【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_15_

2015-09-07 14:31:05 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

○◎ ヨーロッパ遠征軍の編成 と 緒戦の成果 ◎○

1236年春2月、モンゴル帝国第2代ハーン・オゴデイの命を受けてモンゴルル帝国の次の時代を担う皇族・諸侯・部族長の若者たちが西に向かった。 アルタイ山脈は南に位置するジュンガル大草原を西に渡り、南がら迫りくる天山山脈の北側に沿って高原地帯を踏破しつつ、エビ湖から海抜4000mのサリム湖に上り、ヨンセンスウヒャクメートルの峠を越えて、イリ渓谷へ下っていく。 南側の山腹には野生のリンゴが密生する。 降りきり、広域の伊利川本流沿いに西に進めば、バルハシ湖に至りて、キルギスの大草原南東端に進軍でするのである。 ジュチ・ウルスとの境界部に当たる。

平時において、モンゴル帝国内の遊牧民は 千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の家長を統括責任者として 組織していた。 千人隊長は十人の百人隊長を収握し、百人隊長は十人の十人隊長を収握する十進法で社会構成を組織化していた。 この組織構成は 兵士を動員することのできる軍事単位としても扱われ、その隊長たちは戦時に 彼が収握する員数の兵士を引率して参集しなければならない責務を負っていた。 例えば、 ジュチがチンギス・ハーンから封土ジュチ・ウルスを分与された折 5000人隊が与えられている。 5000家族と共に、蒙古高原中央部からアルタイ山脈西方の新天地にジュチたちは移動し、新領土建設に励んでいた。

戦時においては、 この千人隊長がモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められていた。 チンギス・ハーンが定めた軍法=ヤサ=です。 また 各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴なって移動し、一人の乗り手に対して3 - 4頭の馬を準備する事。 兵器は各自を携える事。 兵糧は百人隊長が滞りなきよう賄う事、等々 参軍の詳細が定められていた。 このために 移動・進軍する兵士たちは 日常生活の延長に戦いがあり、消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。 兵糧を各小隊が自ら賄ったのである。

そのため、大陸における大蒙古軍の機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をタタール(モンゴル軍)は日々の生活の中に秘めていた。 戦に臨めば、その機動性・破壊力は高性能な爆撃機の集団と化す。 チンギス・ハーンが健在の頃には、千人隊は高原の中央に遊牧する皇帝直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボルチェがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。 盤石の体制でユウラシア大陸の中央部に敷いていたのである。

モンゴルル帝国第2代ハーン・オゴディの時代、ヨーロッパ゜遠征に向かう軍団は、前記のしたように、ジュチ家の家督を担うバトゥが統括の任・総指揮官であるが、第2代皇帝の指揮下であり、オゴディ家、チャガタィ家、トルイ家の各々の皇子は 腹中に己が利害を秘めて参戦していた。 千人隊長ははともかくとして、 多くの百人隊長は戦勝で勝ち取った新しい土地に住みつき、蒙古高原には再び帰らない腹積もりで参戦しているのだ。 =モンゴル族の血が拡散し、今日ユウラシア大陸の各地に彼らの子孫が散在している=

新しい領土の所有権は統括の任・総指揮官であるバトゥが権限で公平に差配される。 千人隊長は 戦いへの貢献度に応じる益を 十二分に甘受して、帰国の途に就く。 遊牧民の指導者にとって、千人隊長にとっては 外部への侵略と占有は 領民を富ませる有効な手段と成っていたのである。

遠征軍はこの年の夏中を移動で過ごし、秋までに当時のジュチ家のオルド゛(幕営・宮廷地)があった西方への要路≪イリ渓谷≫にまで到着した。 1236年から1237年までの冬季に、遠征軍はまずアス人とブルガリア人の征服に取り掛かった。 宿将スブタイはヴァルガ・ブルガール地方に入るとブルガリア市を攻撃した。 

この侵攻に、その地の首長バヤン、ジグらが 遠征軍のタタール(モンゴル王侯ら)に帰順を表明してきた。 バトゥに命じられていたスブタイは、彼らの懐柔・服属工作を任されていた。 スブタイは やはり チンギス・ハーン“4匹の狗”です。 他の逸る貴公子たちでは緒戦の戦いで勝利しても、今後の展開に齟齬をきたす結果を生んでいたであろう。 年若いとはいえ、大祖父の訓育を受けたバトゥは確かに大蒙古帝国を受け継ぐ器を示している。

1237年の春、遠征軍はキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施にし、作戦会議で左翼をモンケに任せた。 モンケの左翼軍はカスピ゜海沿岸を進軍し、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺した。 遠征軍はの進軍による占領地の拡大に伴い、カスピ゜海沿岸地域で夏営した。 この時期、カスピ゜海沿岸からカフカス(コーカサス)北方までの地域にいたブルタス族、チュルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが帰順・征服された。

 

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森のなかえ

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