goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

喫茶モエのママが語る一神教 蛇足編




付喪神っていうイメージ、大切にしたいなあ、というハナシから一神教の壮大なハナシになってしまった。


喫茶モエのママが語る一神教

前編

中編

後編


今日は蛇足編です。無視していただいても。


喫茶モエのママは前回の後編までに、ユダヤ教一神教のキモは、

「人間は自由であるが、自由には必ず責任が伴う。神に対面して恥ずかしくない人間になる」
「神からのメッセージを、自分に向けられた一対一のメッセージとして受け取る。メッセージを理解するためには、知的リミットを広げ組み替えることがしばしば要求される」

という結論に達したのだった。


以下、マックス・I・ディモント、藤本和子訳『ユダヤ人 神と歴史のはざまで 上』から引用する。


「シナゴーグと祈祷を持つようになって、ユダヤ人はもう特定の祭司組織や神殿や国に縛られることがなかった。どこにいても、仲介者なしに、神と直接に対話できる。(中略)いまや不可視の、柔軟な宗教、輸送可能の宗教になった。「捕囚」の、「離散」のユダヤ人の存続が、ここに保障されたことになった」(65頁)のである。

「この人間と神との関係こそが四〇〇〇年前に思想の大分裂を生み、異教徒の世界がユダヤ人を引き離す結果を招いたのであった。多神教の世界では、神の観念が人と他人を縛った。人間と神の関係についてのユダヤ人の概念は、自由な行動へとユダヤ人を解き放った」(17頁)西欧人が宗教的な自由という観念に目覚めたのは、マルティン・ルター以後である。



4000年ほど前の異教の時代に、当時はごく一般的だった多神教を捨て(実際、「創世記」には、族長時代のユダヤ人の間で偶像が日常的であった描写が出てくる)、不可視の神と一対一の関係を結ぶ信仰を選んだことが、ユダヤ民族がアイデンティティを保ちつつ生き延びた術になったということになる。

一神教を考え出した人物が(アブラハムが考え出し、モーセが洗練したことになっている)、ユダヤ人を守るためにそれを考え出したのか、単に結果的に一神教が民族を守るために有効に働いたのか、それはわからない。卵か鶏か、どちらは先かは今となってはもうわからないのだ。



わたしは高校時代の歴史便覧を見るのが今も大好きだ。
見開きページの歴史年表、一番下に設けられている「日本」は壮観である。

他の文明に飲み込まれたり、「日本人」が消滅してしまうのではないかという危機をほとんど感じたことのない国。

そういう日本のような国と、環境的要因により、集団ごとに定住する民族と、集団ごとに移動を繰り返す民族が同エリア内に入り乱れ、(今日のニュースを見ても、シリアには多くの少数民族がいることがわかる)、隣のグループの話し言葉が理解できなかったりすると、やっぱり危機感が全然違うのかなあと思う。

熊襲や蝦夷が唯一の神を信じていたら大和民族に吸収され滅ぼされなかっただろうか。どう思われます?


......



喫茶モエのしゃべり好きママのハナシでした。これで終わりです。

分かりにくいハナシを、つたない説明でいたしましたが、もし「おもしろかった!」と感じてくれた方がいらっしゃったら幸いです。
論理の破綻や内容に関するツッコミ、分かりにくい点、質問など、歓迎です。メールを頂けましたらうれしいです!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« カルロス・ア... 祈り »