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カトリックの屋根裏教会




アムステルダムの運河沿いの邸宅内にある「屋根裏の教会」。

アムステルダムの街に教会は数あれど、はて、なぜに屋根裏に?




16世紀から17世紀にかけて、オランダの独立戦争(八十年戦争)が起こる。
強国スペインの支配を出て、オランダは世界の覇権を握った。


ご本人もプロテスタントのオラーニャ公ウィレム1世は、オランダ独立運動の指導者の一人であり、カトリックのスペインに対抗し、プロテスタント勢力と連携した。
プロテスタントの支持を取り込むことで、オランダの独立戦争における政治的・軍事的な力を強化したのである。


であるからして、オランダ独立戦争後、オランダはプロテスタンントの国になった。

カトリックは一部で制限されることはあった。
カトリック教徒は公職に就くことが許可されなかったり、一部の宗教的な権利が制限されたり、カトリック教会は公的な場での宗教行事を行うことが禁止されたりはした。

しかし、全体としてのオランダは比較的寛容な状況が続いたと言っていいだろう。




そこで登場したのが、裕福なカトリック教徒が、家屋を改造して作り上げた「教会」だ。

プロテスタントは、カトリックが大ぴらにミサをあげたりしないかぎり、隠れた信仰は多めに見たという。見て見ぬふりをした、と。

一方、例えばオランダの大哲学者スピノザなんかは、その空気を読まず(笑)、当時は異端とされた哲学的考察(『エアカ』とか)をおおぴらにしたため、このケースではユダヤ教徒のコミュニティから迫害された。

だからこちらの屋根裏教会は、キリシタンやローマ時代のキリスト教徒などの完全に隠れた信仰の跡ではないが、人間の可憐さ、いじらしさ、ひたむきさ、生の不安、救済への関心、死への恐れ、宗教の重要性というものは十分、感じとれる施設だ。




その後もオランダは宗教的多元主義と寛容を推進する国として知られるようになった。

そんなオランダでも2024年の現代では右翼が台頭。

世界では、70年代にキャンプ・デイヴィットの合意あり、80年代にベルリンの壁が落ち、90年代にオスロ合意ありしたのを見て、「世界はますます寛容に、どんどんこれからは良くなっていくのだ」と子供だったわたしが身体で感じた、あの希望はいったいどこに吹き飛ばされてしまったのか、と思う。
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