「兄者、そのことを話そうとしていたのですよ・・・・何蕎さまから、兵糧と兄弟の任務の件はセデキ様が総て善処される故 急ぎ兄者を伴ってセデキ様に会えとの伝言でした・・・・・また、宋江殿が同行されると言われたのです」
「そうであったか、梁山泊の首領で酒量、失礼、の豪傑が現れた旨は判ったが、先ほど 『似ておられる、その言いよう そして その豪傑髭・・・・』と我が顔に能書きを貼られましたな・・・・・・ いや、この程度の酒では頭脳は冴える一方、聞き違えや失聴など・・・・」と 康阮が問い返した。
「なんの、今 申したように セデキ・ウルフ殿にお会いした翌日 梁山泊の呉用に この地に来るように文を出した。 天機星・呉用は梁山泊の軍師、荒くれ者が多い梁山泊の中で我が心情を最も良く理解してくれている人物と言える。 江南の方臘討伐は全て彼の献策、また 村民や土地の破落者を扇動しての宋軍後方攪乱など不可能であったろう・・・・元は寒村に隠棲していた書生だったのだが、江南の方臘討伐後、官位を授かるが辞退した清廉な人物。」 と 一口酒を含んで、
「セデキ殿は新生梁山泊の晁蓋に宋と金の緩衝地帯、東西の幹線交易路の偵察活動を任せるお積もりらしい。 晁蓋には挙人(郷貢進士)の王進が軍師として仕えている。 王進は武術師範でもあり、彼の命に服する者は多い。 されば、我が軍師の呉用は浮き上がる。 それゆえ、呉用と燕を呼び寄せた。 三人で耶律大石殿の夢を支えるつもりでいる・・・・・ 」 康阮と康這は圧倒され、ただ 互いに視線を合わせている。
「その呉用が間もなく現れる。 呉用は寡黙だが、口を開けば 猪突猛進 雷獣の叫び。 だが、失敗もすれば冗談も飛ばす。 しかし、手段を選ばない策を用いて失策を逆転する機転など、かえって 仲間内での信頼度は比類がない。 諸葛亮孔明のような神懸り的な人物ではなく、ハッハッハー、失礼、失礼・・・・・、康阮と瓜二つなのです」
「なれば、私は二人の兄を持つことになる。 楽しみが増えた。 兄者、明日 宋江殿を案内して楡林に戻って下され。 副将の耶律虎古に後を任せて 雁門関から燕雲十六州を北に抜け 三関口長城 鄂爾多斯を横断して沙谷津に渡り、興慶に来てもらいたい。 私は何蕎さまにお世話になり、興慶にて兄者と呉用殿、燕殿を出迎えます。 また、宋江殿が懐に納めておられるセデキ・ウルフ殿が発せられた公文書にて、楡林のウイグルの商屋は虎古以下50余名の兵糧を賄ってくれるはず。 昊忠に居る耶律胡呂には兵糧は心配無用と伝えてあります。 胡呂と虎古との連絡もこの宿にて決められた日に行うことも」
「承知した。 まだ宵の口、康這 酒が空に成っている。 それに、当ての追加じゃ・・・・」
蒙古高原は未だに朝晩の寒さは強く、昼間との温度差が大きい。 日没に伴い暖がいる。 しかし、足元の茶褐色の草の根元をよく見れば春の息吹が覗える。 草原の遊牧民は、この時期足元を馬の蹄で掘り起こす事を 大地を傷つける事を極度に嫌う。 自ずと通行路とする道ができる。 その道を辿って北方より、鳥海の商人・忠弁亮がバイカル湖の南で山丘が南面で冬の野営を営むキルギス村落を回り、可敦城に戻って来た。
120余頭のラクダを連ねるその隊商の先頭には、左右に畢厳劉と多郁が忠弁亮を挟むように前後していた。 駱駝を扱う隊商員が十数名、それぞれに十余頭のラクダを一直線にして後続している。 駱駝の踏み跡が草原を痛めないようにする知恵でもあろうか。 畢厳劉が与党の二十名の騎馬武者達はその長蛇の脇に寄り添って可敦城に帰還してきたのである。ラクダの背には羊の毛皮、貂、狼、野兎の獣皮が摘まれていた。 獣の皮は夏場に猟をして集めていたものであろう。 羊の外皮は越冬用の食料としてした商品であろう。 遊牧民の現金収入であり、物々交換の代貨品である。
北庭都護府・可敦城は約一ヶ月で整備が進み、堅牢な砦に変貌していた。 耶律大石総師はじめ、兵糧管理を管理する耶律磨魯古、東方のタタル族の動向を探っていた耶律楚詞、燕京・興慶の伝令に向かっていた石隻也が北から帰って来た畢厳劉をでむかえている。 耶律磨魯古が己の采配で、帰着した一行の隊商随員の夕餉と明朝の食事を砦内にて越冬しているウリヤンカイ部族の長であるボインバット一家に命じていた。
旅の報告に来た忠弁亮に大石は北方の様子や、旅の苦労など 夕餉の折の談笑に時を過ごした大石は、「明朝の出立と聞き及んだが、耶律磨魯古を同行させてもらいたい。 鳥海から、陰山に設けている砦に運び入れる兵糧を調達の上,運んでもらいたい」といった。
「冬季の商いは少なく、誠に有りがたいお話、されど 陰山南麓は荒れ地の砂漠と原野の連続、私くしはあの方面には商いの覚えなく 道不案内ですが・・・・」
