森吉山(もりよしざん) 熊野三所権現(くまのさんしょごんげん)
【データ】森吉山 1454メートル▼25000地図 森吉山、阿仁合▼最寄駅 秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線・阿仁合駅▼登山口 秋田県北秋田市阿仁鍵ノ滝の阿仁スキー場▼石仏 森吉山山頂
【案内】江戸時代の享和2年(1802)、菅江真澄は森吉山の北西になる様田登山口からこの山へ登り、「むかしは夏草を刈るためにのぼる人さえ、きびしい潔斎をまもったが、このごろになってからは、軽く精進して参拝にのぼるようになった」と嘆いている。そして今回、真澄には申し訳ないが南西の阿仁スキー場のゴンドラを利用して、真澄がいう中岳直下まで登ってしまった。その中岳(真澄は森吉山には前岳・中岳・向岳の三つの峰があるとしている)の森吉神社について
は、「石塔のもとに堂があり、石の薬師像をおいて、これを森吉大権現としてあがめ奉っている」と書いている。そのお堂には不動明王があった。そして向山とした森吉山山頂にも「薬師如来をおいて、森吉の神として奉っている」と記している。その記録どおり森吉山山頂には薬師如来が奉られていた。そして真澄の記録にはない頭部のない立像の石仏が3体。これを持物と印相から薬師如来(左手に薬壺をのせる)、聖観音
(左手で蓮華を持つ)、阿弥陀如来(来迎印)と見た。さらにこの三尊こそ熊野三所権現、つまり本宮(阿弥陀)・新宮(薬師)・那智(千手観音)の本地仏に違いないと判断した。ただその根拠となる森吉山の修験道の資料はまだみていない。真澄の記録には「むかしは麓に寺があったが、いまはただ森吉山竜淵寺という寺の名ばかりがわずかに残って、修験者の家で守り奉っている」とだけ記されている。東北の山に薬師の石仏が多い一つの理由は、このような熊野信仰が背景となっているに違いない。
【独り言】森吉山では、この山の自然を守るNPOの「冒険の鍵クーン」の皆さんから山や石仏の情報をたくさんいただきました。その一つがにメンバーの村田氏から聞いた山中にある墓地の話。帰りにそれらしき所を探してみるとすぐ見つかり
ました。それは阿仁荒瀬と阿仁スキー場を結ぶ荒瀬川沿いの林道の途中、道路をはさんで庚申塔が立つ杉林の中で、大正の年号が入った墓標がいくつも藪のなかに隠れていました。阿仁は江戸時代初頭から森吉山山麓の鉱山で知られた街ですから、これもその関係の墓地からと思いました。しかしそうではなく、江戸時代から続いた林業に従事した人たちの集落だったようです。佐藤晃之輔著『秋田・消えた村の記録』(1997
年、無明舎出版)によると、昭和40年代に行政による「集落再編成事業」がすすめられ、70もの集落が集団移転したという。これに過疎化による自然消滅も含めた125の消滅集落を紹介したのが、この本です。私がみた墓地はこの本に採り上げられた「櫃畑(ひつはた)」でした。本には「村の始まりは寛文12年(1672)で、水戸浪士石田名右ェ門が開拓。電気の導入は昭和38年、電話は開通されなかった。昭和46年集団移転。墓地は移転」などと紹介されていました。日本は開発が進んで、人の行動地域は広がっているように見えますが、山を歩いていると人が住む範囲は年毎に狭くなっているなあー、と感じます。
森吉山に登ってきたのですね。
私も夏休みに東北の山にいくつか登ろうと思っていますが、その中の一つで今から楽しみです。
東北は温泉も沢山あり、特に湯治場がいいですね。
今朝は梅雨のあいまの晴天で常念岳が初夏の山に変貌しています。 安曇野・穂高
森吉山で、久々にシラネアオイを見ました。
数年前の岩手山以来のシラネアオイです。
それに、残雪の山を歩くのは気分がいいですネ。
関東の山ばかり歩いていると、特にそう思います。
今回は羽田から秋田へ飛び、レンタカーで回りました。
「菅江真澄遊覧記」を読みながらの、忙しい山でした。