偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏679妙高山(新潟)勝軍地蔵

2016年08月29日 | 登山

 妙高山(みょうこうさん) 勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)

 【データ】妙高山 2454メートル▼最寄駅 えちごトキめき鉄道はねうまライン・関山駅▼登山口 新潟県妙高市関山の燕温泉▼石仏 妙高山山頂、地図の赤丸印。青丸は天狗堂▼地図は国土地理ホームページより

 

【案内】 燕温泉の奥に薬師堂がある。お堂から左に登るのが北地獄谷、右が燕新道コース。燕新道は二合目で血ノ池、長助池のコースに分かれる。妙高山へのかつての登山道は、関山神社から姥堂-燕温泉-血ノ池-光明・称名滝-天狗堂-興善寺池-山頂・阿弥陀堂と行場を巡りながら登ったという。それぞれの行場には神仏が祀られていたのだろうが、近世期まであった山頂の阿弥陀堂の善光寺式三尊仏は関山神社の阿弥陀堂に、参道に散在していた石仏は阿弥陀堂脇の覆堂におろされたと、大場厚順氏の「妙高山信仰の変遷と修験行事」(注1)にある。したがって登山道にかつての古い石造物は見当たらない。天狗堂にある石祠は昭和32年、山頂の将軍地蔵は昭和17年の造立になる。


 将軍地蔵造立の経緯が刻まれた石碑によると、大東亜戦争の必勝祈願、天下泰平、世界平和、五穀豊穣の神として祀ったという。高さ55センチ。甲冑を着け馬にまたがるその姿から武士に信仰された勝軍地蔵は将軍とも書き換えられた。一般には京都・愛宕山の本地仏で火伏の神としての信仰が厚い。本地仏といいながらも勝軍地蔵を解く仏典はなく、諸学説を踏まえて「我国古来の祖霊信仰や防塞信仰に地蔵信仰が習合して愛宕信仰にまとまっていった」……ということを「愛宕信仰と勝軍地蔵」(注2)で書いたことがある。


 山頂から北峰への途中の岩の下に「奉」の銘がある古い手水鉢を見た。妙高山信仰の行場の一つ「胎内の水」であろう。
(注1)『山岳宗教史研究叢書8』昭和53年、名著出版
(注2)『日本の石仏』77号、平成8年、日本石仏協会
 勝軍地蔵はこのブログの栃木の愛宕山福島の愛宕山京都の愛宕山でも案内した。

 


【独り言】 燕温泉を朝5時に出て一番楽な北地獄谷を登り、山頂に着いたのは10時でした。山頂下の鎖場で左足が引きつり、それをカバーしながら登ったら右足もつってしまい往生しました。昔はこんなことはなかったのですが、最近午後になると引きつりそうになることがあります。特に岩場の登りで全体重をかけるときに起こるようです。老齢と水分不足が原因だと思いますが、午前中につったのは初めてです。それでもふくらはぎではなく、大腿部の後ろ側でしたから大事にはいたらず、だましながら登りました。下山は血ノ池コースに回って温泉に戻ったのは午後3時。久々に歩いた1日でした。翌日引きつったあたりが痛みましたが、山から帰って足が痛んだのも記憶ないぐらい久々でした。最近楽な山ばかり登っていますから……。石仏があればそのつど休めますから、それがなかったことも原因かな。

 


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