玉造駅に貼られていた説明図。
幸村ゆかりの地めぐり続きます
改めまして『真田丸』とは何ぞやを簡単にご説明しますと、大坂冬の陣の折に、大坂城の惣構(そうがまえ)のなかでもやや防御に難のあったと言われる東南部に幸村が築いた出城のことです。
上の写真でみると真田丸跡地を囲んだグリーンの破線の上部部分まで、秀吉の時代には惣構があったと言われています。今の大坂城は、地下鉄の駅一駅分くらい更に上にあがったところにありまして、つまり秀吉の時代には現在の広大な大坂城+一駅分の土地が惣構内にすっぽりと入ってしまうわけです。合戦の時に商人が城内に残って商いをして云々、みたいな描写が『真田太平記』に出てきて今一つピンとこなかったのですが、実際に来てみると、城の内側だけで一個の町として機能していたのがうなずける広さです。その先端にある真田丸。家康に外堀を埋められる前ですから、ホント城の末端に突き出た要塞、という感じですね。
出城の痕跡は当然ながらありませんが、長く伸びる坂道と、人工的な角度の曲がり道が当時の雰囲気を伝えています。
1枚目の写真左上の角の部分。写真だとわかりづらいですが、フェンスの角度が砦っぽかったです。
真田丸予測地のど真ん中を通る、心眼寺への坂道。
真田父子の菩提を弔うために建立された心眼寺。
出丸城跡の文字が。
墓碑は最近建てられたものだそう。
真田丸跡地付近にはもう一箇所、『鎌八幡』で知られる円珠庵というゆかりの場所があります。幸村が冬の陣の際に戦勝を祈願して霊木に鎌を打ち込み、見事勝利を収めたというのですが、残念ながら境内は撮影禁止です。
お参りさせていただきましたが、木の幹に無数の鎌が打ち込まれ、ちょっと息をのむ光景です。そもそも、あれだけ打ち込まれて木が枯れないというのが不思議で仕方ありません。大河ドラマでは穏やかな策士といったイメージの幸村ですが、ここでは身命を賭して戦いに挑む、厳しい覚悟を持った猛々しい武将としての一面が垣間見えます。
冬の陣で真田丸で素晴らしい戦いを見せたものの九度山に蟄居となり、14年の歳月の後、外堀を埋められ丸裸にされた大坂城を守るべく、さらに前線の茶臼山に陣を張ることになります。
1枚目の写真には入り切らない、もっとずーっと下ですね。
大坂城での人質生活から真田丸での活躍、そして茶臼山での激闘。
400年前に駆け抜けた幸村の息遣いが、少しずつ聞こえ始めています。