【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_29_

2015-10-05 18:28:26 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ジュチ・ウルス旗の成立 ◎○

★= グユク皇帝への誕生 =★

グユクの生母ドレゲネが摂政として息子の推戴を狙いモンゴル帝国全土の王族たちに、自らの主導でクリルタイの開催を執拗に説いて回った。 ジンギス・ハ-ンが定めたハーン(皇帝)家であるオゴデイ家の年長者であるという理由で自らの実子であるグユクを大蒙古帝国の後継者に推し、その推戴を自らの主導で開くクリルタイでその推戴を承認させる意図のもとで。 サライから離れようとしないバトゥはオゴデイが後継者と指名していたのはシレムンであったことを主張し、帝国西方の重鎮として不参加を表明してこのドレゲネの動きを牽制した。 このため帝国は5年近く皇帝(ハーン/カアン)位が空位のままという状態に陥った。

しかし、結局1246年6月にクリルタイが招集され、ドレゲナの巧みな政治工作によって、東方諸王家の統括者テムゲ・オッチギンとその一族、トルイ家からはソルコクタニ・ベキとその息子たち、チャガタイ家からは第2代当主となったカラ・フレグイェス・モンケ、ブリ、バイダルらモンゴル王族の大部分を参加させることに成功した。さらにマー・ワラー・アンナフル総督のマスウード・ベクイランホラーサーン総督アルグン・アカとそれに随行したルーム・セルジューク朝クルチ・アルスラーン4世ウラジーミル大公国ヤロスラフ2世グルジア王国のダヴィド兄弟、その他アッバース朝、アラムートのニザール派などの使節が参加したため、帝国規模のクリルタイが実現できた。 この時たまたまローマ教皇インノケンティウス4世の使節として派遣されたプラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士がこのグユク選出のクリルタイに参加し、その様子を教皇庁に提出した報告書『モンゴル人の歴史』に載せている。

クリルタイは蒙古高原中央部にある祖父チンギス即位所縁の地《ココ・ノウル》で開かれ、バトゥも急ぎクリルタイへの参加を表明するのだが、クリルタイに間に合わず、ジョチ家は既にモンゴル本土に来着していたオルダやシバン、ベルケ、トカ・テムルら兄弟たちの参加のみで当主バトゥの不在のまま、グユクが第3代皇帝に推戴される。 そして、ドレゲネは当初の目的通り、1246年8月に、息子のグユクを大ハーンに即けることに成功し その戴冠を見届けて安心したかのよう、2ヶ月後の10月、病のために]没した。

このような経緯から、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き皇帝(ハーン/カアン)に即位した後も、グユクから再三にわたり臣従の誓約に赴くようのモンゴル本土への召還命令を受けるが、病気療養を理由に拒み続ける。 バトゥは実績からして大蒙古帝国の重鎮であり、 西方に居るとはいえ母親や祖母の出身部族の血筋から、その政治力は蒙古高原を震撼させる実力を有する存在と成っていた。 グユクのお政権はヨーロッパ遠征中に起こしたバトゥやモンケなど、多くの人物から不満があがり、モンゴル帝国分裂の危機を孕む門出であった。 一時、グユクの宿敵として危険視され窮地に追い込まれたが、叔母ソルコクタイ・ベキらがモンゴル中央の動静を逐一彼に伝えてグユクとの対処を進言して沈静化するのだが、ジュチ家のバトゥとトルイ家のモンケの結びつきが強くなって行く。

グユク・ハーンは即位後の10月、母のドレゲネが病死すると、親政を開始する。 父オゴデイの死から5年が経過していた。 グユクはまず帝位をうかがっていたテムゲ・オッチギンの審問を従兄弟のモンケとオルダに命じ、オッチギンの部下たちを処刑することで決着させ、ドレゲネが摂政を務めていた間に乱発されたヤルリク(特許状)を廃止して諸王の権力の乱用を抑え、母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑した。 また、父時代の功臣であるマフムード・ヤラワチチンカイチャガタイ家イェス・モンケをチャガタイ家の第3代当主に任命するなど重用した。 グユクの政策は父オゴデイの方針を継承するものであったといえるがジュチ家とトルイ家には距離を置いて政策を強行する。

軍事面では南宋やイラン諸地方への拡大路線を継承し、高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めた。 また、ルーム・セルジューク朝の使節の告発を受けてスルターンカイカーウス2世に代えて王弟クルチ・アルスラーン4世を新たなスルターンに任命し、王位の継承問題が起きていたグルジア王国を2つに分割した。 因みに、セルジューク朝は祖父ジンギス・ハーンが支配下に置き、グルジア王国はバトゥが占領下に置いた地域である。 しかしながら、グユクはリウマチに冒されていた上、過度の酒色のために政務を執ることができず、大臣のチンカイとカダクに政務を委任していた。

 

前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タタールが夢見た大洋_28_ | トップ | タタールが夢見た大洋_30_ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史小説・躬行之譜」カテゴリの最新記事