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Brugge Style
ローマの休日
ホテルからすぐ
地中海へ遊びに行く予定だったが、ローマに来ている。「ローマの休日」。
バロックの大劇場でベルニーニとカラヴァッジョを細かく見て回るのだ! と。
毎日早朝から歩き回って毎晩クタクタ...
ローマは初夏のような天気と気温で、屋外プールで泳げるほど。
そして今、午後6時半、雷を伴う夕立がものすごい勢いで降り始めた。
気温は一気に数度落ちた。
わたしたちはたまたまホテルの部屋に戻って次の行動の準備を整えていたので全く濡れずにすみ、夕立に逃げ惑うテラス席の人の声を聞きながら得々と
...まさにこれぞ「ローマの休日」。
(英語のRoman holidayは、「他人の苦しみを楽しむ観客の快楽」を意味する。たとえば古代ローマのコロッセオで、剣闘士が殺し合うのを見て民衆が喜ぶような...残酷な娯楽という皮肉な意味)
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フランス映画は霧の中から突然に
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの建てた城砦。
歴史を通してフランスと対岸の英国は戦争ばっかりやってましたから...
満潮時は海の中に佇む。
最高に天気がよかったので、ベルギーのブルージュから、フランスの海岸を目指した。
在ベルギーの友人が教えてくれた「秘密の」海岸へ行くのを思いついたのは、ブルージュが自転車レース開催で騒がしかったからだ。
フランスのカレーへ1時間、そこから海岸沿いに20分ほど南下。
彼女曰く、夏場でものんびりしていて混雑することはないし、当然ビーチは無料、路駐可能、アイスクリームも安いし、シーフードもおいしい...と。
海に続く、見晴らしのいいまっすぐな坂道を走っている時は蒼い空がまぶしかったが、車を止めると海の方向だけ春霞、いや、霧が...
釣りをする人も、まるで夢の中にいるように見える。
その向こうは別の世界...
霧笛がもうなんともいえない音で鳴る。
異国趣味といえばいいのかな、郷愁を誘うといえばいいのか、惜別の情と言えばいいのか、この懐かしさと心細さ、夢を見ているのか、わたしは。
ムール貝を採取するグループも。
まるで「夢拾い人」。そんなのがあるのなら(笑)。
4センチ以上に成長しているムール貝は一人5キロまで取って個人で食べていいんですって!!
水際で長靴着用ではしゃぐ子供達...
“the world is your oyster” 世界はムール貝。
いわく、あなたは何でもやりたいことをできる、好きな場所に行ける、その能力がある! という寿ぎ。
15分くらいで、さっとカーテンを開けるかのように霧は晴れていった。
あんなに神秘的で、夢の中を彷徨うようだった釣り人の向こう側も、なんのことはない、普通の海...
......
ダバダバダ ダバダバダ・・・ダバダバダ ダバダバダ
フランス映画 『男と女』 (Un homme et une femme, 1966) を思い出す。
ロマンティックなラブ・ストーリー。
フランシス・レイの音楽は、シンプルなメロディの反復で、登場人物の行ったり来たりのためらいの心情や、記憶の時間の方向性のなさ、波がひいては寄せるような効果を生む(霧の中を歩いているような...)。
モノクロ映像とカラー映像が交錯し、回想シーンと、時間の断片的なカットが多用される。
これは人が自分自身の記憶や、映画や小説で見た自分のものではない記憶をたぐる時の感覚に近いのか...
鮮明な記憶と曖昧な感覚が入り混じるような。
そうだ、今わたしが霧の海岸で思い出しているのは、「これは誰の記憶?」
おセンチながら、ロマンティックだと認めざるを得ないのは、巧みな映像・音楽・編集の組み合わせが、「今ここではないどこかにすばらしいものがある(あった)」という桃源郷思考を掻き立てるからか?
また、セリフの少なさや他愛なさは(わたしでも字幕なしで楽しめる)、恋愛の本質が言葉ではなく、共有する空気感や一瞬の表情に宿る ことを示唆しまいか。
余白と未完成。これ大事。
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7区を歩こう
もうすでにイングランドへ帰宅済みだが、パリ出発前に、7区にある剥製屋、チーズ専門店、チョコレート専門店、書店、家具屋、花屋...を回遊。
専門店の人の話はいつもおもしろい。商うものへの情熱と知識がすばらしい。
家具屋と花屋では何も買わなかったが。
途中、トマス・アキナスに捧げられた教会へも。
ピンクのヒラヒラのチューリップ、かわいい!
夫が買いましょうと言ったが、いや、イングランドまで水なしではかわいそうかなあ、と。
ルーヴル美術館の、この方たちのような春の花だ。
フラ・アンジェリコの礼拝の天使。
立春すぎて、復活祭へのカウントダウンが始まりましたしね!
あるいは、日本のきれいな友達を思い出させた。
シャルロット・ペリアン...
最後は凱旋門の周りを車でぐるぐる回って、帰途についた。
英国南部にも西風が吹き、一介のニンフが女神フローラに変身した模様。
庭にはブルーベル、水仙、ヒヤシンス、プリムローズ、クリスマス・ローズ、すみれやビオラが...
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「美術館は私たちが『読むこと』を学ぶ本」 ルーヴル・クチュール展
ヴィンターハルター画 19世紀
ドレスはガリアーノのディオール 2003−04
「ルーブル美術館は、われわれが『読むこと』を学ぶ本である」とは言い得て妙である。
パリのルーヴル美術館では、初の「服飾展」ルーヴル・クチュール展が開催中で、今月2回目のパリはこの見学のために。
ガリアーノのディオール 2006−07
ルーヴル美術館の歴史と、そのコレクションの膨大さ。
一方でフランスの誇るクチュールという芸術。
世界中に知られてきたこれらフランスの文化遺産を、中世から現代までの芸術の総体として類似点を強調しつつ同レベルに展示し、ピース同士の対話をうながし、われわれはそれを読む。
そうなのだ、ものはもの単体で存在するのではなく、文脈や関係性でその魅力を発する。
まさにルーヴルは開かれた本である。
この後は毎度のように長ーい(写真も多い)ので、おつきあいいただけない方はここでさようなら(笑)。
でも! なぜ人間は象徴や、同じようなモチーフを多用するのか、という考察をしています!
わたしはこういうことを考えるのがほんとうに好きなの...
お好きな方、おられるかしら。
同じケースに配列してあるのは黄金の時計 ドイツ 16、17世紀
両方とも、複雑な内臓を包むメタル...
手前はアンリ4世の甲冑 16世紀
ルーヴルの装飾芸術部門の約9千平方メートル(!)のスペースに、65のテーマ、クチュールは100点近く。
ディオール、シャネルから、アレクサンダー・マックイーン、ゴルチェ、ヨウジ・ヤマモトまで。
服飾展なら2時間ほどで見学できるかなあと想定したのは甘かった。4時間かかった。
わたしは80年代に初めてルーヴルを訪れて以来、何十回も来館しているが、告白しよう、装飾芸術部門は丁寧に見学したことがありませんでした...
聖遺物箱、個人的な礼拝の道具、ブローチやネックレスや指輪、テキスタイル、食器、花瓶、家具、エナメル、懐中時計、タペストリー、象牙細工、ガラス細工、金銀細工、装飾武具...
このような日用品の美よりも、実用から切り離された美のための美、ルーヴルではまず絵画と彫刻と建築が見たい、と思ってしまうからだ。
18世紀フランスの特徴的な「爆弾型」のチェスト
「爆弾型」チェスト型のドレス
さて、今回初めてじっくり見た日用品の美、クチュール作品、そして展示場となったリシュリュー翼の室内装飾の美(特にナポレオン3世のアパルトマン)...
わたしが最も強く感じたのは、人間が好んで使う象徴やシンボルには、多様性どころかかなりの限界がある、ということだった。
シャネルのブレスレットと同じケースに並べられた1000年前のアミュレット(お守り)...見よ、見分けがつかないではないか。
ドルチェ・アンド・ガッバーナ< 2013−14
花、植物、天体や自然現象、時間、動物、瞳や心臓など人体の一部、円や螺旋などの幾何学など、人間がシンボル化してありがたがるものは実はとても限られているのでは?
人間は「生命と死」「神と権力」「時間と宇宙」にかかわるものが好き?
ユング心理学の「元型(アーキタイプ)」の考え方では、特定の象徴は集団的無意識の中に根づいており、時代や文化を超えて普遍的に現れるという。
そうなると、デザイナーや芸術家の独創性とは何か、独創性などというものはそもそもあるのか、と考えさせられる。
後方の16世紀のタペストリーから切り取られて抜け出してきたよう
「独創性」とは、まったく新しいものを生み出すことではなく、むしろ限られたシンボルや形をどのように再解釈し、組み合わせ、新たな文脈に置くか、新たな視線を提供するということなのかもしれない...
ベンヤミン的には、引用とは単に権威ある文献を参照する行為ではなく、それを新たな文脈に置き換え、歴史の断片を再配置することで、新しい意味を生み出す手法だ。
マルセル・デュシャンが既存の便器を「泉」として発表したのも、芸術の美しい形そのものより、それを芸術をどう解釈するかという思考の領域に焦点を当てたわけだ。
そう考えると、「独創性」とは完全な創造ではなく、文化的記憶を巧みに操作し、見る人の認識をずらしたり、意外性で驚かせたりする力なのかもしれない。
襟や袖をデフォルメ (ナポレオンの)権力をデフォルメするための装飾とか...
白薔薇オスカルのような軍服だ...
