ぶらっとJAPAN

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細見美術館【伊藤若冲 ―京に生きた画家― 展】

2016-08-04 21:41:57 | アート

鶏が、すべてです

 

鳥関連の話題ばかりで恐縮ですが、京都・細見美術館の伊藤若冲展に行ってきました。

着いてすぐにポスターの下に「『動植綵絵』の展示はありません」と大きく書かれた文字が目に入り、うん? と思いましたが、現在、相国寺承天閣美術館で『動植綵絵』30幅の複製画が展示されているからみたいです。なるほど。

細見美術館は「京に生きた画家」の副題どおり、細見コレクション+若冲と関わりのあったお寺所蔵の画で構成されていて、そのほとんどが墨絵です。晩年は生活費を稼ぐために画材のお金がかからず、細密画に比べれば早く完成させられる墨絵を量産したなんてことも聞きますが、そのタッチや墨の濃淡にみられる熟練の技は美事で、『動植綵絵』とはまた違った魅力があります。

特に『鶏図押絵貼屏風』はお気に入り(ポスターの画はその一部です。)きっと細見コレクションの中でもご自慢の一品と思われます。

前にこのブログでも書きましたが、とにかくすべてが完璧です!

躍動感と情の深さを感じさせる番(つがい)のアイコンタクトも素晴らしいですし、絶妙のかすれ具合で円を描く尻尾、適度に省略され、なおかつ鶏の体のふくらみの柔らかさ、その羽根の精巧さが滑らかな筆遣いで表現されており、毎回つくづくと見入ってしまいます。

これは晩年の作品で、40歳代の頃の鶏図も合わせて展示されていましたが、生き生きとした描写は、後年の方が断然上です。

墨絵はディテールも大事ですが余白が映えるので、それを意識した構図も多く、画面のリズムが良いんですよね! ああ、つい興奮してしまいます。

今回の展示で目を引いたのは、船旅の経験を生かした『乗興舟』の一巻。普通の版画では残すべき線を逆に彫って紙を貼り付けて拓本をとる(白抜きの闇夜みたいな出来上がりになる)、と言うのが基本の技法ですが、その中にも墨の濃淡があったりして、実は現在では行程の謎も多い、再現不能な幻の技なんだとか。

個人蔵なので、なかなかお目にかかる機会もないと思われ、技法の謎とともに惹きつけられた一巻でした。その版木の一部も同時に展示されています。

そして今回は、画家・若冲だけでなく、青物屋の主人、また寄合の顔役としての若冲の姿を垣間見られる資料も展示されていました。壬生寺に奉納した能面だったり、寄合で問題があった時に若冲が奔走した記録だったり、実務家としての若冲もかなりの人物だったことを伺わせる面白い資料です。

個人的には『鼠婚礼図』がツボでした。始まる前から既に酔っぱらって、尻尾をつかまれ引きずられてくる招待客(鼠)の姿がとてもカワイイです。

若冲の描く動物たちはいつだって生き生きと躍動感があって、喜びや愛情に満ち、またとても愛嬌があります。だから、若冲本人も、きっとおちゃめで元気な人だったのでは、みたいなことを以前書いた気がしますが、今日は、ふと、現実がそのように満たされていたら、こんな画は描かないのでは? と思いました。その人となりの本質はともかくとして、今の自分には持てないもの、叶えられないことを創造物に託すということもありえるのではと。

そう考えると、実務家としての顔を持たねばならなかった若冲は、現実世界では深い葛藤や鬱屈を抱えていたのかもしれません。

虚構の世界でだけ自由に生きられる。冒頭の鶏図で観られる野放図なまでのエネルギーの爆発は、晩年にして若冲がようやくたどり着いた自由な境地の発露かもしれないですね。

 

私が行った時は、たまたま団体客が入ったばかりで混雑していましたが、その方たちが観終ったあとは、それほど苦労せず、じっくりと鑑賞することができました。まあ、暑いですし、細見美術館の若冲コレクションは人気があり、各所で目にする機会が多いからかもしれません。

晩年の自由闊達な若冲を堪能したら、今度は求道者としての若冲を観たくなってきました。次はぜひ承天閣美術館の展覧会を観に行きたいと思います。複製とはいえ全30幅が並ぶ様はきっと壮観にちがいありません

コメント
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