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Brugge Style
わたしの罹った中2病
友人のお嬢さんが春から大学生になられた。
日本屈指の大学に入学した彼女は子供の頃からはっとさせられるような美人で、いつもにこにこ気だてがよく、どうしたらこんな子に育つの? と誰もが思うすばらしいお嬢さんである。
ほんとうにおめでたい。
先日友人が話してくれたのが以下のことだ。
中学2年生で成績や生活態度が変わって来た時、母親である彼女はお嬢さんに
「もえさん、あんなにゴージャスだけど国立大に行ったのよ。勉強もできてゴージャスっていうのが一番かっこいいと思わない?」(原文ママ)と言い続けたそうである。
あ、わたしが客観的にゴージャスかどうかは、勉強の出来と同様に別の問題なのでスルーして下さい。嘲笑して下さっても結構(笑)。
それで娘の価値観が変わってがんばって勉強に打ち込めた、あなたのおかげだ、と言ってくれたのである。
元々大変優秀なご両親とお子さんなので、わたしのおかげではありえないから、身に余る光栄とはこのことだ。実像がどうであれ、他の人に「あの人のようになりたい」「困った時はあの人ならどうするか考えてみる」と思ってもらえるほどの気持ちの良さが他にあるだろうか。
わたしが大好きな星新一もこう言っていた。「人生最大の楽しさと言ったら、人に模倣されることでしょうね 」と。ええ、彼とわたしとでは次元が違いますがね...
ところで、うちの13歳の娘が今夢中のアイドルがいる。ティーンエイジャーのポップ・スター!
と言いたいところだが、全然違う。
英国人俳優のヒュー・ローリーだ。
うむ、うちの娘はわたしと同じでおじさんが好きなようである。
わたし世代ではヒュー・ローリーは、ブラックアダー・シリーズでご存知の方が多いと思うが、最近、米国のTVシリーズ「House MD」(邦題はドクター・ハウス)で世界的に有名になった。
娘はこのシリーズを見てヒュー・ローリー/ドクター・ハウスに「夢中」になり(TVを見ながら自分でカルテを作るほど・笑)、ジャズ・ミュージシャンとしても活躍しているローリーのコンサートに行きたいと父親にせがんでる。だからドラマの中のキャラクターに憧れているのかローリー氏に憧れているのかは定かではない...
ローリー演じるドクター・ハウスは人格は崩壊しているものの、知的で文化資本豊かで皮肉な、それなりに魅力的な初老の男性だ。「他の誰も診断できない症状を診断する」手法がおもしろい。
娘は、ハウスが自分の職業を定義した時の
ハウス「オレは医師でね。診断をするんだ」
女「...でも医師ってみんな診断するんじゃないんですか?」
ハウス「他の奴らはオレみたいにダンスできないんだよ」
というセリフのやり取りがクールすぎると、のたうち回って喜んでいたが(笑)、まさに。
そんなこんなで娘がおじいさんほども年の離れているハウスをアイドル化し、「将来は医師になると決めた!」と言ったり、ローリーのジャズ・コンサートをぜひ見たいと言ったりするのも単に微笑ましいと思っていた。
そこへ友人から「もえのおかげで勉強に打ち込めた」という話を聞いてひらめいた。
14歳だった友人のお嬢さんは、われわれ全員がそうであったように、大人であり子供である状態(つまり理想の自分と現実の自分)に知ってか知らずか引き裂かれていた...
たぶん、うちの13歳の娘もそういう感覚を抱いている。
娘の場合、ハウスという抜群に知的でありながらも、他人とコミュニケーションを取れず、自制することもできず、横柄で自分勝手でいい加減で、しかもそのことについて時々悩むらしい「大人」を見て、「理想の自分と現実の自分」に引き裂かれることはどうも変なことでもないらしい、もしかしたら(やり方によっては)カッコいいかも? と観察することができたのだ。
それがおそらく娘が「ドクター・ハウス」に憧れる大きな要因だ...
と、思春期は遠い昔になってしまったわたしは思う。
「理想の自分」と「現実の自分」の二項対立の場面に「観察する自分」という第三の自分が出現することは、思春期の人間に安定感を与え「別にすべて片付かなくていいようだ」という大人の道への涼しい第一歩を示す。友人のお嬢さんがわたしのことを思い浮かべて勉強と遊びをうまく両立できるようになったというのは、そういうことだったのではないかと思う。
最近の親はわたしも含め、変わった人を子どもたちからできるだけ遠ざけ、均質化した綺麗な世界で子育てをしたがっているように感じる。でも「親戚のあのちょっと変わった伯父さん」とか「近所の大邸宅に住んでいて何をしているか分からないお姉さん」とか、「外国人」とか、そういう人は子供が大人になる過程で必ず必要なキャラクターなのではないか...
わたしは高校生の頃「勉強ができる遊び人」を密かに目指していた。誰に教えられたわけでもないが、たぶん仏映画などを通して、あるいは仏思想が華やかなりし雰囲気の頃だったのでそういうのに憧れたのかもしれない。心からそういうのが一番クールな生き方だと思っていたのである。
わたしが疾患した中2病は未だに完治しておらず、だからこのブログにも Antonio Berardi などの見るからに遊び人服を着て遊んでいるわたしと、「われわれは世界をどう解釈したから人間になったのか」などと考える真似事をする、という記事が並立しているのである...と、ここには書いておこう。
写真は tumblr から拝借。
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