レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

タンホイザーその他

2013-05-16 05:45:52 | 
 先日、国際欄で、デュッセルドルフで上演中の『タンホイザー』が中止されたという記事が載った。「ホロコーストを描写した演出の生々しさに気分が悪くなり、体調不良を訴える観客が続出したことが理由という。」
「演出家の意向で、ナチスの時代に設定を置き換え、4日から上演されていた。演出家が内容の変更を拒んだため、今後は、音楽だけを上演する。」

 ワーグナーのオペラでナチスと重ねるという演出はむしろ陳腐なくらいだというし、『指環』でヴォータンがヒトラーなんていうのはまだわからんでもないが、タンホイザーをどうやってナチ時代にするんだ?
 中野京子さんによると、衣装代をケチるために現代に移してしまうということはありがちだそうだが、目の楽しみが減ることは間違いない。

 私はワグナー作品では『タンホイザー』と『ローエングリン』と『トリスタンとイゾルデ』、もう10年以上まえに『指環』を見た(いずれも舞台ではない)。
 某オペラの本に、初めてオペラを見に行く人は決してワグナーを選んではいけない、やたら長いし進みが遅いしで眠くなる(その点『カルメン』はいい!)と書いてあった。私は今回納得した。
 まえに見た『指環』の時にはあまり感じなかった(題材への関心が強いという理由が大きいか?)。
 『ローエングリン』はわりにとっつきやすいと思った。
 『トリスタンとイゾルデ』、これはもう閉口した・・・。 そもそもけっこう長い、登場人物もエピソードも多い話を思いっきりカットして単純化している、それを、4時間近くも延々と・・・。半分で充分だ!と叫びたくなった。白状すると、かつて「ペーパーオペラ」で読んだときのほうがはるかに面白かった、相愛の仲なのに伯父の求婚の使者としてやってきたトリスタンへの屈折した愛憎をイゾルデが述懐し、毒盃を共にあおって死のうと計るくだりなど。
 『タンホイザー』、「ヴァルトブルクの歌合戦」と、聖女エリーザベトが結びついて伝わる物語であり、ほかの作家にも取り上げられている。アイヒェンドルフの『秋の惑わし』、悦楽の果てに悔悟の道を、という展開もまたタンホイザーのヴァリエーションと言える。
 しかし。ヴァーグナー版は、タンホイザーの救いのために自らの命を捧げて祈るエリーザベトを設定している。どうも私はこれが気に入らない。ヒロインに自己犠牲要求しすぎ! 「愛による救済」といえば、(見たことないけど)同じ作者の『さまよえるオランダ人』のゼンタもそうである。しかしこちらは、冷静に考えて彼女の行動は常軌を逸している、それがかえって面白みになっているような気もするのだ。その点エリーザベトは、けなげすぎて嫌だ! 彼女のおかげでタンホイザーは救われ、教皇の杖に芽がふくという奇蹟が起こり、ハレルヤ、ハレルヤ、とーーーへっ、なーにがハレルヤだっ! 教皇の心の狭さが二人を死に追いやったんだろうが。 私がヴォルフラムだったらひと太刀浴びせてやりたいわっ!
 『指環』で異教の世界を取り上げた作者なのだから、女神ヴィーナスを単純に悪役と考えていたとも思えないし、ラストのハレルヤにも大いに皮肉が含まれていたのではないかとは思う。
 
 ハインリヒ・ハイネの描いたタンホイザーは、ヴェヌスとの日々に少々飽きて、教皇のもとへ行く。そこで女神がいかに魅惑的かと延々と述べる、おまえ懺悔じゃなくてノロケに来たのかいと言わずにはいられない。もちろん許しなんぞ得られないけどそれで気落ちもせずにまた女神のところへ幸せにもどっていく。 こちらのほうが私はずっと好きである。

 もっと言うならば。
 ナチものにどっぷりと向き合ったことのある身にとっては、肉欲に耽ったごときで罪などと呼ぶことからして片腹痛いのだ。
 あれ、もしかして、件のナチ時代に移した演出って、タンホイザーが強制収容所で悪いことしてた過去になっているなんていうのか?それならば許されなくてもわかるんだが。原作破壊に違いはないが。
コメント (2)
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