「なれば、石隻也も同行させよう。 隻也、鳥海に向かえ、鳥海からの道案内と かの地で忠弁亮殿を時か巖に紹介し、今後の戦術に必要な資材を忠弁亮殿と相談できるようにするが 務めだ。 陰山先遣隊基地を充実させる。 時か居ればよいが、不在なら 巖に基地からこの可敦城に通じるえの秘密の間道を開けと 伝え、・・・・そうだ、その任は苞力強に一任して 時は金の動向に、巖は五原の天祚帝が同行に目を離すなと伝えれば良い。 その間道が要所に水と兵糧、そうだな 25名の騎兵と兵馬 一月分を蓄積して置くことを伝えるのもの忘れるな。 忠弁亮殿に基地とこれからの戦略上の兵糧をそちらで賄えるようによく相談しろと重ねて伝える事。 隻也、過日の経験を活かしてこい。 う・・・・その顔つき、 何か不満か・・・・・」
「いえ、やっと 楚詞皇子から本場拳法の手ほどきを受け初め・・・・・」 「先は長い、弓矢を修得したように 旅先で工夫いたせばよいではないか」
「隻也、足腰が他者以上に鍛えて来たのか、短時間で教えた型が安定しており、美しい。 旅先で 日々 学んだ型の復習に工夫を加えるも修行の一つ。 自ら励めば・・・・・」 「石隻也と言われるか。 初めてお会いしたと思いますが。 石姓ならばパミールから西方が故地の人。 それに、五台山の拳法は、私も収得してますが・・・・・」
「忠弁さま 私は、両親を幼い頃に宋との戦でなくし、遠縁にあたる安禄衝さまに養われて、ご子息の安禄明さまに商いを教えられたものです」 「なんと、あの 我らがウイグルの長、安禄衝殿の身内なのですか。 一度 燕京にてお会いする機会があり、以降 西夏と遼との商いでなにかと関係があります。 また、私も若かったのでしょうか 見知らぬ新天地へ隊商を率いて行く危険を防ぐべく体技を修得せねばと、安禄衝殿に紹介状を書いていただき、五台山で修行したのです」
「さて、 安禄衝殿が推薦された五台山の修行場なら、慧樹大師様をご存知でしょうか・・・・」 「えっー!!!、慧樹大師様・・・・ 我が師ですよ。 耶律楚詞皇子・・・・・」
「おや、されば、安禄衝殿と我が弟楚詞とは同門の兄弟か、これは良い。 隻也、陰山での任が終われば鳥海に引き返し、チムギ共々 禄衝殿宅に世話になり、禄衝殿から学ぶ思案をいたせば一挙両得。 暫く伝令に走ることもなさそうだ。 あれば、多郁を走らせる 」
「統師、一挙両得・・・・・と、申されますと」 と、畢厳劉が不信義に聞いかけている。 同時に、安禄衝が「私どもには、大石様のお身内と昵懇に成れることは喜びですし、商いの網が増々 広まって行く思いがいたします。 嬉しいことです・・・・」と言い添えている。
「厳劉よ、 楚詞と相談していたのだが、そちの帰城を期して、楚詞と五・六名の兵士で北方の部族を調服の旅に出ようと考えている。 多数の将兵を伴えば、脅しに成ろう。 ボインバットも同行願って、ウリヤンカイ部族からだが あの若者 ケレイトのグユンと言ったかな、彼も同行願いたいのだが、キルギス族、ケレイト、モンゴル、タイチウト氏族、ウリヤンギト氏族、メルキトとオイラトの族長には是が非でも合いたいと考えている。 それ故、準備ができ次第 この砦は、そなたと磨魯古、曹舜に任せたいのだが・・・・」
「されば、磨魯古が鳥海から必要な兵糧や各氏族への手土産を調達して、帰城した以降の出立に成りますかな・・・・・」
「そのように考えて居った。 忠弁亮殿 お聞きのように、明日 耶律磨魯古と石隻也が同行して青海に降りますが、まず 陰山南麓に運び入れる兵糧のお世話と北方に向かう手見上げの調達を お世話願わねばならないが・・・・・・」 「改まった、お話はなしにして、何時でも ご下命ください。 初めてお会いできました日より、大石様の夢に我が命も託しております。 いや、安禄衝様やセデキ・ウルフ様の口端に登り 聞き知った時からかも知れません。」
【前ページへの以降は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】
※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行
----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------
【壺公夢想;紀行随筆】 http://thubokou.wordpress.com
【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/
【 疑心暗鬼;探検随筆】 http:// bogoda.jugem.jp/
【壺公慷慨;世相深層】 http://ameblo.jp/thunokou/
・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
================================================
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます