◆ くるみの日。頭の固い百科事典によると「く(9)るみ(3)まるい(0)」の語呂合わせだそうだが、0にはかなりのこじつけ臭が・・・。クレーンの日にしてHAPPY FM93の日とくればどうでもいい。 ◆ 『フジ三太郎』がこの日を限りに定年退職(1991年)。翌日からいしいひさいちが朝日新聞朝刊の4コマ漫画を担当し始めるが、既に30年近くもの長期連載になるとは・・・。 ◆ 日本版ニョンビョンのとある核施設で、放射性物質をバケツリレーして大量被曝(1999年=東海村JCO臨界事。
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2012年3月07日 / (Web編集部)
―シトロエン―アールト中央アジア探検隊出発!
前輪はタイヤ、後輪はキャタピラの「どこでも自動車」をシトロエンが開発し、世界ではじめて遠征隊が自動車でアフリカを縦断したことを前回は書きました(動画は見られましたか?)。 今回はその最後を飾る「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」を紹介します。
ルートは地中海沿岸のベイルートから中国の北京、黄海まで。つまり、ユーラシア大陸の横断です。
距離こそアフリカより短いものの、ヨーロッパの植民地だったアフリカに対し、当時の中央アジアは西洋にとってナゾの空白地帯。また、ルートの真ん中には世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈やチベット高原が横たわっています。
情報が少ないうえ、ルートは過酷。 それだけじゃありません。この時代の中央アジアは内乱続きでほぼ戦争状態でした。そんなキケン地帯に果敢に挑む大冒険というわけです。
もちろん、学術的な調査・研究も大きな目的のひとつでした。隊員のなかには、北京原人の発掘で有名な古生物学者テイヤール・ド・シャルダン神父の名前もあります。『愛について』とか、学生時代に読んだなあ。なつかしいですね。あ、スガシカオじゃありませんよ。念のため。好きですけどね。スガシカオも。
そこで、ナショナル ジオグラフィック協会は「シトロエン―アールト中央アジア探検隊」を支援することにします。これにより探検隊は正式な国際調査隊とされ、そのレポーターとして送り込まれた人物こそ“ミスター・ジオグラフィック”ことメイナード・オーウェン・ウィリアムズだったのです。
アフリカの遠征隊は「黒の巡洋艦隊」でしたが、アジアは「黄の巡洋艦隊(La Croisière jaune)」と呼ばれました。隊長が乗る“旗艦”はその名も「黄金のスカラベ号(Golden Scarab)」。ウィリアムズが乗りこんだのは「銀の三日月号(Silver Crescent)」。カッコいいなあ、もう。さすがフランス人。
と、準備万端な感じで、実際のところ2年がかりで準備を整えたのですが、この探検は出だしからつまずきます。当初、国内の通行を許可していたソ連が3カ月前になって取り消してしまったのです。さすがソ連!?
隊長のアールトはあせりました。2年前から方々に許可をとりつけたり、食料やガソリンをデポしておいたのに、この期におよんで取り消すなんて!
けれど、もはやあともどりはできません。やむをえずヒマラヤ山脈とパミール高原を越えるルートを選ぶと同時に、地中海からスタートする“パミール隊”と北京からスタートする“中国隊”に隊をわけて、パミール高原の東側で合流する作戦に変更しました。
ヒマラヤ越えは、アールトとしてはできれば避けたかったのですが、他に通れそうなルートがないのでどうしようもありません。苦渋の選択というやつです。
ウィリアムズは3回にわけてその模様を報告します。原稿と写真は探検の途上からも送りました。当時としてはとびきり新鮮なレポートでした。もちろんテレビはありません。ラジオも商業放送が始まったばかり。冒険先から中継なんかできるわけがない。冒険をまとめた書籍が刊行されたのは1933年になってからのことですしね。
最初のレポートは1931年10月号「シトロエン―アールト中央アジア探検隊カシミールに到着(The Citroen-Haardt Trans-Asiatic Expedition Reaches Kashmir)」でした。全58ページ。 1931年4月4日、パミール隊がシリア(現レバノン)のベイルートを出発。それからイラク、ペルシャ(現イラン)、アフガニスタン、カシミールのスリナガル(首都)まで、81日間、5545キロの行程です。
危険を避けるために、ところどころで兵隊が同行したりしてちょっとものものしい雰囲気でしたが、スリナガルまでは得意な砂漠ですし、おおむね楽しい旅路だったようです。アフガニスタンで幅100メートル近いファラーフ川を渡るときがいちばん苦労した、というぐらいですから、ヒマラヤ越え以降と比べたらたいしたことはありません。
たとえば、ウィリアムズはこんなふうに書いています。
「バグダッドを出発し、ペルシャを目指して砂漠を抜ける。大きな砂丘を越え、イラクとペルシャの国境に近い町、カナキンに向かった……はるか彼方のカシミールを目指すこんなキャラバンが町を訪れたのは、きっと紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の遠征以来の出来事だろう。ペルシャの風景は、どんなに繊細な絵画でも正確には描けないほど美しかった。岩山に囲まれた緑豊かな谷、広大な平原のそこかしこに青々と茂る草木――春のペルシャの風景はほれぼれするほど美しい」
・・・・・・・・・明日に続く・・・
次回は “ 追考 ; 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー (3/5) “ に続く・・・・・
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