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何が言いたいのか分かりません病




今となっては何十年も前のことだ。


ありとあらゆる不仕合わせが立て続けに起こって、藁にもすがりたい思いで日々を過ごしていたことがあった。
今考えたら、全然大したことないことばかり...と、あっさり言えるのだが、「不仕合わせ」も「仕合せ」もすべて文脈次第である。当時のわたしの文脈では、わたしは袋の中に入れられた鼠だった。


在学していた大学にちょうど学生生活相談室のようなものが設置されたので、さっそく心理学の先生を訪ねてみた。
心療内科を訪ねたこともあった。

英語で友人に長い手紙を書いたりもした。これはわたしが気取っているからではなく、不思議なことに英語で書いた方が「何が問題なのか分からない問題」の核心に肉薄できると感じたからだ。
同じ理由で、例えばタイムの記事を見知らぬ講師とサシで講読したら何か解決の糸口が見つかりそうな気がしたので、英会話教室に見学に行ったこともあった(講師のレベルが粗末だったので実現しなかったが)。

これらのことは、米国で英語をツールにして「グループ療法」や「精神科に通うこと」が有効であることと無関係ではないと思う。断っておくがわたしの英語能力が優れているとか、アメリカに憧れているとか、そういうことでは全くない。人間が自分について語ることができるのは、相手がいる場合(含自分自身)だけである。たぶん英語は構造的に、聞き手を非常に意識しながら泥縄に「自分について語る」にふさわしい言語なのだろう、と思う。


...閑話休題


母に相談した時、彼女は一言、「もう死んでしまいたいだなんて、そんなこと、できる訳がないじゃないですか」とソファに座ったまま言ったし(そうだろうと思ったよ)、親友と飲んでも気が晴れるのはその時だけだし(その後かえって寂しくなるのさ)、まあ、単に若かっただけかもしれない(<当時のわたしに一番嫌われそうな態度)。



わたしはずっと

「自分が何者であるか(つまり何が言いたいのか)が、この人に話しているうちに分かりそうな相手」

を探して歩いていた。

と、気がついたのは、昨日車を運転していた時のことだった。

こんなことはもう常識で、誰でも知っているのかもしれないが、わたしは知らなかった。昨日まで(笑)。



そういうことをしなくなったのはいつからだったのか、なぜだったのかは分からないが(うすうす知っているけれど)、ある日適当に着地してからずっと涼しい顔をして生きている。
たぶんこのブログで駄文を連ねるのも「書いているうちにいったい自分は何が言いたいのか分かりそう」な気分になってくるからだ。
わたしの「何が言いたいのか分かりません病」は完治していないが、病とつきあって行くやり方は覚えた。


生きていてよかった。
みなさんありがとう。



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