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ヴィラヌフ離宮、夏の宮殿を冬に訪れたら





ポーランドの歴史は、世界史でもほとんど従属的な立場でしか出てこなかったからか(わたしは高校で世界史を選択した)、そもそもショパン以外には興味がなかったからか、不勉強で全くよく知らない。

これから少し勉強するつもりだ。


ワルシャワからウーバーで20分ほどの郊外にあるヴィラヌフ宮殿に行ってきた。

この宮殿は17世紀、ポーランド・リトアニア共和国のヤン3世ソビェスキによって建設された夏の離宮だ。







彼は対オスマントルコとの戦争:第二次ウィーン包囲で名を馳せた軍人で、政治家である一方、優れた文人でもあったらしく、またヨーロッパ絵画の巨匠による「コピー」を数多く収集したという。

そしてヤン3世には関係ないが、ここには時代は下ってダヴィッドのEquestrian portrait of Stanisław Kostka Potocki (1781)が一枚あるというので、ミーハーとしてはがぜん興味をかき立てられたのだ(写真右。下手な写真...)。


ヤン3世ソビェスキの17世紀といえば、ポーランドが影響力を持った時代だ。

地中海世界の食糧不足に供給する「穀倉地帯」として。


16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ全土で人口が爆発的に増え、特に地中海全域で食糧不足が生じた。
この地域では輸入穀物が急増、この穀物はバルト海方面、特にポーランドから輸入されたものだった。

(イタリア都市没落の理由の一つとして、地中海内部では自給自足できなくなり、食料を輸入に頼らざるをえなくなったこと、かつそれをイタリア船ではなく、外国船が行なっていたこと(海運業を他国に掌握されてしまった)にある。さらに興味深いのは、イタリア船の凋落はイタリアが後背地で木材を調達できなくなったから。当時の文明は森林に依存していたのである)


ポーランドの土壌生産性自体は低かったものの、貴族層シュラフタの勢力が強く、彼らは穀物輸出によって巨額の利益を得ていたため、余剰穀物を外国に販売できたのだった。

しかしポーランドは穀物の輸送をオランダに完全依存していた。
穀物不足が解消されると、ポーランドの穀物は16世紀後半ほどの価値を持たなくなり、貿易収支は悪化、ポーランドはどんどん貧しくなる。
17世紀に入り、ポーランドの穀物貿易による利益額が低下した後も、穀物以外に他に売るものがないポーランドは、アムステルダム商人に多額の穀物輸送費を支払わねばならなかったのである。





世界システム論的に言うと、ポーランドはこうして西欧すなわち「中央」に原料を供給する「周縁」としての地位に釘付けされ、以来、低開発されることになるのである。


このようにみると、ヤン3世が文物を見る目はあったにもかかわらず(彼の判断ではルーベンスとラファエロが最高、一方カラヴァッジオとレンブラントは最低なのだそうだけど)、本物ではなく、「コピー」を集めたというのもなにかぐっとくるものがある。

離宮の庭は冬枯れて見るものもなかったが、クリスマスのイルミネーションがこうして綺麗に飾られていた。
こちらはヴェルサイユ宮殿の庭の「コピー」だそうだ。

次回はこの庭が蘇る夏に訪れてみたい。


......


他にも彼は中国をはじめとした東洋の芸術収集にも熱心で、現在は日本の某財閥系が出資して螺鈿の修復作業をなさっている日本人の方がおられた。ガラス越しに見てもとても素敵な方でその作業の様子に見入ってしまった。お話しがうかがいたかったなあ(おばちゃんはこれだから...って、若い頃からそんな気質だったけど)
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