日本・ベルギー・英国 喫茶モエ営業中
Brugge Style
学校
娘のクラスメイトのお母様と話した。
主な話題は彼女による校長先生と学校の批判であった。
わが家は娘の通っている学校にも校長先生にも非常に満足しているので、「どう反応しろと?」という気持ちで拝聴する。
彼女がこの学校を批判する理由は、コンピューターを使った授業時間が、ある別の学校より少なく、ウインドウズでないという点につきる。
「わたしの友達の子どもが通っている学校ではね、6年生がコンピューターを使って宿題をするのよ。コンピューターは将来絶対に必要なものでしょ?そういう授業を増やすように校長先生にクレームをつけたのよ。しかもこの学校、ウインドウズを使っていない(つまり娘たちが通う学校はMacな学校なのである)のよ!信じられないわ。今はウインドウズが主流でしょ?」
わたしはもう笑って聞くしかなかったよ。
まず、わたしは学校はコンピューターなどの「実務的スキル」を教える場所ではないと思っている(そんな時間があるならば古典を読ませろ、と思う)。小学生がなぜ「就職に有利な」専門学校の過程のようなスキルを学校で学ぶ必要があるのか。
学校では、知の世界がどれほど深く広いかということと、その世界からの知の得方(考え方などを含む)を学べばいいというのがわたしの考えである。
例えば、現在の世界の主流がウインドウズであるかどうかは、20年もMac使いのわたしには本当かどうかよく分からない。が、娘たちが社会に出た時、ウインドウズが主流ではなくなっている可能性はある、ということくらいは分かる。
その時に、新しい状況にも柔軟に対応していけるような種類の知性を訓練するのが学校の教育であって、ウインドウズの使い方を懇切丁寧に教えることではないと思う。
これはたとえだが「Macしか使えない」ではなくて、「Macしか使ったことがないけれど、試行錯誤で何でも使える」とか、ググっても書いていないようなことを探し当てられるような種類の知性を身につけるべきだと思っているのだ。
まあ世界的に「即おカネになるスキル」を身につけよう、という風潮なので、彼女の言うことが的外れだとは思わないが、ウチはクラシックな教育を受けさせていることに満足している家庭なのである。
それから..(長いな)彼女は6年生のご長女の遠足が、「海辺に電車で出かけて海岸を散策する」だったことにも大変ご立腹であった(笑)。もっと実利的な見学を!ということらしい。わたしには海岸散策がなぜ6年生には幼稚すぎるのか全然分からない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
思想なきアナーキー
先進国の中にアナーキー(無政府)な、ちょ~過激な国家がある。
ベルギーである。
アナーキーという言葉には「絶対権力が機能を失った、なんでもありのやり放題、しかもお咎めなしの無法地帯」という不埒なイメージがあるが、正確には「絶対権力を置かない世界での、真と善をめざす強い個人たちによる自由采配と秩序」という意味である。
どちらであっても悪夢であることには変わりはない。
なぜなら、やり放題の無法地帯では、わたしのような平凡な人間は搾取されるに決まっているし、強い個人の自主的な秩序が行き届いた完璧なエリアでは、わたしのような堕落した人間はダメ人間の札を貼られ、シベリアに強制労働(笑)に送られるに違いないからだ。
閑話休題。
ベルギーは思想的選択の末にアナーキーになったわけではなく、言語問題(「民族問題」ではない)を抱えていて、ときどき政府の「えらいひと」が「もうあかん。やめたる」と安倍晋三状態になるため引き起こされる。
法治が機能し、通貨が安定している限りはそれでもいいのである(「やめ」てもしばらくは大丈夫という算段があるはずである)。
われわれは生命身体財産自由が確保される限りは、権力者が誰になろうが、隣人が誰になろうが、さして気にせず普段と同じ生活を続けていくことができる。また、現代は規範の内面化を通じて自己抑制と相互監視に基づく「紀律社会」(フーコー)なのだ。政府が無くなっても突然「北斗の拳」のような世界にはならない。市井の人間は昨日と変わらぬ明日と来週と来月を送るだろう。
ところで、「国益」は国際関係の文脈に依存しており、ある国が単独で決議できるような問題はほとんどないはずである。ということは、
ベルギーはEUに依存しすぎ(信用しすぎ)ているか、あるいは無対策すぎるのか、
もしかしたら政府などというものはむしろない方が上手く回っていくことを直観しているのか?(まさにアナーキー...と言いたいところだが、単に連邦の権力をさらに強化するための段階的手段かもしれない)
あるいは安倍的パフォーマンスを繰り返すことによって、ベルギー分裂シナリオへの伏線を張っているのか?
複数の政府を擁するベルギーで単に自分(と自分の政党)への利益誘導を狙っているだけなのか?
果たして黒幕はオランダか、フランスか?
分裂したときの王家(元々ドイツ系)の立場は?
なんともおもしろいキーワードが満載であるのに、世界の眼があまり向けられないのは弱小国家ゆえか。
ベルギーには国民を束ねる幻想がひとつもない。
(建国神話からして、「列強の勢力緩和地帯形成のため」だもん...)
