偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏610金山(群馬)呑龍、八海山大頭羅神王

2015年09月28日 | 登山

金山(かなやま) 呑龍(どんりゅう)、八海山大頭羅神王(はっかいさんだいづらしんのう)

【データ】金山 239メートル▼最寄駅 東武伊勢崎線・太田駅▼登山口 群馬県太田市金山町の大光院▼石仏 大光院境内。地図の赤丸印。青丸は八海山大頭羅神王▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】呑龍 太田市街の北に広がる金山は、室町から戦国時代かけて山頂一帯を利用して造られた山城があった山。しかし戦国時代末期に廃城となり、今は石垣が残るだけである。江戸時代になってこの山麓に大光院という寺が建てられた。建立に動いたのは徳川家康。徳川家の先祖を新田氏として供養するための建立で、呑龍を招聘して開山とした。

 呑龍(1556‐1623)は浄土宗の僧。『日本仏教史辞典』には、「生まれは武蔵野国埼玉郡一ノ割村(現春日部市)。増上寺で習学し宗脈を伝授。慶長18年(1613)、徳川家康の命令で大光院の開山となった。庶民教育に心をくだき、生活困窮者の子供を引きとって教育したため、今に子育て呑竜として、土地の人から尊敬されている」とある。そこに舞い込んできたのが禁をおかして鶴を殺した男・源次兵衛。大光院の境内にある「孝行源次兵衛の墓」の案内には「元和二年(1616)孝心深き武州の一郷士、病父に鶴の生血を服せしむべく、国禁を犯し保護鳥の鶴を殺す罪状総べて発覚し、(呑龍)上人の徳高きを聞き(保護を)求む。上人為に栄誉高き僧階をすて、(源氏兵衛を)伴いて信州に逃れて救済さる」(句読点、カッコ内は筆者)とある。信州に逃れ隠れた呑龍は5年後、許されて大光院に戻ったという。


 大光院の境内奥、金山への登山口に呑龍の無縫塔(むほうとう)が立つ。その手前には鶴を供養した「鶴塚」がある。無縫塔は住職の墓、その形から卵塔とも呼ばれている。卵塔については丹沢・大山で案内した。



【独り言】八海山大頭羅神王 大光院の呑龍墓地の先が、山城があった金山への登山口です。山頂本丸跡には三つの神社が鎮座していました。一つは新田義貞を祀る新田神社で明治になってからの建立。一つは新田神社の宮司が祀っている稲荷神社。そして木曽の御嶽神社です。神社の案内によると、金山山頂の草むらにあった御嶽神社銘がある石祠と山麓にあった御嶽大神の社殿を、近隣の御嶽講の数百名の人たちと計って、明治6年に建てたもののようです。新田神社も明治6年の建立ですから、江戸時代の末期の金山は御嶽信仰の拠点となっていて、新田神社を建立するにあたり、御嶽信仰の組織の承諾のもと現在のような二社並列する形になったようです。


 御嶽神社の裏手に二体の石像が立っていました。台座に「八海山」「三笠山」とあるので、御嶽三座神の八海山大頭羅神王=写真上=と三笠山刀利天宮=写真下=です。三笠山は剥離が進んで見る影もありませんが、八海山は健在で、宝珠を重そうに持つ手としもぶくれした腹が滑稽です。


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