前回記事で、「日立、人工知能で従業員の幸福感向上に有効なアドバイス」という件についてピックアップした記事であるが、しかし違和感が残る。
日立関係者で本当に身を粉にして働いている人たち、真摯な人たちを私は何人も知っているが、それと同時に潰れて出社できなくなった人たちも若干知っている。
日立では、仕事の結果を出すレベル、求めるレベルが高いから、という点もあるのだろうが、それと引き換えに自分の身を守れなくなった時、そのレベルは企業として正しいのかもしれないが、労働者にとって本当に幸せなのかを考えねばならない。
産業革命期でのイギリスの労働者を見てみよう。
ここでは、「表向き」の労働時間が一日12時間であり、
「リバプールでは、一八四〇年には上流階級(紳士階級、自由職業者等)の平均寿命は三五才、商人と上層手工業者のそれは二二才、労働者、日雇労働者および僕婢階級一般はわずかに一五才にすぎなかった。」とする。
http://www.kikukawa-dent.jp/article/14290508.html
私は想像する。
昨今ではそれが是正の方向へ向かったものの、そうしたレベルまでになってしまったのは、さながら、それが社会にとって当然であって、問題意識が利益や現状に拮抗や圧倒をしなかったが為、つまりそれが一部の常識となってしまったがために引き起こされたのではないか。
簡単に言うと、外部からは問題を問題として認識できるが、当事者ではある種当然の慣行になってしまっているが為に、問題の認識と解決が延引されてしまう原因になってしまうのではないかという危惧である。
これは現代にも当てはまる。昨今、安倍首相が
「時間外労働が100時間を超えた企業に対する労働基準監督署の立ち入り調査の基準を、80時間に引き下げることなどを実施する。」と労働問題に踏み入って言及してくれたが、これに反する例を私は経験した。
私は2007年の8月のプロジェクトに入る前に「どれだけ残業をやってもいいから、親会社のノルマを達成する為に働いてくれ」とXさんという方から頼まれ、そのプロジェクトで超過残業時間が100時間を超え、それを真正直にそのまま時間報告を提出したところ、「ノルマを達成できたのはいいんだが、今度は労働問題がうるさくて、100時間を超えるとインパクトが大きいから100時間を超えないようにつけてくれ。除いた分は翌月に繰り越していいから」と言われ、私は「はい、分かりました」と答えてその通りにしたこともあった。これに関して、誰もうんともすんとも言わなかったので、その当時はその職場ではそれが当然で当たり前であったようである。
そのプロジェクト期間中は慢性的な疲労があったものの、体重の変化はなかった。だが、プロジェクト終了後、2007年の9月に計った体重と2007年11月に計った体重を比べると、私の体重は8kg減っていた。
これが当時の私の働いていた職場の基準である。
「人工知能で従業員の幸福感向上に有効なアドバイス」を発表した日立がその通りであるかどうかは分からないが、しかしそうしたことを経験した私からしてみると、「幸せや普通の基準というのは職場や世界ごとに異なるので、日立という一つの会社が一概にその基準を決めることはできないのではないか」という疑問が頭をもたげるのである。
二ヶ月で8kg体重が減るようなプロジェクトに投入して、その後うんともすんとも言わぬ存ぜぬを決め込んでいるような職場が日立にあるとは思えない。ただ、私自身は会社づとめにおいてそういう実体験を体験してしまったので、私には、「社会にそれが100%無いとも言い切れない」という立場になってしまったのが実情だ。
本件に関して「人工知能で従業員の幸福感向上に有効なアドバイス」を進めている日立には全く関係の無い話で申し訳ないが、しかし本当のところ、「これが幸せである」と決めたその基準が本当に幸せなのかという議論をきちんと詰めねばならない。
島原藩では、当然の如く農民による叛乱が起きた。松倉氏支配の当時は九公一民である。起こった乱の名前は島原の乱と言う。
江戸時代に租税が五公五民になった時には一揆が増加傾向を見た。
フランス革命時のアンシャンレジームでは第三身分の税金の負担率は80%であった。結果、革命が起こった。
これらは社会がそう要請しているからと口実をつけた収奪の割合である。農民達からはこれだけ収奪しても大丈夫だろう、納得するだろうという幸せの割合である。しかし反乱が起きている。幸せの基準とは一概に決められるものではない。
それに、これは哲学や社会学、心理学の領域だ。その方面での理論的確証は得たのだろうか。
幸せの基準とは、一部の誰かが恣意的に決めていいものなのだろうか。
それがいいとするならば、それはなぜいいのだろうか。
理論が優れているから? その理論はなぜ優れているのか?
それならば、冒頭のこのハピネス診断に戻るが、この基準をマック赤坂さんに頼めばいいのではないのでしょうか。
京都大学出身の彼は、ハピネス理論というものを確立し、一応体系化しています。
「今日はヒャアピネスを多めに取りましょう。」
「元気の無いあなたは20度までやってみましょう」
「今日は創業日なので全員30度まで」
そんな診断が下されたら本当にやるのか。
というのは冗談ではあるが、しかし誰かが決めた幸福度というのは一般的に通底するものではない。
そもそもが高稼動、高負荷ではあるが、高収入である日立の社員達の基準が世間的に見て一般の幸福度と同じかというとそれは違うように思う。
どこをどうやって幸福なのかを決めるというのだ。
アリストテレスの時代に戻って、幸福とは絶対的尺度で測れるというイデアを持ち出すべきなのか。それとも年収や残業時間の多寡や出世で相対的尺度での幸福を測るのだろうか。
これはいつしか恣意的に悪用されはすまいか、と危惧を覚えている。