、国民性の特性が考えられる。
日本人の場合は、質問する言語によって段階づけのある質問、中間回答というものについては態度が多いに異なってくる。一方アラブ人は、質問の言語によって態度を変えることが日本人ほど多くないということである。言語の特性として説明した相応しい言語表現の問題もかかわってくるが、「場」によって態度を変えるか、買えないかにも関係が深い。日本人は英語で考えたり、話をしたりりしていると、日本人的感覚が変わってしまうが、アラブ人は話す言葉によってはあまり影響されず、アメリカ人はその中間、ということが考えられる」(178頁)

この調査結果は国際交流や翻訳等を含めた文化受容に役立つのではないかとまとめてあり、なるほどと思った。


わたしが興味があるのはその先だ。

使用する言語によって多かれ少なかれ性格が変わるという事実は、「私は自由意思に基づいて自由に思考し言語を操っている」というわれわれの思い込みを完全に否定しはしないか。そして「実は使用する言語の方が、私の思考を強く限定している」ことを証明しないだろうか。

われわれはあまりにも「自分の思考や思いを言語に託して表現する」という言い方に慣れすぎているため(あるいはそう思いたいがため)、なかなか気がつかないが、実はそれほど自由なわけではない。われわれは言語化以前には自分の思いが何であるのかすら知ることができないのだ。
言語を運用する限りすでに既存の価値体系の中に組み込まれており、「自由な発想」でさえも、それほど自由なわけではないという人間の宿命。

だからこそ読書をして語彙を増やし、外国語を学んで新しい語彙を自分の世界に加えることが大切なのか、と思う。




ロイターにはこんな記事Switching languages can also switch personality: studyがある。
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nice to meet you




週末、ベルギー人の友人家族がロンドンへ遊びに来てくれ、夕食を共にした。


ベルギー時代、ここの下のお嬢さんとはわたしはほとんど会話したことがなかった。
彼女がとてもシャイなのと、わたしのフラマン語(蘭語)がヘタクソなのとでお互い遠慮し合い、会話はうちの娘経由で行われるという妙な関係だったのだ。

わたしが話しかけると彼女の表情が一瞬にして固まるほど、比喩ではなく、本当に固まるほど怯えさせていたのですよ...


先夜も食事中は席が離れていたせいもあり、わたしたちは一般的な挨拶くらいしかかわさなかったが、食後ラウンジに移って隣に座ると、周りの会話の流れに乗って、彼女がわたしに対して英語で「自己紹介」を始めた。

どれほど英語が話せるようになりたいと思っていたか、ロンドンでした買い物(携帯電話のカバーや小銭入れを見せてくれた。かわいい...)、学校の苦手科目、将来は動物の整体師になりたいなど、堰が切れたように話してくれた。

もうびっくりしましたよ!
最近しゃべれるようになったとは信じがたいほど語彙が豊富で言い回しも上手なんだ、これが。
中学校に進学し英語の授業が始まり、上のお姉さんと一緒に米ドラマを見続けていたのが蓄積して話せるようになったと言う。フラマン系のベルギー人は、若い世代は特に誰も彼も英語はペラペラで、おそらく多くの若者が同じような方法で話せるようになるのだと察するが...

次から次へと話題のつきない彼女の話しぶりは、困惑のあまり表情の固まるあの子とは全然違う女の子に見えた。

自分はこういう人間だと分かって欲しい、自分のことを知って欲しいなど、わたしも昔は持っていたが遠に失くしてしまった若い欲望を彼女はあふれんばかりに持っているのだ。
「自分のことを分かって欲しい、知って欲しい」という欲望は言語上達の一番のモーティベーションである、というのがわたしの持論。


わたしたちは「初めまして!わたしモエ!」と自己紹介し合った。


...それでわたしも言語能力をもっと磨けよと。
周りがどんどん英語を上達させる一方で、「わたしのことを分かって欲しい」とほとんど思わなくなったわたし(このブログで全解消されているのだ!)は、他の外国語がなかなか上手くならないのである。

自分の知っている言葉が全く使えない国に旅行してみたい...などと思ったりして(笑)。
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