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私について話すワタシ




コートが必要ないほどの秋晴れ。

友人が出張で近くまで来るからごはん行こ、と言ってきた。

もちろん万難を排して馳せ参じる。

おお、スーツ姿。かっこいい。


わたしは、昔からそうなのだが、彼に向かって話していると「そうそう、わたしはこれが言いたかった」「こういう風に言いたかった」「まさにこの言い方ずばり」などとお利口になったような万能感を錯覚でき、とにかく爽快なのである。


.....(これ以下は飛ばして次の...につなげて読んで下さっていいのよ)


わたしは、”私について話すワタシ”と”その対象としての私”の合成物だが、その両者は決してイコールになることがない。間には決して埋まらない溝がある。

わたしの幼児期の一番古い記憶は「わたしって一体誰?」と考えたことであり、奈落の底に続く階段をゆっくり転がり落ちるイメージとセットになっている(もちろん今も考える)。
「わたしって誰?」と考えたまさにその瞬間に”その対象としての私”は遠のき、それについては純粋な形では何も言えなくなる、という構造なのである。
これはやはり、”わたし”が言語によって構成されているからなのだな。

世間一般には、”その対象としての私”は、あたかも木の上の方になっていて、努力次第では手に取れるリンゴのような形で認識されていると思う。「本当の私」というやつだ。
だがしかし、”その対象”には言葉でしか到達できず、しかし言葉で制限されているが故に、”その対象”を取り出してみせることは不可能なのだ。
”その対象”は「本当の私に出会う」とか「本来の私を取り戻す」などとよく言われているのとは反対に、元々そこに存在するものではない。それはその不完全な言葉によってそのつど存在しつつあるものなのである。


それでも彼と話をすると、”私について話すワタシ”と”その対象としての私”の間の、日本海溝より深い亀裂の上に幻の橋桁を渡すことができるような気がする。
そしてわたしは”その対象としての私”に一瞬会えたような気さえする。

....


ヨリマシのような役割を果たす彼に対して恋愛感情を持ったことがないのは、わたしの人生のうちの七不思議に数えてよいと思う。

こういう関係をソウルメイトなどと呼ぶ人たちもいるけれど、そんな「説明が難しいことを軽々と説明してしまう(しかも真顔で言うには赤面してしまう)言葉」は決して使いたくないような関係なのだ。

ランチも美味かったし(笑)。


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