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Brugge Style
秋刀魚の味
ブルージュのスーパーマーケットでは鯖や鰯などの青い魚が普通に売られている。が、秋刀魚は魚市場でも見かけたことがない。
塩秋刀魚の冷凍したのを頂戴した。
大根おろしを用意して夕餉にする。
焼き魚の匂いが大好きな飼い犬がギャロップでキッチンへやってくる。
わたしは「秋刀魚の味」がしみじみ分かる昭和の中年女なのである。これでいいような
苦いような
うれしいような
寂しいような
何かが過ぎ去って行ったのに、それが何かはっきり分からないような
でもこれでいいような
何を言ってるんだか。
秋やね~。
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私について話すワタシ
コートが必要ないほどの秋晴れ。
友人が出張で近くまで来るからごはん行こ、と言ってきた。
もちろん万難を排して馳せ参じる。
おお、スーツ姿。かっこいい。
わたしは、昔からそうなのだが、彼に向かって話していると「そうそう、わたしはこれが言いたかった」「こういう風に言いたかった」「まさにこの言い方ずばり」などとお利口になったような万能感を錯覚でき、とにかく爽快なのである。
.....(これ以下は飛ばして次の...につなげて読んで下さっていいのよ)
わたしは、”私について話すワタシ”と”その対象としての私”の合成物だが、その両者は決してイコールになることがない。間には決して埋まらない溝がある。
わたしの幼児期の一番古い記憶は「わたしって一体誰?」と考えたことであり、奈落の底に続く階段をゆっくり転がり落ちるイメージとセットになっている(もちろん今も考える)。
「わたしって誰?」と考えたまさにその瞬間に”その対象としての私”は遠のき、それについては純粋な形では何も言えなくなる、という構造なのである。
これはやはり、”わたし”が言語によって構成されているからなのだな。
世間一般には、”その対象としての私”は、あたかも木の上の方になっていて、努力次第では手に取れるリンゴのような形で認識されていると思う。「本当の私」というやつだ。
だがしかし、”その対象”には言葉でしか到達できず、しかし言葉で制限されているが故に、”その対象”を取り出してみせることは不可能なのだ。
”その対象”は「本当の私に出会う」とか「本来の私を取り戻す」などとよく言われているのとは反対に、元々そこに存在するものではない。それはその不完全な言葉によってそのつど存在しつつあるものなのである。
それでも彼と話をすると、”私について話すワタシ”と”その対象としての私”の間の、日本海溝より深い亀裂の上に幻の橋桁を渡すことができるような気がする。
そしてわたしは”その対象としての私”に一瞬会えたような気さえする。
....
ヨリマシのような役割を果たす彼に対して恋愛感情を持ったことがないのは、わたしの人生のうちの七不思議に数えてよいと思う。
こういう関係をソウルメイトなどと呼ぶ人たちもいるけれど、そんな「説明が難しいことを軽々と説明してしまう(しかも真顔で言うには赤面してしまう)言葉」は決して使いたくないような関係なのだ。
ランチも美味かったし(笑)。
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終わらない夜
昔からの友だちに会うことになると、昔話をして盛り上がろう!とか、昔通った遊び場でまるで時間の経過がなかったかのように盛り上がろう!
などといつもわくわくするのだが、結局昔話などあまりしないものである。
みなさんそれぞれに今を生き、未来を見つめておられるのであろう。
予備校の時に仲良くなった超~かわいらしい友人がいる。
当時、誰かから回って来たカセットテープに収録された曲の歌詞を、紙に起こして欲しいと彼女に頼まれたことがあった。
そのうちの1曲はThe Jets、もう1曲は結局誰の何という曲か分からないままになっていた。
だが、最近、なぜかふとこの曲のサビの部分を思い出し、一部分の歌詞をたよりに検索をかけてみたら、なんと一発で解決したのだ。ああすばらしきインターネット生活!あのころのわたしたちにとってコンピューターと言えばHAL9000、そんなものしか想像できなかったよ。
それでわたしたちはその曲再発見を喜び、同時に「あのカセットに他にどんな曲が入ってた?」という話をした。
入っていた曲は思い出せないが、当時よく流れていた曲がどんなものだったか、というのは覚えている。
で、お互いにリミックスを作ってみることになったわけだ。
カセットデッキはもうないが、ituneで簡単に作成できるし...
