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沖縄から東京へ!流転の写真日記

【未完のレーニン】近代資本制社会における国家の実像

2014-01-20 | UNITE!NIPPON


世界史が階級戦争の歴史であることは、すでに古くから知られていた。
実際共産党宣言の新しさはその点にあるのではない。
共産党宣言の新しさと魅力は、それとは別のものである。
すなわち、階級闘争を人類史上唯一最後の闘争、
つまりブルジョアジーとプロレタリアートの緊張の弁証法的絶頂まで体系的に集中した点にあるのである。
多数の階級の間の対立は、一つの最後の対立に単純化される。

およそ単純化ということは強度の異常なる昴進を意味する。

     ●

この図式に、ブルジョア社会の構造の強さと弱さが集約されていると言ってよい。
言い替えれば、プロレタリア革命の困難と可能性とが同時に現れているということだ。

いま述べたように、この図においては、
ブルジョアジー(C1)とプロレタリアート(C2)とのあいだの闘争的な関係は、
ブルジョアジー(C1)と国家(state)とのあいだに置換される。

このことは、ブルジョアジー(C1)は実際には根源的にプロレタリアート(C2)と対立関係にあるにも係わらず
プロレタリアートと直接的に闘争せずともすむ、つまり階級闘争において自らの力を費消する必要がないということを意味する。

ブルジョアジー自身の代わりに国家がその闘争を代行してくれるからである。

支配階級が自ら武装することなしに支配を維持するシステムを手にしたのは、
有史以来おそらく初めてのことだろう。
この巧妙な仕組みが、ブルジョア社会におけるブルジョアジーの強みの一つである。

さらに、ブルジョアジーにとっての決定的に重要なもうひとつの利点がこの構図にはある。
ここでは、ブルジョアジー(C1)はもはや直接的にはプロレタリアート(C2)を支配しない。
なぜなら、述べてきたように、資本主義的搾取は人格的支配によってではなく経済過程を通じて行われてるからである,

したがって、ブルジョアジーの道具としての国家がなすべきことは、
この経済過程を支える商品売買秩序ーーより端的に言えば私有財産ーー
(ブルジョアジーにとっては生産手段であり、プロレタリアートにとっては労働力商品)を、
社会の全成員に対して普遍的に維持・保証することのみであり、
そしてこれを実行するのが法体系とその背後に控える国家の暴力装置である。

そしてこの際、
法秩序は社会の全成員に対して普遍的に妥当するものとして現れるため、
国家権力は脱人格化される。

かつてミシェル・フーコ―は『監獄の誕生』において、
犯罪の概念が王の身体という具体的人格に対する侵害から
抽象的な秩序に対する侵害へと変容してゆく近代の歴史過程を描いたが、
この過程は国家権力の脱人格化と相即していると言えるだろう。

このようにして、ブルジョア国家は、国家暴力の人格的起源を措定することのできない、
すなわち特定の人格とは無関係な(ものとされる)『法の支配』が貫徹する法治国家として、現れることとなる。
このことから次の事柄が帰結する。

それは、軍隊・警察・官僚からなるこの行政的執行能力ーーこの真のブルジョア国家権力ーー
の直接の人格的担い手は必ずしも資本家であることを要しないということである。
ということは、この執行能力がどのような階層によって担われようと、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しさえすれば、
資本家階級は、商品経済的な価値法則を通じて階級搾取を自動的に実現することができるからであり、
したがって、それが資本家諸君の階級抑圧のための組織された暴力にかわりはないからである。

このことは、逆に言えば、ある国家権力がブルジョア権力であるか、否かは、
その直接の人格的担い手がブルジョアジーであるか、否かによって定まるのではなく、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しているか、否かによって定まるということを意味する。


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