○◎ Great and Grand Japanese_Explorer ◎○
探検家になるために必要な資質は、臆病者であることです =植村直己=
= Webナショジオ_“河江肖剰-新たなピラミッド像を追って”より転載・補講 =
☠ 自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場でいたい ☠
◇◆ 『青春を山に賭けて』の時代 8/9= ◇◆
6時前に起き出して、7頭のヤクを1000メートル上の山へ放牧に連れていく。 ヤクを遊ばせながら、せっせと枯れ葉、細い枯れ枝を拾い集め、背負ってきた大きな竹籠に入れる。 昼食はトウモロコシを煎ったもの。ふところから取り出して、動きながらポリポリとかじる。 夕方、家に帰ってくるまで、精一杯体を動かして働く。
《娘たちは町場の子供より色は黒いし、身なりは少しも構わないが、丸顔といい、黒い髪といい、細いが切れ長の目といい、きりっとした感じでとても可愛い。日本の子供と似ているが、年齢より幼く見える。走ったら、きっとカモシカのように野を越え谷を越えていくだろう。》(『エベレストを越えて』「ヒマラヤ越冬」)
そして娘たちへの讃嘆にひきつづいて、彼女らの将来、ひいてはシェルパ族の将来について本気で心配しているのである。
日記・覚え書で目を惹いたのは、ペンバとケンチの家系図を詳細に書いていることだ。祖父祖母の代からはじまって、夫婦のあいだの子供たちまで、こまかく記入されている。
植村はネパール語がほとんどできないし、おかみさんのケンチは英語ができない。おそらくはカタコトの英語ができるペンバの弟のカミ・パサンが協力してくれたのだろうが、ほかにフードルジェというシェルパの家、カミ・パサンの妻の家の家系図もつくりかけているのを見ると、植村のシェルパ族への親愛感はきわめて深いものであることが見てとれるのである。
植村はペンバの留守の家で、家族と一緒に現地の食事をとる。たとえば、ジャガイモと麦こがしのツァンパを混ぜたロティというバター焼。バター(ギー)はヤクの乳からとったもので、シェルパ族の食事には欠かせない。そういう現地の食事を、植村は本気でおいしいと思って食べるのである。
朝6時半に起床。いつものようにトレーニング開始。気温はマイナス5℃。12月10日の日記の一部を読んでみよう。
《この時間にはまだ村人は誰も外には出ていない。家の屋根からところどころ軒煙りが立っている。村のはずれの上部にある水場には女子供が三~四人、朝の水くみにタルを頭にかかげて来ている。(中略)
いつもながらエベレストを眺めては、心は来年のエベレスト遠征の空想にふけりつつ走るのだった。まだ初めて四日目。四〇〇〇メートルの高度で起伏のあるコースを走ることは大変だ。(中略)
俺がここでチベッタン茶を飲み、ジャガイモを食べ、ペンバの家に居るのも、又凍りつく朝の寒さをこらえてトレーニングできるのも、エベレストがあるからだ。このクムジュン生活はすべてエベレスト頂上にかけている。ここまでしてエベレスト頂上に登れなければ、自分という人間がそれだけ至らなかったのだ。ここで考えなくてはならないのは、アコンカグアやアマゾン河での単独行動ではないことだ。
来年のエベレストは十五人のクライマーが来るという。そうすると、いかに自分が頂上に登ろうとしても、他の十五人も俺と同様に、心に強くエベレストの頂きに立つ夢と野心を燃やしているのだ。こういった人たちと競って先に頂きに立とうとするのが自分であろうか。いや、そうでありたくない。
十五人の和でもって、誰かが選ばれれば良いのだ。その時には自分が選ばれなくとも、それは我慢しなくてはならない。俺はエベレスト遠征隊の大きな歯車のひとつにすぎないのだ。(中略)
こんな中で、俺は自分は登頂メンバーでなくてはいけないと思っている。チャンスは二度と来ないのだ。どんな事があっても逃がしてはならない。このチャンスを摑みとることによって自分の今後が大きく変わっていくだろう。》
矛盾した思いが、そのままに流れているのが手にとるように読み取れる。
年の暮れに、植村は準備もあっていったんカトマンズに下りた。そこで植村を打ちのめすようなニュースが待っていた。
山を下りた植村はカトマンズで、ふだん世話になっている日本大使館の松沢氏から、大塚博美氏は登攀隊長ではなくなった、と聞かされた。植村は「卒倒しそうになり、目の前がくらくらと昏(くら)くなった」と書いているが、これは大げさな表現ではない。彼は打ちのめされ、今後どうすべきか、さんざん思い惑うのである。
明大山岳部の大先輩である大塚氏が、そもそもエベレスト登山隊への参加を誘ってくれたのである。アルバイトで日を送っていた植村をいわば拾いあげて、二度にわたる偵察隊のメンバーとし、高地での越冬もとりはからってくれた。その結果、植村は是が非でもチャンスを摑みとろうという気になった。
=補講・資料=
メスナーだけじゃない!すごい海外の登山家まとめ=ガーラン・クロップ(その1/2)
2002年のパタゴニア遠征にて、巨大で難攻不落の大岩壁をクライミング中にカラビナ(安全補助器具)の破損と言う予期せざる状況で墜落死する。 しかし、1996年のセンセーショナルなエベレスト大量遭難事件発生時にエベレストを攻略した彼の単独登頂は彼を冷静沈着な登山家としてその評価を世界に知らしめた。 その経緯を記せば・・・・・・
1995.10.16、ガーラン・クロップは、エベレスト単独登頂を目指して、装備一式を積んだ自転車でストックホルムを出発した。 途中、ルーマニアで盗難、イランとパキスタンでは暴行…といった被害を受けながらもカトマンズに辿りつき、入山からベースキャンプ設営する。 彼の頂上までの計画はシェルパに依存しないインディペンデント(単独)の無酸素登頂という壮大な計画だった。 彼はB.C.を離れ、クレバス地帯をぬけ、途中二泊の野営を費やしてノーマルルートからサウスコル(7980m)に至る。
彼は1996.5.3、午前0時にサウスコル(7980m)を出発した。 新雪のため登行ははかどらず、午後2時に8750m地点に達、午後2時というのは、登頂後下山すべきタイムリミットである。 これを過ぎると、明るいうちに、最終キャンプであるサウスコルに戻れない。 頂上まで、高度差100m、あと1時間で登頂というところで、この29歳の登山家は、賢明な勇気ある決断できびすを返し、下山する。
この最初のアタックでも彼はたった一人でラッセルし8750m地点まで到達するが、時間切れを見て取り撤退。 山頂まであとわずかに迫りながら撤退。 多くの犠牲を払ってあと一歩というところまで来ていながら、天候も悪くないまたとない条件で、こうした判断を冷静にくだせるということは、並みではない。 いかにも、ストックホルムから着実に自分の足でやって来た男の真骨頂というものだ。
最初のアタックで消耗した彼は一旦BCに下山。再挑戦をかけて体力回復に努めている時に惨劇のニュースを聞くことになる。 ・・・・・つづく
動画資料:登山史上最悪の遭難事故エベレスト大量遭難 =クリック➡
https://youtu.be/mHJZ9s0W1wU
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
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