フローベールはさらに一歩進んで『ボヴァリー夫人』を書くにあたり、「全くの虚無の上に建てられた小説が書きたい」と宣言した、というのを思い出した。
鹿島茂先生がおっしゃっていた。
「この世に新しいものは何もない
アレンジしかない
アレンジメントだけが美というものを成立させる
どこかに未発見の美があるわけではない
ごくごく凡庸な、どこにもあるようなもの、一見するとそうは見えないが、その背後で巧みに配置された言葉が自立するような作品として、全てはアレンジメントによって構成される」のが傑作『ボヴァリー夫人』である、と(鹿島茂のN'importe quoi!より)。
フローベール以前の文学では、「作者」は絶対的な存在であり、語り手の視点を通じて世界観を示す役割があった。
しかしフローベールは、小説から作者を消し去ることを目指す。
小説が大きな物語を提示するのではなく、小説を「言葉そのものが自立し、意味が絶対に定まらない」状態を作ろうとしたのである。。
これは、のちのロラン・バルトの「作者の死」にもつながる考え方であり、読者が小説に意味を求めること自体を問い直す試みであった。
つまり、作品の意味は、作者が意図したものではなく、読者がどう受け取るかで決まり、書かれた瞬間から作者の手を離れ、「解釈は無限に開かれる」。
孔子にしてすでに2500年前に「述べて作らず」(私が申すのは先人のコピーにすぎず、オリジナルではない)と宣言している。
ここに展示されている無数のシンボルやモチーフはそういうものなのか?
ミル・フルールは中世後期に好まれたパターンで、背後のタペストリーもそうだが
有名なところでは先日書いた『貴婦人と一角獣』にも
マリア・ガルシア・キウリのディオール 2018−2019
ではなぜ人間はなぜ限られた象徴やシンボルのみを使い、アレンジメントだけを行い、解釈を無限に開くのだろうか?
装飾やデザインに多用されるシンボルは、単なる装飾以上の意味を持つ。
それらは社会的、宗教的、あるいは個人的な意味を担いながら時代を超えて生き続けてきた。
とはいえ、人間の脳はパターン認識に優れているが、認識できる形や概念には限界がある。
単純すぎす、複雑すぎない、リズミカルで覚えやすい形(円、十字、星、渦巻き)や、自然界に存在するもの(花、太陽、月、動物など)は、人類の長い歴史の中で重要な意味を持ち、記憶に定着しやすいという特徴がある。
シンボルはもともと呪術的、宗教的、神話的な背景から生まれたものが多く、それらは歴史的に継承され、文化の記憶として固定化されてきた。
たとえば、西洋美術では古代ギリシャ・ローマの神話のモチーフ(花、月桂冠、天使、獅子など)がルネサンスを経て近代まで繰り返し使われてきた。
こうしたシンボルは、時間が経つほどに「意味の層」を増し、それ自体が持つ歴史的・文化的な重みが、さらに繰り返し使われる要因になっているのだろう。
つまり、人間が長年にわたって使い続けているシンボルは、単に意味があるだけでなく、視覚的・実用的にも「成功したデザイン」だからこそ、生き残ってきたのかもしれない。
そして今後も。
なぜ人間はシンボルや象徴を多用するのだろうか。
人間は情報にパターンを見出し、その情報を圧縮することで厳しい時代を生き延びてきたからだろうか。
人間がシンボルや象徴を多用するのは、情報の圧縮と効率的な処理のためだと考えると、認知科学や進化論的にも納得がいく。
脳は限られた認知リソースで世界を理解しなければならないため、情報を効率的に処理する必要があるのだ。
シンボルは、複雑な概念や経験を単純化し、圧縮した形で記憶する手段の一つである。
例えば、「王冠」というシンボルを見れば、それが「権力」「王権」「神聖性」などの概念を象徴していることがすぐにわかる。いちいち歴史や背景を説明する必要はないだろう。
まあ、現代社会では、かつては宗教的な文脈でしか意味を持たなかった装飾やモチーフが、世俗化した現代ではファッションの一部として消費されるという現象(ベンヤミン「アウラ」の喪失)と指摘したが。
みなさんこぞってセルフィやグループ記念撮影をしておられるからだ
この部屋は象徴とモチーフで目が眩むほど豪華に、そして分かりやすく飾られており、
われわれはなぜかそれを大変好む
スカーレット・オハラじゃないが、カーテンを使って作ったドレスのよう
シンボルはパターン認識の結果である。
人間の脳はパターンを探し、意味を見出すことに特化している。
進化的に考えると、ランダムな情報の中から生存に役立つパターンを見つける能力が生存確率を上げ、人間は生存のためにパターンを見つけ、それをシンボル化することで情報を圧縮・伝達してきたのではないか?
シンボルは社会的コミュニケーションを効率化し、個人だけでなく集団の中での情報伝達にも役立ち、特定の集団をまとめる役割を果しつつ、シンボルを共有することで、コミュニティの一員であることを確認できる。
シンボルは記憶を強化し、文化を継承するのだ。
ナポレオン3世のダイニングルームに
「陽の下に新しきものなし」
昔あったことは、これからもあり、
昔起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何一つない。
(旧約聖書『伝道の書』1:9)
飾るのはヨウジ・ヤマモト 2015−16
パリでは彼を何度かお見かけしたことがある
最後までお付き合いくださったあなた、ありがとうございます!
勲章を差し上げたいです。
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