とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

哲学「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」

2018-04-29 23:11:20 | 哲学・社会

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、英: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形、

「なぜ宇宙があるのか?(Why is there a universe?)」
「なぜ世界があるのか?(Why is there a world?)」
「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

などの形でも問われる[注釈 2]。


私なりの回答をすれば、「人間の認識が全てだから」になる。

「ある」部分は人間が認識できる。「ない」部分は人間が認識できない。ただそれだけである。
これを展開していこう。

人間が「何かがある」と考えるのは、手にとって認識できたり、伝聞や記録によってその世界を仮説として構築しうるからである。
何もなければ人間の脳細胞もないので、認識そのものができない、と言うのは当然だが、それ以上に世界の一部から人間が構成されている以上、人間がその一部しか認識できないのは当然のことである。

6世紀のエジプトにいた、キリスト教地誌を著したコスマス・インディコプレウステスは、我々の住む世界、宇宙の構成は、山と海が箱の中に入っていると規定した。それが聖書に書かれているからである。
現代ではこれが当然ながら否定される。しかし当時のコスマス僧の主張は大真面目だ。それがキリスト教での全てであり、この世界の真実であったわけである。
山と海と空の星は、確かに存在するし、人の目には確かにそのようにあるように見える。
ここでコスマス僧を我々は笑うことはできない。
どのように存在するのかという規定や作業仮説そのものが無かった時代のチャレンジなのである。

2世紀のローマの学者プトレマイオスは、地球が宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説を唱えた(が、これはシェイクスピアの説話の集約と同じく、既存の説を集合させたものである)。
太陽と月、金星と火星の動きは確かにそのように見える。
しかしここでプトレマイオスを我々は笑うことはできない。
どのように存在するのかという規定や作業仮説そのものが無かった時代のチャレンジなのである。


現在においては、時間とは何か、空間とはなにか、光とは何か、重力とは何か、電波とは何か、最外殻電子がどのように規定されるのか、その哲理的な理由を我々はある程度規定はしているものの、真理には辿り着けていない。
将来、未来の人々に笑われるようなことを我々は考えているのだろう。しかしそれを打破しなければならない。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」

それは世界の有存在という土台の上に人間と言う顕微鏡やら望遠鏡が立ち、そこからの分析を体系化しているだけなので、土台の外は見えない。それだけである。

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