『年経る樹』(1968年)『今、ふたたびの京都』求龍堂より
晩秋に青蓮院の大楠は若葉の色に広がりて照る
「京都は今描いといていただかないとなくなります」
川端康成のこの言葉に後押しされるように魁夷画伯が描いた京都をまとめた『京洛四季』。
魁夷画伯からの依頼を受けて川端氏が書いた序文(都のすがた――とどめおかまし)の冒頭にあるのがこの一首です。
序文を書くにあたって改めてこの大楠を見にいった時、樹齢800年を超えると言われるこのなじみの大楠に、葉色のみずみずしさを発見して感動したから、と続きます。
川端氏が訪れたのは晩秋で、私が行ったのは真夏と季節は違いますが、この大楠を訪れて最初に目に入ったのは、その緑の豊かさでした。
近寄ってみて枝ぶりの複雑さ、苔むして盛り上がった樹根に目が行き、この老木が経て来た年月に思いを馳せることになります。
『年経る樹』とつけられたこの絵は、構図の視点が今でもひと目で「ここ」とわかるくらい(一番下の左の枝などは特に)、かなり忠実に写生されているものの、枝や樹根のうねりはデフォルメされて、禍々しさすら感じさせます。生き延びるためには、綺麗ごとだけではなく、醜さや悲しみもくぐり抜けなければいけない。厳しい時を経てなお、このように見事な姿を見せる大楠に画伯は心を魅かれたのではないでしょうか。同時に人里でこれだけの木を残すためには、陰で多くの人々の努力があったに違いありません。画伯の視線はまた、そうした名もない人たちの献身にも注がれている気がします。
青蓮院門跡は円山公園へ抜ける道の脇にあって、私が訪れた時にも、この大楠の傍の狭い道を何台もの観光バスが通り過ぎていきました。静謐なだけの空間(車がなければ静かですが)とは言い難いですが、大楠は動じることなく自分の場所に立ち続けています。