面倒だからまだ曲タイトルをピックアップしただけに留まっているけど。
ここにもその曲のタイトル集をすご~く書きたいのだけれど、なぜかすご~く恥ずかしいから書かない(笑)。
でも、恥ずかしくない青春があるだろうか?
わたしは自分でもこれ以上はありえないと思えるほどかけがえのない「あの頃」を過ごしたと思う。
でも、「死ぬまで青春」とか「生涯現役」とか、「大人になった少年」(気持ち悪いな)とか、アメリカ文化の悪しき影響なのか、そんなつまらないことをおっしゃる中年以上の人々のことは全く理解できない。
青春は絶対にあの時あの空間にしかないからこそ美しいのである。何度も青春できたらそれは青春ではない。あるいはあの恥ずかしさを中年になってからも上塗りされるつもりなのだろうか。わたしはご免である。
大人になって枯れる。これですよ、人生の美学は(笑)。
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空身の女
日本に住んでいる頃は、ほとんど毎日、朝に家を出たら夜まで出たままだったことから、かなり大きなカバンを持ち歩いていた。
...大学は車両通学禁止だったし、夜遊びに行くことを考えたら(実はこればっかり考えていた)車で出られなかったのだ。
大学で必要な書籍やノートやバインダー、筆記用具
趣味で読む本最低2冊
何より大切な化粧道具一式
携帯式のくるくるドライヤー
サングラスや
予備のストッキングや
CDプレイヤー(ipodなんかないよ)や
財布に手帳2種類にタオルハンカチ...
さて、今は空身(手ぶら)で外出することが多くなった。
ブルージュでは化粧直しを含め、何かが必要ならばすぐに帰宅できるため、鍵とカードのみを携行する。
ブラッセルに出かけたら車の中に荷物の大半は置いて行く。
化粧道具まで車の中に放置(だってポーチが重い!・笑)して後悔なしなのだからわたしも年をとったのである。
もちろんくるくるドライヤーなんか、はなから持ち歩いていない。
夫が一緒ならば何一つ携帯しない。完全に空身女。女性の姿はハンドバッグを添えてこそ完成するものと言うが、しっかりおしゃれをしていながら手ぶら、の時に感じる融通無碍さは非常に気持ちがいいものである。おまけにこの”空身”という漢字もいい。空身万歳。万歳もできるし(笑)。
今回の日帰りパリ行きもいかに荷物を少なくするかに心を砕いた。
最低必要であるのは:
タリスのチケット
カード
日本から来ている友人と連絡を取るために絶対に必要な携帯電話
電車移動の友、単行本
口紅
車の鍵
(家の鍵は車の中に)
昨日着て行ったコートにはポケットがないのだが、もし別のコート着用で、単行本を読み捨て可能な雑誌に置き換えたら、手ぶらが実現していたかもしれない。
でもポケットすらない、機能性なし、デザイン最優先!なコートって、空身で出かける女のためにこそ作られたもののような気がするんだけど。
次回はがっちりポケットのついたコートを着て手ぶらで行く、と決心しつつも、帰りはおそらく買い物袋を下げているんだろうなあ...
いや、パリに行って何一つ(マカロンさえも無印の文房具さえも)買って帰らないような女にこそなりたいものである。

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サバイバル能力
昨日の「実は昔から、主に公の場で次にどういう振る舞いをしたらいいのか分からなくなったら、Moetだったらどうするだろうか、と考えるのよ。」
について補足。
わたしに常に余裕があり、何が起きても動じることなく優雅で、適応適所の流れるようなマナーを極めているから彼女がわたしを参考にしてくれているわけではないと断言したい。
つまりわたしにはサバイバル能力があると言ってくれているのだと思う。
見知らぬ土地を歩いていてヤバくなってきたらどうしたらいいかとか。
適当に言い繕ったり、立場を逆転したりして、その場を切り抜ける...いや、逃げるにはどうしたらいいかとか。
目上の方にお行儀のできたお嬢さん(申し訳ない、わたしはおばちゃんやったな)だと思われるツボはどのあたりだとか。
うん、めっちゃ姑息(笑)。
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