偏平足

山の石仏と独り言。

石仏337子持山(群馬)

2011年09月08日 | 登山

子持山(こもちやま) 十二様(じゅうにさま)

3371【データ】子持山 1296メートル▼25000地図 鯉沢、沼田▼最寄駅 JR上越線・渋川駅▼登山口 群馬県渋川市中郷の子持神社奥の院▼石仏 子持山南方の小ピーク

【案内】十二様は山の神。その正体は石仏205雨乞山(群馬)を参照3372 3373 いただくとして、子持山の柳木ヶ峯に十二様の石祠がある。狭い山頂に鎮座する流れ造りの屋根の小さな石祠で、側面に「奉造拾二宮」とある。また「元文二(1737)」の銘もある。山の神の認識と信仰は狩猟時代から続いているのであろうが、十二様などを含めて石造物として祀るようになったのはいつの頃からか、造立年代の統計はみていないので、元文2年が古いもかどうかわからない。ただ、旧子持村編さんの『伝承と路傍の文化』によると、この村の最古の十二様石祠は寛文5年(1665)で、元文前後に集中的に造られている。また男女双体の十二様木像が多く残されている群馬県川場村の諏訪神社には、享保19年(1734)銘墨書がある厨子に納められた整った像容の木像があり(『川場村の文化財』第1集)、大護八郎著『山の神の像と祭り』には「享保2年」銘のあるものを最古の山の神石像と紹介されているので、いまから3百年前の享保・元文の時代に山の神・十二様を祀ることが一般化していたことは間違いない。柳木ヶ峯の十二様には「十八第目別當 栄冨」の銘もある。この別当は山麓にある子持神社を管理していた本山派の大乗院。大乗院がどれほどの修験であったかは不3374 明だが、いずれにしても十二様を建立するにあたって宗教者がかかわっていたことを示すものである。柳木ヶ峯の先が子持山の山頂。ここには昭和52年に立てられた「十二山神」の石碑ある。

【独り言】子持山に十二のつく地名がありました。国土地理院の地図にはありませんが、地元で配布している案内には「十二」、現地の標識には「牛十3375 3376 二」とありました。牛十二は何を意味するのか、十二様を祀ったものか、それとも別の目的なのかはわかりません。それは子持山の南、柳木ヶ峯から大ダルミを越えた先ピークです。そこにはとてつもなく大きな石祠がありました。高さ1メートル、屋根の一辺が90センチ、室部正面の幅は75センチもある大きなもので、群馬では石殿(せきでん)と呼んでいる石造物です。室部内側はくり抜いてあり何もありませんが、この形の石造物には建立当時決まって石仏が祀られていたものです。それも十二様のような山の神ではなく、如来や菩薩の御堂として、あるいは地位のある武士階級の墓石として建立されてきたものです。室部正面には丸窓が二つ、四角の窓が一つ。まるで人の顔3377 のようです。その脇に年号らしき銘がありました。その年号、拓本を採った結界「慶長十九年甲(1614)」と読みました。今から四百年前の戦国時代末期の造立ということになります。ただ旧子持村編さんの『伝承と路傍の文化』には「享保十九年(1734)」とあります。確かに享保19年の干支は甲寅ですが、慶長19年も甲寅。しかし草書体の銘であること。それに石殿という石造物のほとんどが、戦国時代末期から江戸時代初期のものであることを考えると、慶長十九年という年号も読み違いではないと思うのですが……。

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