国民国家を束ねる幻想は、例えばアメリカならば星条旗に忠誠を誓うことと、アメリカンドリーム(死語?)。
日本は単一国民国家(死語?)。
ベルギーはそういった幻想を持たないゆえに「自分とは違う言葉をしゃべる人」「自分とは価値観が違う人」をすくいあげ、その利益をはかり、異論によって百戦錬磨にされた合意を作り上げようと、まさにそれをやっている(ように見える)。
...大変な仕事である。実現すれば倫理の歴史のマイルストーンになるであろう。
(わたしにはよく分からないのがこの問題なのである。もっともわたしごときに分かったりするなら、ベルギーの問題はとっくに片付いているはずである。だから「もっとちゃんと説明して」というメールは送ってこないように・笑)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
twilight
黄昏れてくる22時。涼しくなった庭でパソコンで遊ぶ。
この小さく薄い箱形の機械のおかげで、こんな田舎町の自宅に萬巻の書を収めた図書館を所有しているような大きい気持ちになる。ボルへス的図書館。
(実は寒い今日この頃。氷室のような地上階は外より2、3度気温が低く、庭に出ると「ぬくい~」)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
ミスコンって
今年のミスユニバースが決まったそうである。
ニュースで見た上位6名はそれぞれ女神のように美しく、口を開けたまま画面に穴があくのではないかと思うほど見つめてしまった。
ふと画面下を見ると、立教や明治学院などのミスキャンパスの情報も掲載されている。
まだやってるねんな~と、感慨深い。
ところで、ミスコンの趣旨というものも(HPに堂々掲載してあるのだろう)、ミスコンに出場したいと思う者の気持ちも(美しく生まれたら自然の流れとして出場したいと思うのか)全く理解できないので、上手く説明できる関係者がいるならば聞いてみたい(おそらくこのショーで途方もなく儲けている人がいるのだろうが、そんなハナシはしてもらえないに違いない)。
今の時代、美貌と女性性と、ちら見えする出世欲を高らかに謳い、半裸の素人がダンスをして拍手してもらえるのはミスコンの舞台上くらいなのではないか。普通に考えたらちょっと恥ずかしくないか?
もちろん候補者の中には、知的訓練の必要な職業に就いている、あるいは就くことを希望している美女も何人もいるし、類いまれな技術を持っている美女も何人もいる。
が、じゃあなぜそっちで勝負しないの?
...と考えるのは、天から3つも4つも恵まれなかった者のヒガミなのか。
また、知識や技術で勝負するのは良くて、美貌で勝負するのはどうしてダメなの、と切り返されたら...
いやそれはね、男性による搾取を自らの手に取り返すためにはね...とフェミニストのような口調になってしまう。
ああ、どうしたって女神様には勝てそうにない。
井上章一が「美人論」にミスコンの歴史を取り上げていたが、忘れてしまったし、ここに世界レベルで戦う場合の我流ミスコン必勝原則をメモっておこうと思う。
一番偏差値が高いのはここ何年か毎年南米である。
その他ではロシア、インド。
長身、褐色の肌、褐色のロングヘア、真っ白な歯。
子どもが大好き!地球を守って!がキーワード。
ミスコンに力が入る国は、女性の社会的地位が比較的低い国である。
おや、6位までの入賞者がみなさんそっくり、というのは偶然ではないのだな。
みなさんそっくりさんなら、なぜ国対抗で競う意味があるのだ?なぜ「民族衣装」などという審査基準があるのだ?
美は多様である、美は女性の数だけある、とかいう歯の浮くような、しかし世間でも肯定されている「常識」は、ミスコンにおいては真っ赤なウソなのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
子ども
この夏のお客様の1人は1歳半のお嬢ちゃまである。日本から友人が彼女とブルージュに遊びに来てくれるのだ。
ベビーベット
ベビーチェア
おままごとのような小さいサイズのお結び
お腹に優しいスパのお水
8歳になった娘と、小さな女の子に必要なものをいろいろ考える。
でも...1歳半の子どもがどのくらいの大きさなのか、どの程度お話しできるのか、すっかり忘れてしまった。アルバムをひもといて自分の娘の写真を眺めてみる。
ああこの頃か。
なんとぽちゃぽちゃした腕
わたしのバッグの中身や財布の中身を全部出して元通りにするのが好きだった
....あなた、ひょっとして成長したというよりも、ある時期、時期で、個体から個体へ役者が変わっていませんか?
わたしの娘として生まれてきた赤ん坊がここまでシークエンスに成長したのではなく、例えば1歳、1歳半、2歳、2歳半ごとに複数の「娘」が用意されており、ある節目節目で、完全に別の個体へと役者交代してきたような気がする...と言えばいいか。
そういえばこういうマンガがあると永井均の「マンガは哲学する」で読んだことがある。
娘、また役者交代するの?
奇跡やな
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
| « 前ページ | 次ページ » |
